2009/12/26

今年一年、有り難うございました。

 今年も一年「森の囁き」を読んで頂き有り難うございました。本当に拙い文章を読んで頂いて感謝しております。本当は誰も読んでないんじゃない?という不安(笑)と戦いながら気が付いてみたら今年も最後の「森の囁き」になりました。

 今年一年を振り返ると人間界は変化の大きい年でした。経済の悪化に伴い失業や経営破綻が相次ぎ永遠に続くと錯覚していた経済成長神話はもろくも崩れ去りました。

 そんな訳ないと皆、心の片隅では思いながら信じていた経済成長もやはりそんな訳なかった訳で・・・その原因はアメリカの長期プライムローンだとかあれやこれやと経済アナリスト達がノタマイ結局、庶民には何の事やら分からないけど兎に角、会社が大変らしいとひたすら我慢を強いられる毎日です。

 これはやはり政治が悪いんだと長期安定政権に見切りをつけて庶民は変革に舵を切りました。これは大変な勇気がいることだと思います。今まで批判していれば良かった野党がこんどは立場が逆転して批判される側に廻るのですから。

 当然、立場が変われば意見も変わる訳で・・・これからが正念場ですね。余り早くに結果を求めるのは酷というものでしょう。折角、変革を求めて決断したのですからもう少し長い目でみて少なくてもその変革の路線だけは変えないようにして欲しいものです。

 それにしても我々庶民の暮らしはどうなっていくのでしょう。私はこれからは心の健康が最も大事になっていくと思います。日本は一定の経済成長を遂げ世界の先進国の仲間入りをしました。これからは国民の心の安定を図るべきだと思います。

 気が付けば「路上生活者が増え」「自殺者が増加し」「新生児の出生率が落ち」では未来はありません。日本国憲法は基本的人権について「すべての国民は、個人として尊重され生命、自由及び幸福追求に対する権利を有する・・・」と規定されています。大金持ちになれなくても良い(なれないか・・・)からせめて心の安定が得られ、贅沢に暮らさなくても良いから3食を家族と一緒に食べられる幸せ・・これこそが心の安定に繋がると思っています。

 身体の健康も勿論、大事だけど身体の健康は心の健康から生まれるのでは?と最近特に考えさせられます。皆、病気すると医者に行くけど心の病は誰にも相談出来ず一人で思い悩むなんて事はありませんか?私にも心の病に掛かりそうになった事があります(誰だ!嘘だろなんていう奴は・・・)そんな時に助けられたのは身近な家族や友達でした。

 私にとって最大の幸せは何でも話せる家族や友人やスタッフがいるということです。その為には自分を隠す事無くさらけ出す事が必要です。どうぞ皆、一人で悩まないで廻りの人に相談して下さい。あなたは一人ではありません。

 さて、今年も残すところあとわずか・・来年はどんな出会いが待っているのでしょう?今からワクワクしています。お金は無くても(シツコイ・・)夢があれば、希望があれば、人は生きていけます。

 お金が無ければアイデアを出しましょう!工夫しましょう!そうだ来年はこれをキャッチフレーズに行こう!(ひたすら単純人間)何て事を森の中で考えているうちに年末を迎えました、今年も一年このブログを読んで頂いた皆さん、本当に有り難うございました。来年が皆さんにとって素晴らしい年になりますようお祈りしております。希望と夢を持って来年も頑張りましょう!

2009/12/20

今年最後の訪問者

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真夜中、気持ちよく布団の中で寝ていると外でガタンという大きな音がした。「何だ、何だ」とすっかり目が覚めてしまったけど真っ暗闇の外にでて確かめるには寒すぎて体が動かない。

 マア、外は氷点下6度の寒さ、泥棒も命がけでこんな山奥にくる奴もいないだろうと自分で納得してもう一度布団を被った。翌朝、家の周りを調べてみても特に異常はない。デッキに立て掛けておいた板が倒れていたので「風で倒れたのか?そんなに吹いてなかったけどな?」と思いつつ、余り気にもしなかった。

 それから数日たった今日、夜、食事を終えて女房と家でTVを見たいたら又「ゴトン」という音がデッキからした「何?あの音?」「見てみろよ、みりゃ分かるよ」と何気なく女房に答えたら、すぐにデッキの窓のカーテンを引いて外の照明をつけた女房から悲鳴が上がった「父さん!早く来て!私の柿が!」

 慌てて女房の横に駆け付けて外を見た景色が冒頭の写真。そいつはカメラを向けても特に驚くでも無く逃げるでもなく悠然とデッキに干していた干し柿を引っ張っている。

 「あれ、イタチよね」「イタチじゃないだろ、テンじゃないの?」「えっ!野生のテン!」「そりゃそこに居るんだから野生でしょ」「え~それにしてはずいぶん太ってない?どこかのペットのフェレットじゃないの?」「フェレットってそんなにでかくないだろ」「そう?」という会話の最中にも彼(彼女?)は全然、こちらを気にすることも無く女房が楽しみにしていた干し柿を引っ張っている。

 「もう、それはあげるから、全部はダメ!後は返して」と女房殿がノタマイ彼(彼女)は「チェッ、ケチッ」と言ったかどうか知らないが悠然とデッキから姿を消した。

 後で調べてみたがやはりテンのようですね。やれやれ、以前、寝室の天井の中でガリガリ天井板を齧っていたのはお前じゃないよね・・・

2009/12/12

2009年、今年の超私的重大ニュース

 2009年も残すところ後、3週間足らずとなりました。今年、自分なりに思う重大ニュースを思い出すままに振り返ってみました。

 ①WBC世界一達成、言わずもがなですが今年のWBCはハラハラしましたね~イチローの調子が中々上がらず苦戦しましたが最後の最後にいいところで打ってくれてこれぞ筋書きのないドラマの真骨頂でした。

 ②民主党、衆議院選挙圧勝。長年続いた自民党政権がとうとう倒れ国民は変化を求めました。ようやく新しい政治の時代が始まりました。

 ③映画「おくりびと」がオスカー受賞。映画のプロデユ―サーの一人が知り合いという贔屓目を差し引いてもこの映画がまだオスカーを取るとは分からない段階で初めてこの作品を見た時、これは間違いなく今年一番の素晴らしい作品になると思っていました。日本からこの様な素晴らしい作品が生まれた事を誇りに思いましたね~

 ④映画「いのちの作法」自主上映のお手伝い。知り合いのペンションのオーナーがこの映画を都内で観て是非、この映画を北杜市で上映したいという思いが多くの人の輪を広げ長坂コミュニテイーホール始まって以来の昼夜2回公演を満席にするという快挙となりました。私はほんの一部分をお手伝いしただけですが、この映画の自主上映に関われた事で又、人の輪が広がりこの映画が伝える「いのちの尊さ」を共有する人の輪に触れて幸せでした。岩手県沢内村で行われてきたいのちの格差のない行政「生命行政」が日本中に広がる事を祈ります。

 ⑤元外務大臣、柿澤弘治先生を偲ぶ。八ケ岳をこよなく愛し我々とも本当にフランクに接してくれた柿澤先生が亡くなられました。一緒に自転車で遊び、露天風呂に入りその度にその人柄に惹かれた素敵な方でした。ご冥福をお祈り致します。

 ⑥北杜市を舞台にした長編小説「約束の地」発刊。北杜市白州町在住の作家、樋口明雄氏が書いた「約束の地」が光文社から好評のうちに発売されました。この本は今年読んだ本の中でもトップの面白さでした。別に自分が住んでいる北杜市(作品中は八ケ岳市)が舞台だからというだけではなく久しぶりに最初から最後まで読む人を惹きこむ長編冒険小説に出会いました。本人にも直接お会いして色々な話を聞かせて貰いました。これからの彼の作品が楽しみです。

 ⑦背中の皮下腫瘍摘出。長いこと後生大事に背中に背負ってきたデキモノを取ってしまいました。悪いものじゃないからと放っておいたのですが思い切って取ってしまってすっきりしました。でも、先生からはまだ経過観察するので病院に出頭するように命じられています。やれやれ・・・

 ⑧別荘管理会社倒産。我が家の共同井戸を管理していた管理会社が倒産しました。この管理会社は隣接する広大な別荘地の管理も行っていたので一時は騒ぎになりましたが先日、ようやく裁判所から手紙が届き破産手続きが開始されたようです。管理費を払ったばかりだったのですがあれはどこへ行ってしまうんでしょうね・・・とりあえず水を汲み上げるポンプを止められたら困るな~川に水汲みにいかなくちゃ(それどころじゃないって!)

 ⑨新型インフルエンザ世界的流行。我が家の息子も学生寮で新型インフルエンザ患者第一号になりました。部屋に隔離され2晩ほど死んでいたようですが今は無事、復活し元気一杯です。息子よその抗体を父さんに分けておくれ。

 ⑩我が家を襲った今年の天敵達。今年は天井の中に色々な天敵が入り込み壮絶な戦いの日々が続きました。一番はスズメバチの連中、今年は2回も穴を開けられ天井に中に巣をつくられて命懸け(オーバーか・・・)の戦いを繰り広げました。その次は野ネズミ、何故か明け方になると私の寝ているベッドの真上をかじりやがってその煩い事煩い事・・カリカリカリカリと畜生!大事な家を齧りやがって(笑)

 その他、今年、私の前を横切った山の生き物たちのご紹介。鹿20頭ほど、ウサギ3羽(うち1羽は100m程車と並走)、アライグマ3頭程、巨大イノシシ1頭、キツネ10頭ほど、池から出てきた蛙数百匹、タヌキ2頭、テン1頭、ノリスの様な鳥(姿ハッキリせず)2羽、カラス20羽程度、我が家の床下にすむ蛇2匹(多分)、同じく我が家の床下に住むカマドーマ数千匹、時々訪ねてくる猫2匹、リス10匹程、やれやれこんな事書くとこの人どんなとこに住んでるだろうと思いますよね。一応、人も住んでいますので誤解のなきよう(笑)

2009/12/05

中年中女喜びのコンサート

 先日、とある近くのコンサートホールになにやら中年中女が集まり楽しそうに何かが始まるのを待っていました。かくいう私もその中の一人なのです。待っているのは集まった中年中女が過した青春時代を共に駆け抜けたミュージシャン達のコンサートの開始ベルです。

 一見すると「今日は演歌か何かですか?」て言われそうな集団なんですけど演歌ではないんですね。「なごみ~ず」というユニット名になっているんですが。メンバーは「木綿のハンカチーフ」の太田裕美、「22才の別れ」の伊勢正三、「学生街の喫茶店」のガロの大野真澄の3人のユニットなのです。マア、そうは言っても今の若者には「誰、それ?」という人の方が多いと思うのですが間違いなく現在5060代の方達には自分たちの青春時代のバックには必ず流れていた彼等の曲を一度は聴いている筈です。

 私も10代の青春時代を彼らと共に過しました。アルバイト先のカバン屋さんの昼休み、近くの喫茶店に昼食の定食を食べに行き、そこに置いてある公衆電話から店に流れている有線放送の放送局に彼等の曲をリクエストし昼食中に誰のリクエストが掛かるか何て競争を毎日の様にしていました。

 丁度、「木綿のハンカチーフ」が大ヒット中で当時、自分が東京の大学受験に合格し正に曲の中の詩と同じように親元や高校時代を共に過した友人達と離れ不安と期待に心を揺らしながら新しい生活をスタートさせようとしていた時代と重なり今でも彼等の曲を聴くと鼻の中がキュンとしてきてしまいます。

 まさか当時、夢中になって聞いていた彼等の曲を八ケ岳のコンサートホールで生で聞くようになるとは思ってもいませんでした。年齢的には彼等とはほぼ同世代なので当時、10代~20代で若くて颯爽として間違いなく一世を風靡した彼等もそれなりの経験と年齢を刻み円熟味を増してはいましたがそれでもいざ、コンサートが始まるとすぐに当時のままの演奏がよみがえり自然と心の中がタイムスリップしてしまいます。

 音楽の力というものは本当に凄いな~と改めて思いました。クラシックにしてもポピュラーにしてもジャズにしてもどうして音楽というものは人の心を揺り動かすのでしょうね。懐かしい曲を聴いているだけなのに何故か当時の自分の姿が蘇ってきて又、どうしてそれで涙が出てくるのか自分でも良く分からないのですがそれだけ当時、多感な時代を過ごしていたと言う事でしょうかね。

 3人のユニットも当時では絶対、考えられないような組み合わせで、年齢を重ね、ある程度の落ち着きを持ってきたからこそ出来たユニットだろうと勝手に想像しています。何せ当時の若者にとってはどの曲も青春のバイブルの様な曲で、その曲の中で歌われている詩の内容がその時代の若者の生活を正に代弁している様なもので楽曲を演奏していた彼等も神様のような(ちょっと大げさか・・・)存在でしたからね。

 3人共、それぞれ年齢を重ね演奏の途中のMCでも子育ての話や物忘れの話など、それぞれが過してきた時間の経過を隠す必要なく舞台上で披露する事が出来る歳になっていましたが、彼等の演奏はそれでも衰える事無く中年中女の心の中に感動を与えてくれました。

 思わず、彼等の100回公演記念アルバムを演奏終了後にゲットしてしまいました。山梨での公演で通算141回目だと言っていましたがそれはそれで凄い事ですよね。そうでなくては山の中で生活する人間には中々直接、生演奏を聴く事なんて出来ないですからね。

 久しぶりに自分の青春の1ページを切り取って懐かしく眺める事が出来た時間でした。人は誰でも自分の大切にしている心の音楽をどこかにしまっているものなのでしょうか?時々、それらを引き出して眺めてみるのも良いものですね。

2009/11/28

昼食・給食・お弁当の思い出

 考えてみるとこのところ子供達がすっかり成長し親元を離れてから我が家ではお弁当制度を廃止してしまったのでもっぱら毎日の昼食はコンビニ弁当で済ませています。水は我が家の井戸水が美味しいので毎日ペットボトルをリサイクルして洗浄し、その中に井戸水を入れて持ってきています。

 私の記憶の中にある給食並びにお弁当の思い出は幼稚園の頃からだろうか?ガキ大将で暴れていた頃の幼稚園の給食は良く思い出さないのですが同じく劣等性だった小学校の時の給食で強烈に覚えているのが私の中であの悪名高い脱脂粉乳でした。

 兎に角、私には耐えられない味で泣きながら飲んだ記憶があります。特に、飲めないものだから後回しにしていると表面に幕が出来てしまいそれが又、気持ち悪くて絶えられない味でした。それが今でも尾を引いてすっかり牛乳嫌いとなってしまいました。

 但し運動会の時は脱脂粉乳ではなく瓶に入った牛乳が配られたのでそれは何とか飲むことが出来ました。

 中学時代はアルマイトのデカ弁を母が作ってくれてギュウギュウに詰めたご飯が冷めていても美味しく質より量がモノを言う時代でした。そういえばいつもご飯の上にフリカケが掛かっていてそれが弁当箱の蓋に付いてしまい困りました。それでも部活の帰りにはお腹が空いて近くの店でオデンやら何やらを腹に詰め込んで帰っていました。

 大学時代にはもっぱら学食でしたね~やたら量だけはあってしかも学生食堂なので値段が安く貧乏学生には本当に助かりました。自分の大学の食堂では飽き足らずもっとメニューが豊富で女学生が多かった隣のT大の学食へも通い少しドキドキしながら食べていました。

 そういえばあの頃は夕食も学食で食べたりご飯だけ自炊しおかずは下宿先の近くにある商店街に行って一番安いコロッケとかを買ってきて食っていましたね。コロッケ類は値段の割りに種類も色々あって腹も張るので週に2,3回は買っていました。

 就職が決まりオフィス勤務になってからはもっぱら近くの食堂で食べるか会社が用意した社員食堂で食べるかになりました。その頃は新丸ビルにオフィスがあったので昼食時になるとOLやサラリーマンで近くの店は戦争状態となり昼休みの時間をいかに有効に使うかが勝負の分かれ道みたいになってましたね。

 建築現場に出向で行っていた時代は専ら現場で取る仕出し弁当が命をつなぐ源でした。何せ当時、回りには何も建っていない現場でしたので食べにいくのも大変だったので夜食も全て食堂に出前を頼んでいました。

 現場での仕事は兎に角、汗をかいて重労働なので晩飯だけが楽しみのような生活でした。新人は現場の所長や主任達先輩の注文を聞いて出前を頼むのが仕事でしたので時間がくると忘れずに注文しないとエラク怒られる事になります。あの時代の夜食はカツライスがやたら人気だったような気がします。

 その後、脱サラして八ケ岳に来てからは子供達の弁当と一緒に女房が毎日、お弁当を作ってくれてそれを食べる生活が20数年続きました。考えてみれば女房は八ケ岳に来る前から造っていたわけでそうすると30年近く弁当を造り続けてきた事になりガバイバアチャンではないけどそれはそれで大変な事だと思い、女房には本当に感謝しています。

 私の知り合いでご主人が自分のと奥さんのお弁当を両方造っている方がいますが、その話を聞いたときには本当に尊敬してしまいました。自分でも料理しないわけではないけど自分と女房の分、両方を毎朝つくる自信はとてもありませんからね。

 最近のコンビニ弁当は本当に色んな種類があり研究されています。忙しい時はついついコンビニでサンドイッチとコーヒーを買って車を運転しながら胃の中に流し込むなんて事もしょっちゅうですが本当は良くないですよね。分かっていても時間が惜しくてついついやってしまいます。

 今まで一番美味しかった弁当って何だろ?やっぱり子供達がまだ小さくて近くの公園に家族で出掛けて芝生の上にシートを広げて食べたオニギリの味が一番幸せだったような気がします。

2009/11/22

森の住まいの休日

 このところ忙しくて3週間振りに休みがとれた朝、貴重な晴れの一日なので溜まりに溜まった家の用事を片付ける事にした。まずは遅めの朝食を取ってから作業着に着替えて頭にタオルを巻いていざ我が家の屋根に出陣!

 実は我が家の屋根は森の中に建っているのと雪が溜まり難い様に勾配のきつい切り妻屋根になっている。その時は問題無かったのだが色々あちこち増改築を重ねるにつれどうしてもその部分は緩い勾配の屋根にする必要がありやむ追えず雨樋と雪止めを付ける事にした。

 その時に覚悟はしていたものの家の周りは深い唐松や赤松の混合林、当然のように毎年この時期になると大量の枯葉が雨あられと我が家の屋根に降り積もり、その結果、雨樋は詰まり屋根の上には大量の枯葉が積り、時にはその大量の枯葉に落ちた木々の種が発芽して屋根の上から木が生える有様となる。

 それで仕方な落ち葉がすっかり落ちるのを待って一年に一度の屋根の大掃除が必要となる訳です。そんな訳で完全武装して一旦外に出て竹箒と靴を持って2階の窓から屋根に出ていざ大掃除を開始。

 屋根の上を足を滑らさないように移動し雪止めにしっかり足を置いて落ちないように気を付けながら屋根の上の方から順番に大量の落ち葉を下に落としていく。

 その時、何故だか最近、特に煩くわめくカラスが寄って来た。このカラス、我が家の近くの木の上に巣を作り住み着いているのだが何故か人が外に出て何かしていると寄ってきて煩く喚くのである。

 今日も人が体を張って屋根から落ちないように必死で作業しているのに近くの木から人を見下ろして「アホ~アホ~」と煩い。そのうち何を思ったか隣の家の屋根に下りてきてこちらを見て喚き始めた。

 何を始めるのかと思ったら何と隣の屋根の上に積った我が家と同じ大量の枯葉を嘴でつついて私と全く同じ事を始めたではないですか!カラスが人の真似をするというのは聞いた事があったけど本当なんですね。どうやら私が屋根の上に積もった枯葉から何か美味しそうなモノを探している様に見えたのでしょうね。

 驚くやら真似されて可笑しいやら屋根の上で大笑い!そういえば昨日も近くの道を車でを走っていると目の前にカラスが下りてきて「危ないな~」と思ったら胡桃の実を道路から拾って飛び立っていった。

 前にも書いたけど連中は近くの胡桃の木から実を取ってきては自分で割れないので車の通行が多い道路の脇に止まって車が通りかかるの待って上空から胡桃の実を落として車のタイヤに轢かせて割ろうとするのです。

 どうしてそんな事を覚えてのか知らないけど、この近くの森には沢山、胡桃の木があるのでこの時期にはその実が大量に連中の手に入るのだけどさすがにカラスの嘴では硬いその実を割る事が出来ない様で、連中の誰かが人間が道具を使ってその実を割っているのを見ていて覚えたのでしょうね。かしこい連中です。

 とにかく、そんなカラスに真似されながらも必死で屋根から落ちないように枯葉を落とし雨樋に詰まった唐松の枯葉を手でこそぎ取り泥だらけになりながら1時間程で作業を終え、やっと下に降りてきてから今度は駐車場に置いたままになっている薪木の山から一本ずつ引き出しては「ヨキ」で割っていきます。

 我が家の薪小屋にはまだ半分ほどしか薪が積まれておらず今年は完全に薪不足、年末にむけて早く割って少しでも乾かさないとお正月が迎えられそうもありません。

 やっとゆっくり休めると思ったけど里山の休日とは家の用事をする日であり地元の兼業農家の方たちも日曜日には畑に出て忙しそうです。こうして里山の冬仕度が進んでいくのです。

2009/11/17

歩き続ける人

 その人と初めてあったのはもう5年程前になる。いつものように朝、事務所に向かって車を走らせていた時彼は向こう側から歩いて来た。少し右肩を下げて体が少し傾いて見えた。もしかしたらリハビリか何かで歩いているのかな?と思った。

 それから毎日、彼とすれ違う日々が始まった。彼は、雨の日も風の日も雪の日も毎日歩き続けていた。私はいつも彼とすれ違うとき右側車線にはみ出して出来るだけ距離を空けるように様にしてすれ違っている。かれはそんな私に視線を送る事もなく、いつも俯き加減に歩いてゆく。

 ある日、休日で自宅からいつもとは逆の方向に車を走らせていたら又、彼にすれ違った。一体、彼はどこからどこまで歩いているのか不思議で仕方なかった。そんな毎日が何年も続いていた時、ふとした事から彼の事が少し分かった。

 仕事でいつもの通勤に使う道をいつもとは違う時間帯に車で走っていたら知り合いに偶然出会い。すれ違って少し走ってから知り合いだと気づいて車を道の横に寄せて止めて挨拶をした。

 「久しぶりですね~散歩ですか?」「いや~健康の為に時々歩いているんですよ」そこで私はず~と気になっていた件の彼の事を尋ねるともなく話してみた「いつもすれ違う人でどんな天気の日でも毎日歩いている人がいるんですよ」「あ~知ってる。うちの近所の人でね、毎日、大泉駅まで歩いていって駅前で体操して又小泉駅まで戻ってきてから又引き戻して自宅に帰るんですよ」と言う。

 大泉駅から小泉駅まで距離としては約6kmだからそのちょうど中央付近から歩き始めているとの事なのでその距離約往復12kmとなる。しかもそれから小淵沢の道の駅へもよく歩いていくとの事、一体、毎日どのくらいの距離を歩いているのだろう?恐らく20km以上は歩いている計算になる。しかも、毎日毎日である。

 5年前、初めて会った時は少し傾いていた体は今ではほぼ普通の姿勢に戻っている。恐らく筋肉がついて歩く姿が直ってきたのだろうと思う。僕は昔、陸上競技をしていたので少しは走る姿勢をみるとその人の癖が分かる。体が傾いている人はやはり左右の筋肉のバランスが何らかの理由で崩れている場合が多い。

 冬の雪に残された足跡を見てもその人の癖が分かる。ある程度年齢を重ねた人はどうしても歩く足の上げ方が弱くなって少し摺って歩くようになり雪の残された足跡もつま先から少し長く雪を摺って歩いたような足跡になってしまう。

 それでも毎日、毎日歩き続ける事により徐々に足が上がるようになり足跡が変わってくる。彼も長い年月歩き続ける事により本人が気付いているのかどうか知らないが次第に体のバランスがとれてきたのだろうと思う。

 しかし、毎日同じ道を同じように歩き続ける事は簡単そうで実はとても忍耐の居る事だと私は思う。どういう事情で歩こうと決心したのかは分からないが毎日すれ違うその姿には執念のようなものを感じてしまうけどそれは他人が勝手に思うことで実は本人はそんな事なくて日常の習慣としか思っていないのかも知れない。

 私にはとても真似は出来そうもない。雨がふっては今日は辞めようと思い、雪が降っては危ないから辞めとこうと言い訳し、とにかく今日は特別だからという言い訳ばかり毎日考えていそうである。

 歩き続ける事、それは人間としての誇りなのかもしれない(ちょっとオーバーか・・・)これから先、あとどのくらい彼とすれ違うのか知らないけどきっと彼は毎日、俯いて私に気付く事はないと思う。

2009/11/10

忙しいのが苦手

 根っからのノンビリ屋なので忙しいのはどうも苦手である。東京でサラリーマンをしていた頃はそれでも週休2日制だったのでそれほど苦にならなかった。大学生の頃は早く社会に出て働きたくて十二分に時間のある学生生活が嫌いだった。人間なんて勝手なものですね。

 八ヶ岳に来てからも最初は勤め人の生活だったのですが、それでも東京時代のサラリーマン生活と同じという訳にはいかずそれなりに忙しかった。なにより肉体労働だったので最初はなまっていた体力が付いていかず苦しかったがそのうちにそれは何とかなった。

 しかし、成り行きで次第に図面を書いたり現場管理をしたりお客様との打ち合わせ等の仕事が多くなり結局は事務仕事に戻ってしまいました。そうなると次第に自分の時間が中々持てなくなり、サラリーマンでありながら労働時間はあって無いようなものになってしまいました。

 今はサラリーマンではないのでどこからどこまでが仕事の時間なのかハッキリした境目がなくなってしまいましたが、どうも性分でプライベートの時間と仕事の時間はハッキリ区別しないと気がすまないもので自分が休みの日は携帯電話の電源も切ってしまうのでよくスタッフからは怒られました。

 朝、出社すると昼間は大体、現場を廻ったりお客様との打ち合わせ等でほとんどの時間を取られてしまうのでプランを考えたり新しい仕事の展開等を考える時間や事務処理の時間はどうしても夜間か自宅に戻ってからになってしまいます。

 そうすると結局、食事の時間と寝る時間以外はほとんど仕事になってしまうので誠に精神的に宜しくない状況になってしまうのであります。そんな事もあって最近はもう思い切って日曜日は定休日にしてしまいました。今までも現業部門は隔週の週休二日制で基本的に日曜日は休みだったのですが私は逆に日曜日は出社してスタッフが居る平日に休むようにしていたのですが次第にそれも支障が出てきたので思い切って日曜日は定休日にしてしまったのです。

 それでも週末にはイベントへの参加依頼や急な要件で仕事になる事も多く、そうなるともう1カ月休み無しなんて事にもなってしまいます。大体、イベントとか地元の仲間との活動等を少し控えれば良いのですが悪い癖で人に頼まれたり面白そうな話のお誘いがくると「それ、面白そうじゃん!やろう、やろう」と安易に引き受けてしまい、後でひどく落ち込む(笑)事の繰り返しなのです。

 先日もイベントに出展した知り合いとの打ち合わせで東京駅の八重洲口で開催されるイベントに参加しないかと誘われ面白そうだったので簡単に引き受けたのは良かったのですが出発が朝の5時、その前に準備があるので4時には集合という事になりその前の日にも東京に日帰り出張があり体力的に自信がなく「それだけは勘弁して。遅れていくから」と言い訳すると「それなら前日から俺のところに泊れば良いじゃないか」と言われその友人は夜が早いのでいつも大体9時には就寝するらしいのですが夜更かしの私にはとても9時なんて寝られる訳もなく・・・今回は我儘を言わせて貰う事にしました。

 いやはや忙しいのはとても嬉しい事ではあるのですが「ボ~」っとするのが無類に好きでもっとも自分にとって大事な時間である私には嬉しい様な苦しいような・・・これって許されない事でしょうかね。

2009/11/02

空を見あげてみませんか?

 子供の頃、良く空を見上げて形を変えていく雲の姿を見ていました。色々な形に変わっていく雲を見続けていてもちっとも退屈しませんでした。あれからウン十年、都会に住むようになり段々空が狭くなり次第に空を見上げる事が少なくなっていました。

 それでも東京駅のプラットフォームから時々見上げるお月さまはとても小さく光も弱く何だか心細い姿で都会の明るい夜空に張り付いていました。

 20年前、八ヶ岳に引っ越して来た時一番、心細かったのは夜の恐ろしい程の暗さでした。本当に漆黒の闇で周りに街灯も有る訳もなく目の前で誰かに叩かれても全く分からない程の暗さでした。そしてその暗さと反比例するかのように今まで見たこともない程の星空が森の中に広がっていました。昔、学生の頃行った沖縄の離島で見た夜空には及ばないもののそれでも寒空の中に広がる天の川は本当に雲が掛かっているように正にミルキーウエイそのものでした。

 先日、オリオン座流星群が降るというので久しぶりに女房と清里高原に星を見に行きました。さすがに星の里、清里高原、夜中だというのに何故か目的地の清里高原の駐車場は満杯、真っ暗なのに多くの人の気配が蠢いていました。

 出来るだけ他の人の迷惑にならないように早々に車のヘッドライトを消して懐中電灯を手に車の外へ、残念ながら流星群を見る事は出来ませんでしたが美しい秋の星空を十分楽しむ事が出来ました。

 高原の空はなにも星空だけではありません。この時期の空は時間の経過とともに美しく色を変え変化していきます。高原の美しい紅葉を従えた美しい抜けるような青空も美しいし、夕方、南アルプスに沈む夕日が醸し出す夕焼けはそれにも増して美しく言葉を失う程です。

 秋から冬に変化していくこの時期、大陸から張り出して来た冬型の冷たい大気が南アルプスや八ヶ岳の山肌に触れ雪雲を造り出しモクモクと真っ黒い雲が頂から湧き上がってきます。これが麓まで伸びると麓の里山に雪をもたらす事になります。

 正に、今日は今シーズン初めてのみぞれが大泉の我が事務所前の道路を白く染めて車のフロントガラスに積りました。気温は0度でした。これから日に日に気温が下がり始め本格的な冬が徐々に迫ってきます。何となく今年の冬は早そうな気がしています。

 そして今日の空には冬独特のちじれ雲が飛んでいました。これからこの雲を見かける日が段々多くなってくると思います。

 先日、高知へ帰る途中、羽田から飛行機に乗り、空の上からその雲を見下ろしていました。普段、見上げてばかりいる雲を空の上から見下ろすと又違った形に見えて不思議です。下から見ると平面的に見える雲も空の上から見下ろすとデコボコとしていて何故、あんな形になるのかとても不思議です。

 遠くの空には発達した積乱雲が大山のように雲の上に聳え立っておりなぜそこだけ盛り上がっているのか不思議です。そういえば飛行機の窓からみていると突然、目の前を黒い飛行物体が凄いスピードで前方から後方にかなり近い距離ですれ違っていきあれには驚きました。さすがにUFOではありませんでしたが恐らく軍用機だったと思います。

 この時期は昼間でも月を見る事が出来ます。都会ではなかなか気付く事もない昼のお月さま、夜空に輝く月とくらべるとさすがに見劣りはしますが昼にお月さまを見つけると何だか得したような気がしますね。

 仕事が忙しくなると何故か空を見上げる事が少なくなります。私は出来るだけ朝は新聞を取りに森の外に歩いて行く時に空を見上げる事にしています。というか必ず見上げてしまうのです。

 森の外に続く一本道の上だけが木々の枝が切れて空が見えているからです。だからどうしても見上げる事になります。冬のこの時期は特に紅葉の後ろに広がる真っ青な青空が美しくて何にも代えがたい程美しい事もその理由かも知れません。

 忙しい毎日を送っている皆さん、たまには空を見上げてみませんか?

2009/10/24

皮下腫瘍摘出手術

 長いこと後生大事に背中に背負っていたオデキを取ることにしました。もう3年程前、フト気が付いたら背中にポツッと小さなオデキが出来ていました。その時は余り気にも留めずに「いつか潰してやろう」位に思っていました。実際、一度思いっきり指で潰してみたのですがこれが上手く潰れなくて返って悪化してしまいました。

 その後は挫折して暫らくほっといたのですが気が付くと段々、大きくなって気持ち悪くなってきました。大きさとしては直径3cm位のどら焼きみたいな形をしてるのですが何となく皮膚を引っ張られているようで気になり始めていました。

 昨年、健康診断で近くのクリニックにお世話になった時についでに先生に診てもらい「先生、切ってくれませんか?」とお願いしたら「悪いもんじゃないし置いといたら」何てよく分からない事を言われ、それでも気になるので「やっぱり先生、切って下さいよ」と再度お願いしたら、「それじゃ手術になるから予約して貰わないといけないな」と言われ、「う~ん、予約しなくては駄目なんですか?それじゃ又にします」何てこれも訳の分からない返事をして又、そのまま放置する事にしてしまいました。

 それから1年、今年は健康診断で別の総合病院にお世話になることになりもうこれが最後と思い内科に掛かったついでに外科に回り手術を申し込みました。患部を診て頂いた形成の先生は若い先生でしたが快く手術を引き受けてくれてその2週間後に手術が決まりました。

 手術当日、午後一番からの予約だったので午前中、普通に仕事をして午後から病院に行きました。予約した時間に受付に行き待合室で待っていると直ぐに診察室に呼ばれ中に入ったらもう手術の用意が出来ていました。

 「それじゃ服を脱いで下さいね」と看護婦さんに促されて上半身裸になって診察台の前に所在無く立っていたら先生曰く「う~ん、どうしようかな?首に近いから診察台に乗る?それとも横になってやる?」と聞かれ「先生、どっちでもいいですからすっぱり切っちゃって下さい」とお願いして診察台の上にうつ伏せに寝ることに勝手に決めて上がり込みました。

 「それじゃちょっと患部に切る形を書きますからね~」といわれなにやらマジックみたいなもので背中に何か書いている感触が・・・「じゃあ、麻酔注射打ちますからね~、痛いですよ~、痛いけど我慢して下さいね~痛いですよ~」「先生、痛いのは分かったから早くやっちゃって下さい」プスッツと注射を打たれ何ヶ所か刺しているうちに段々、感触が無くなってきました。

 そのうちに看護婦さんが「先生○○は3.5、○○は4.0でいいですか?」「う~ん○○でいこうかな~」なんて会話が聞こえてきて「はいっ、それじゃそろそろ切りますからね~」と言われたけどもう感覚は無いので後は何とでもしてくれ状態。

 その内に病室に次々と緊急電話が掛かりその度に看護婦さんが「先生、○○養護学校からで生徒が転んで顎を切ったそうで緊急で診て欲しいそうです」「分かりました。後、何分程で到着するか聞いといてください」又直ぐに「先生、今度は○○小学校からで一輪車で転んで顎を切ったそうです」「は~い。分かりました出血は止まっているか確認してどの位で到着するか又、聞いといて下さい」聞いてた私は「先生、今日はよく顎を怪我する日ですね」等と余計な事を話してうちに先生何故か「う~ん、ヨイショ、ヨイショ、これでいいかな?」となにやら傷口を縫っている様子。

 どうも最後の仕上げに入っていたようでこの先生、若くていかにも優しそうな先生でやたら手術中に「ヨイショ、ヨイショ」と独り言を言われる。それが何だか可笑しくて仕方ないのだけど笑うのは失礼かと思い、手術中ぐっと笑いをこらえいました。

 「はいっいいですよ。終わりました。この後、デカイ絆創膏を貼っておきますからね」と言われ本当にやたらデカイ絆創膏を背中に貼られ「はいっ終わりました。服を着ていいですよ」と言われ手術は無事15分程で終了。

 看護婦さんから「それじゃ廊下で待っていて下さい。説明しますからね」と言われ、服を着て廊下で待っていたら看護婦さんがカルテを持ってきて「はい、それじゃ切り取った腫瘍見ますか?」「見ます、見ます」というとビンに入った切り取った腫瘍を見せてくれた「デカッ!」と驚くと「この瓶は横から見ると大きく見えますからね。下から見ると実際の大きさに見えますよ」と笑われ、瓶の底から見上げるとそれでも予想より大きかった。

 「はいっそれじゃ今日は痛み止めの薬と炎症防止の薬が出ていますからね。炎症防止の薬は必ず飲みきって下さいね。痛み止めは痛いときに飲んで下さいね。それから3日間はお風呂我慢して下さい」と説明を聞き漸く無事、無罪釈放となりました。やれやれ良かった良かった。

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八ヶ岳でのログハウス生活 ---木の家設計施工 森のすまい工房(有限会社アシスト

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