2010/04/04

天下の奇祭「諏訪大社の御柱祭」

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初めてその祭りを見かけたのは今から
12年前の事だった。たまたま買い物に出掛けたホームセンターの駐車場でふと大きな歓声とラッパの音を聞いて「何の音だ?」とその音の方向を探して道路の反対側に顔を向けた時、大きな木に大勢の人が群がって高い坂の上から落ちるところだった「あっこれが御柱祭か!」と、その時まで気が付かなかった。

 諏訪大社に伝わる天下の奇祭、「御柱祭」の存在は知っていたがそれがたまたまその時に開催されていた事や、「木落し」と呼ばれるその祭りのハイライトがこんな所で開かれていたとは全く知らなかった。

 その時の祭りでは木落としの会場で飛び出した観衆が落ちてくる木に触ろうとして命を落とした。全くとんでもない奇祭だと思った。7年に一度、干支の申と寅歳に開催されるので実際には6年に一度だが伝統的に数え年で数えるので7年目に開催されると一般的に言われている。

 八ヶ岳に来てから20年、「御柱祭」を迎えるのは3度目になる。昨年は残念ながらタイミングが合わずに見る事が出来なかった。今回は木材関係の取引先が招待してくれたので思い切って見に行く事にした。

 「御柱祭」のハイライトは3日間に渡って開催される「山出し曳行」と傾斜角度27度の坂から御柱を引き落とす「木落とし」宮川の川を渡る「川越し」である。

 「山出し曳行」は山から切り出した御柱を氏子達が里まで曳いてくる行事で途中、狭い路地があり両側の家並みに「めでどこ」と呼ばれる御柱に刺した2対の木がぶつからないようにうまくかわしながら練り歩く豪勢な曳行行事である。

 途中、穴山地区で狭く直角に曲がった「大曲り」と呼ばれる難所をクリアしていくのが一苦労である。

 諏訪大社上社の「山出し曳行」の初日は朝から土砂降りの天気、私が開催場所に着いた時はまだ誰も居なかった。役員の方にお伺いしたが「何があっても必ず行います。地震が来ようが台風が来ようが絶対止めません。但し、何時来るかは分かりません。酒飲んで暴れるとちっとも来ませんから」と言われさすがに天下の奇祭、「御柱祭」恐ろしやと思いました。

 そのうち隊列の先頭を受け持つ旗隊が到着、「いよいよですね」とくだんの役員さんに聞くと「まだまだ曳き綱だけで100mありますから、曳き綱の先頭が着いてから大体1時間位したら本体の到着と思って下さい」「1時間ですか!・・・」いや~まさに大変な奇祭です。

 そして待つ事1時間、本当に土砂降りの中、若者達を乗せた御柱がそこだけ熱気で白く煙りながら曳かれて来ました。目の前で見る御柱は人の群れで本体は全く見えませんでした。

 1日目はこの山出しまでで終わり、2日目はいよいよ祭りのハイライト「木落し」です。御柱に付けられた2対の「めでどこ」には通常8人ずつが乗るのですが「木落し」の時はこの「めでどこ」を長いものに付け替えて1つの「めでどこ」に12人が乗っています。

 高所恐怖症の私には全く気違い沙汰(失礼)としか思えない行為ですが、これがこの祭りのハイライトなのです。そのために木落しが行われる会場には特設の桟敷席が設けられ一目この豪快な木落としを見ようとする観衆が詰めかけて立錐の隙間もありません。

 そして木落し坂にせり出した御柱が木遣り歌と喇叭隊の演奏を合図に一気にこの坂を引き落とされます。この豪快な一瞬に命を掛けた若者達が大木にしがみつき、観衆が息を飲む一瞬が過ぎて無事、御柱が坂を落ちると花火が打ちあがり観衆の大きな拍手が沸き起こります。

 最大の難関を越えたと思ったのもつかの間、その後にはアルプスの冷たい雪解け水をたっぷり含んだ川を渡る「川越し」が待ち構えています。隊列の一番前の旗隊が最初に川を渡り引き綱を付け替えた御柱が川岸まで曳いて来られて曳き綱が対岸に渡されるといよいよ御柱が川岸にせりだしで一気に川の中に引き落とされます。

 狭い岸辺から曳き綱を曳いていた若者も御柱に引きずられるように川の中に引き綱もろ共曳きこまれ川の両岸を埋めた観衆からはワ~という大歓声が上がります。

 勿論、川の中には消防署のレスキュー隊が8人程ウエットスーツを着て待機しており万一の事態に備えています。しかし、水温10度程の冷たい水の中で一日中、警戒にあたる裏方の方達の御苦労も大変なものです。天下の奇祭「御柱祭」次回見る事が出来るのは私が還暦を越えた時です。

2010/03/29

八ヶ岳の素敵な仲間達

先日、北杜市在住の作家、樋口明雄さんの大藪晴彦賞の受賞パーテーに参加して来ました。樋口さんの書かれた長編小説「約束の地」が見事この大きな賞を受賞したのです。

 「約束の地」はこの地元を舞台にした野生動物と人間の関わりを描いた素晴らしい小説です。樋口さんはまさにこの小説に出てくる主人公のような暮らしを北杜市で送られています。先日、東京で出版社や業界の方達が集まって盛大な受賞式が行われたのですが今回は我々、地元の親しい人間達が集まって地元でお祝をしようじゃないかという集まりに呼んで貰ったという訳です。

 しかし、いざ集まってみると確かにネット仲間同士で日常の報告をしあったりしているので随分親しいようなんだけど実は会った事がない!なんて人もいてこれも新しい付き合い方なんだなと改めて知りました。

 それにしても会った事なくてもその人が今日の昼飯は何を食べたかなんかは知っているという不思議な繋がりだったりするから面白いですね。会場で「え~とあなたは○○さんですか?私は○○です。」なんていい年したおじさんがハンドルネームで自己紹介したりして結構、楽しく充実した時間を過ごす事が出来ました。

 近所の温泉ホテルの宴会場が会場だったのですが参加者はご多聞にもれず全員が山奥に住んでいるのでお迎えのマイクロバスが目的地に行きつかず山の中で迷子になったりとそりゃ~笑えました。

 集まった人達の職業も千差万別、美術館の館長さん、農場経営者、ラーメン屋の経営者、平飼い鶏の養鶏場の経営者、野猿の観測家、元図書館の館長さん、ペンションオーナー、パイプオルガンの技術者、星空観測人、パン工房の経営者、主婦そして工務店の親父(私)等々、何せ楽しそうな人達ばかりであります。

 当然、話は多種多様。飾り気のない会話、年齢の差を感じない気楽な雰囲気、これがあるからたまらんのですね。宴たけなわとなったと思ったら隣の会場からは何やら酔っ払いのカラオケがガンガン聞こえてきてウア~田舎だな~って感じです。

 2時間余りの宴会があっと言う間に過ぎ去ってさ~そんじゃ皆でマイクロバスに乗って帰ろうかという事になり、会場に一番近い私が最後まで乗って遠い人から送っていく事になりました。

 これが又、都会では絶対味わえない雰囲気なのです。何がってホラ、皆さん森の奥深く住んでる人達ばかりじゃないですか。「運転手さん、この辺でいいよ」何ていって下りて行くのですが、廻りは何もない漆黒の闇の中、都会じゃ「お客さん、自殺志願じゃないですよね?」なんて降りるのを止められそうな所で皆さん平気で降りて行かれる。

 街路灯なんて代物は全くないからバスの中でバイバイすると本当にバスを降りた瞬間に相手の姿は闇の中に消えていくのです。「ここ、本当に人家なんてあるの(笑)」なんてお互いに言いながら結局、自分の家も皆さん大差ないところが本当に可笑しいのです。

とうとう、最後の乗客になってバスを運転してくれている若い運転手さんに「道、分かる?」と聞いたら「え~大体なら・・・」「じゃ、教えた通りに行って」と言ってはみたものの廻りは深い霧に包まれて20m先程までしか見えない「見えないね~」「見えないですね~」何て二人で言いながら先程の会話と同じく「運転手さん、この辺でいいよ。帰り分かる?」「はい、ここからなら分かります」というので自宅から200m程の森の入口で下して貰った。

自分では漆黒の闇だと思っていた外の闇夜は実は月が出て意外と明るかった(笑)これだから、森の生活はやめられない。

2010/03/21

引っ越し

 世の中、年度末を迎え会社員にとっては異動の季節ですね。自分も振り返って考えてみたら今まで何回引っ越ししただろ?私は東京で生まれたので生家は東京と言う事になるのですが生まれたばかりで高知に引っ越したので東京の家の記憶はありません。が、しかし、これが人生1回目の引っ越しですね。

 物心ついた頃の家は高知の川の近くの一軒家でした。道路を隔てた反対側に爺ちゃんの家があって爺ちゃんの家にはその川に続く船着き場がありました。その家に何年住んだかは良く覚えていないのですが幼稚園はもっと北側の隣町の家に住んでいたのでそれが多分2回目の引っ越しですね。

 その家は庭も広くて、そこに中学生頃まで住んでいました。庭に面した所に和室を増築してそこが自分の子供部屋になっていました。子供部屋の北側の窓近くにイチジクの木が立っておりその実をもいで食べるのが楽しみでした。

 中学生になった頃からまたもや道路を挟んで南隣りに建っていた倉庫の3階に移り住む事になりそれが3回目の引っ越しです。高校を卒業するまでそこに住んでいたのですが東京の大学に進学する事になり教養課程の2年間は千葉の大学の寮に入りました。これが4回目の引っ越しです。

 その寮には同じ高校からその大学に一緒に行く事になった同級生と同室で入居していました。しかし、その寮に入った頃にちょうど寮内でトラブルがあり寮が閉鎖されることになり今度は別の寮に引っ越す事に、これが5回目ですね。

 その後、教養課程が終わり都心の校舎に通う事になり都内の下町の木造2階建ての住宅の2階に間借りする事になりました。これが6回目。

 以前、書きましたがここに結婚するまで住んでいましたので結婚を機会に川崎市にアパートを借りる事になり7回目の引っ越し。

 このアパートでしばらく暮らしていたのですが日当たりが余り良くないのと子供が出来たのをきっかけに歩いて30秒の近くのアパートに引っ越す事になり8回目の引っ越し。

 東京で会社員を続ける間は結局このアパートで暮らし、サラリーマン生活にオサラバして山梨に移住を決心して自分の家となるログハウスが完成するまでの間、山梨と川崎の2重生活をする為に山梨の公団アパートに単身移住、これが9回目。

 やっと家が完成して川崎から家族を呼び寄せて、これが10回目の引っ越し、ふ~やっと現在に至るまで10回の引っ越しを経験した事になります。

 これが多いのか少ないのか分かりませんが実家でずっと暮らしている人は1回も引っ越しを経験しない訳だからそれから考えると10回は決して少ない数ではないかもしれませんが、サラリーマンの方で転勤とか公務員でも出向とかあるので結構、これくらいは引っ越しするのではないでしょうかね。この先、又引っ越す事があるのかは分かりませんが「引っ越し」はすなわち生活環境を変えると言う事ですから自分的にはとても「ワクワクする出来事」の一つです。

 引っ越すにはそれなりのエネルギーがいるし、引っ越しに至るまでの様々な事情もあるし周囲の人達との別れや引っ越し先の人達との新たな出会いもある訳ですからそれなりに「ワクワクドキドキ」ですよね。

 もともと変化が嫌いなタチではないので定期的に引っ越しても良いかなとも思ったりします。しかし、今の我が家は初めて自分が地球上で持った自分の土地であり自分で設計して自分で建てたログハウスなのでそれなりに思い入れがあるのです。

 決して豪華な邸宅でもないし廻りは行き止まりの道路の突きあたりの森の中だし、とても人に自慢出来る家ではないのですが自分なりに気にいっているのです。何が一番気に入っているかって?それは朝、起きて窓のカーテンを開けたときに人工物が何一つ見えない森の景色が窓の外に広がっている事です。

 今朝も新聞をとりに森の中の道を歩いていくと目の前に20頭近い鹿の群れが堂々と道路を横切っていました。これだけの自然の中で暮らしていけるこの家が10回目の引っ越しで掴んだ自分のMy Homeなのです。お金はないけど自然はある!今はこれで満足しています。

2010/03/13

花粉症バトル

今年もついにやって来たようです。花粉の季節・・・変な話ですが八ケ岳に来る前、東京で暮らしている頃は余り感じたことは無かったのですが20年前に八ケ岳に来てから突然、発症。

 花粉症って花粉だけでなるものではないと聞いていたのでこんな自然一杯のところでなる訳ないとたかを括っていたのですが、見事に裏切られていっぱしの花粉症患者に・・もともと蓄膿症なのでほぼ一年中、薬を服用していなくてはならなくなり近くの耳鼻咽喉科の先生にご厄介になり自分にあう副作用の少ない薬を処方して貰いお陰で定期的にその先生のところにはご厄介になっています。

 しかし、この季節は辛い!本来なら暖かな春の日差しが嬉しい時期なのに嬉しくないのが悲しい。とにかくクシャミ、喉の腫れ、水のような鼻水、目は涙が止まらず、頭は朦朧となり自分の首から上を一遍、取り外して洗浄クリーニングしてすげ替えたい気持ちです(分かるかな~この気持ち)何か物事を考えたいのですがなんせ頭の中が朦朧としていて集中出来ないのですよねコレガ・・しかしどうしてこんな事になるのですかね。いわゆる「アレルギー」ってやつですかね。

 という事は自分も時代の最先端をいってるって事?そんな最先端ならなりたくないのですが都会に住んでるならまだ諦めるけどこんなに自然に溢れているのにアレルギー症になるなんて何だか不思議な気分です。

 他人からは「木の仕事している人がスギ花粉症なんて笑っちゃうよね」とよくからかわれますがなっちゃったんだから仕方ないですよね。だからいつも人が見てないところでマスクを掛けています。

 しかし、最近は化学物質過敏症の方だとかが相談に来られる事もありますが色々な人が様々なアレルギー症に悩んでいるようですね。まあ、花粉症なんかはオーソドックス(笑)でカワイイ方なのかも知れませんが化学物質過敏症の方なんかは大変ですよね。

 色々な本を読んでいると昔はあまりこういうアレルギー症状はなかったようでやはり食文化の変化とか環境の変化にその原因があるようですね。昔はあまり衛生環境がよくなかったにも関わらずこのアレルギー症状というものが余り認識されなかったという事は人間にもそれだけ抵抗力が強かったという事でしょうか。

 最近は衛生環境が良くなった反面、本来人間が持っている外部環境からの汚染物質の体内への侵入に対する抵抗力とか免疫力が失われているということでしょうか?そういえば自分なんかも子供の頃は近くに原っぱがあってそこで野球をしたり泥遊びをしたり兎に角、毎日ドロンコになって遊んでいて自分でも「汚いな~」と認識してたもんな。

 あれが実は良かったのかも知れませんね。滑って転んでキズだらけになって今は無くなってしまったけど「赤チン」なんか塗りたくって自分の膝とか肘とか顔とか必ずどこかしら赤チンで赤くなっていましたからね。今の若者は「赤チン」なんて知らないですよね。

 近くの川でオタマジャクシを取ったり蛙を捕まえて皮をはいでザリガニ釣りの餌にしたりと兎に角汚いもの全盛で触りまくってましたもんね。あの頃はアレルギーなんて言葉は知らないですからね。親には外から帰ってくると身ぐるみ脱がされて裸にされてましたけど(笑)

 してみるとやはり花粉症なんてものも現代病の一種に入るのでしょうか。そういえば昨年来の騒ぎで一躍、有名になった新型インフルエンザですが最近は少し落ち着いたようですが自分もあれから仕事が終わって家に帰ると必ず消毒液で手を洗う癖がついてしまい最近は真っ先に洗面所に行って手を洗わないと何だか気持ち悪くなり昔の泥だらけで遊んでいたガキ大将とは思えないような現象(笑)が自分にも起こっています。

 これは良いことなのでしょうか?何だかよく分かりませんが(何せ頭が朦朧としてますので)環境が変わったのか人間の体質が変わったのか分かりませんが何れにしても人が暮らしていく上で対応できない変化が起こっているのでしょうね。

 それにしても花粉症にしてもアレルギー症にしても皆がなるのではなく発症する人としない人がいるのが不思議ですね。一体、どういうメカニックになっているのでしょう?きっと体の中でそういうアレルギーを引き起こす物質に対する対応力の違いが個人差になって現れるのでしょうね。

 だって花粉は間違いなく全ての人が浴びている訳ですからね。最近は杉の木もなんだか花粉を出さない品種が改良されて出てきている様ですが、私は何だかそういうのは本末転倒のような気がします。自然は自然のままの方がよいですよね。自然が悪い訳ではないのですから。

2010/03/06

卒業

 人は人生において何度か何らかの卒業の過程を乗り越えてきています。私も色々なシーンで卒業を経験してきました。最初の卒業の記憶は幼稚園、何せ「いたずらっ子の餓鬼大将」だった怖いもの知らずの幼稚園生時代、園長先生のお陰で追い出される事も無く無事「卒業」し、自宅から歩いて5分の小学校へ・・・

 4年生までは幼稚園時代そのままで近所を暴れ廻り当然、宿題もやらず良く廊下に立たされ自由奔放な小学校時代が一変したのが5年生から・・・地元の進学校で中・高一貫教育の学校に行くよう親から宣言され、さあ、大変!今までサボっていた勉強に追いまくられ何とか小学校「卒業に」間に合い無事、進学校に合格。

 関係ないのですが今、新聞を賑している村木厚子、元厚生省局長は小学校からの同級生です。彼女は僕なんかと違い真面目で勉強が良く出来て絶対、報道されているような事件を起こせるような人間ではありません!あの冤罪事件が報道された時から私はあり得ないと思っていました。そりゃ人間、色々な人生を送っていくなかで変わっていくものなので小学校時代、そうだったから今でもそうだなんて単純には思わないのですが彼女に限って私は断言できますね。彼女に限ってはあり得ません。

 ママ、そんな小学校時代を「卒業」し中・高一貫の私立校に入学し6年間は平穏に倶楽部活動と勉強に明け暮れ、小学校時代に自分は天才だと思い込んでいたのですがそこはそれ進学校に行ってみれば周りは皆、優秀な学生ばかりで中学入学早々、挫折を味わい、補修授業に呼び出され、世の中には何でこんなに頭の良い人間がいるのだろうと思い知らされました。マア、それでも何とか無事。中学・高校を「卒業」し無事、東京の私立大学に入学。

 高校の卒業式には大学受験のスケジュールとどうしてもバッテングしてしまい結局、出席出来ませんでしたがこの高校卒業が今でも一番、いわゆる「卒業」という言葉が持つ意味合いを感じた時でもありました。子供から大人への「卒業」でもあり、一番、自分が変化する時代でもあるからなのでしょうか、親元から離れ、親を「卒業」し、子供を「卒業」し新しい暮らしに踏み出す希望に満ちた「卒業」でした。

 大学4年間はご他聞にもれずマージャンにビリヤード、酒に・・・で人生の中で一番、時間を持て余し遊んだ時代でもありました。兎に角、学生であるのが嫌で早く社会人になりたくてたまりませんでした。何とか大学は留年することも無く4年で「卒業」し空港関連会社に就職が決まり漸く学生生活を「卒業」し社会人になることが出来ました。

 金がなかったので学生時代に住んでいたアパートから会社に通い、羽田→成田→羽田と空港を行き来しその間、海外の空港にも視察に行かせて貰ったり12日で羽田→福岡→大阪→札幌→羽田なんて強行スケジュールの仕事なんて事もありました。

 その内に独身生活から「卒業」することになり学生時代から遠距離恋愛をしていた今の女房と結婚することになり、当時、勤務していた成田から結婚式の前日に高知に戻り何とか式に間に合い、結婚式当日に司会者の方に「名前の読み方はミノルさんで宜しいですか?」何て打ち合わせを行いつつ無事、独身生活を「卒業」し夫婦二人の生活が始まりました。

 学生時代から結婚するまで5年間、間借りしていた大家さんの家の2階からとうとう卒業することにり結構、下町の東急線の駅のホームから飛び移れそうな狭くて暗い下町の片隅に住んでいたので「やっと俺も下町から卒業出来たな・・・」と感慨深いものがありました。

 そんなサラリーマン生活を10年間送りましたが、色々な事があってそのサラリーマン生活も「卒業」することになり、当時仲の良かった社長秘書と経理課の奴と3人で会社を辞める事になり、その頃、毎日のように3人で飲みに行っていたので「お前ら相談して辞めることにしたんだろ」と良く怒られましたが、本当に偶然、「卒業」の時期が同じになっただけなのですが3人でサラリーマン生活を「卒業」しました。社長秘書は広島の奥さんの実家の呉服屋さんの跡継ぎになり、経理課の奴も何故か奥さんの実家の熊本で農業を手伝いながら会社勤めをしています。

 八ケ岳にきてからも結局は誘われた会社で建築の仕事をしていたのですが色々あって10年でその会社を「卒業」することになり、新たにこの会社を始めたと言う訳です。

 こうして文章に書いてみると色んな人生の節目で必ず「卒業」と新たな人生の「始まり」がセットになっているものですね。それもやはり季節的には春が多いですね。

 この春の桜の時期になるといつも思い出すのはやはり故郷高知で高校を卒業し大学に入学が決まり当時の同級生たちと春休み、長かった受験勉強で遊べなかった鬱憤を晴らすかのように毎日、自由に遊びまわった記憶が蘇ってきます。高知城やはりまや橋、桂浜、今年の大河ドラマの舞台となる竜馬が闊歩した場所で我々も遊んでいました。春は卒業と新たな始まりの季節ですね。

2010/03/01

猫の里親日記

PA0_0001  2匹の猫の里親になって3週間が過ぎました。生後2ヶ月だったシャム風のオス猫は漫画の主人公から名前を貰って「バロン(写真)」と命名され同じく生後6ヶ月だったサビ・三毛のメス猫は我が家の人娘から「ジル」と命名されそれぞれ全く違う個性を発揮しながら徐々に我が家に慣れてきました。

 ジルは我が家に来て直ぐにキッチンの裏に閉じこもり1週間全く出てきませんでした。餌とトイレは外に出てきて済ましていた様なので多分、我々が寝静まったのを見計らって出てきていたのだと思います。その後、ジルは別の隠れ場所を物色し2階の箪笥の裏に閉じ篭り私はこのチャンスを狙ってキッチンの裏には戻れないように塞いでしまいました。

 これで箪笥の裏を覗けば姿を確認出来るようになり更に1週間が過ぎました。出来るだけ刺激しないようにそっとしておいたのですが2週間が過ぎて「そろそろいいんじゃない?」と言う事になり、今度は再びジルが箪笥の裏から消えたチャンスを狙って配置を変えてしまいました。これで段々、身を隠す処が少なくなり否応無しに姿を晒す時間が徐々に増えて来ました。

 もともとどういう生い立ちだったかは詳しくは分かりませんが我が家に来る前に保護していた方は室内で多頭飼いをしていた方で「とても性格の良い猫ですが余り長い時間は抱っこは出来ません」と言っておられましたが長い時間どころか近寄る事も出来ない状態でした。でも私が観察する限り人間に対して恐怖感を持っていると言う訳ではなく単に臆病な性格なようでそれを裏付けるように我が家にきて2週間を過ぎた頃から餌で呼ぶと出てくるようになり先週からやっと手から餌を食べる様になりました。

 猫にも表情が有り最初は緊張して爛々と目が光り明らかにこちらを警戒しているようでしたが時間が経つにつれ、そろそろ「こいつらどうやら私に危害を加える気はないらしい(笑)」と思えたらしく段々表情が柔らかくなり目の前で毛づくろいをしたり欠伸をしたり、お腹を見せたりと余裕が出てきました。

 それでも現段階では呼ばれて餌を食べれば直ぐに引っ込んでしまいますが段々、猫同士でじゃれあって家の中を走り回ったり私達が居る目の前で餌の皿から餌を食べたりトイレをするようになりました。もう少ししたら写真も撮らせてくれるかも知れません。抱けるようになる日が来るかはまだ分かりませんが何れにしても10月には次のワクチンを打たなければならないのでその時までには捕まえられるようにする必要があります。

 一方のバロンは天真爛漫、全く人を警戒する様子は微塵もなく女房と「2匹の性格を足して2で割ったらちょうど良いのにね」といつも話しております。我が家に来てから1週間は兎に角、私から離れず毎晩、布団の中で抱いて寝ました。困ったのは夜明けと寝る前に母猫のオッパイを思い出してチュウチュウと私の手や顎やホッペタの皮膚を吸う癖です。

 これも猫の癖の一つなんですが前に飼っていた親子猫も子猫が1歳半になっても母猫のオッパイを吸って離れず、お陰で母猫の胸の毛はいつも毛玉が出来てそれを取るのに苦労しました。まあ、これも性格なので仕方ないのですが母猫の身代わりは出来るだけ遠慮させて貰う様に(笑)徐々に仕向けています。

 しかしバロンは雑種とはいえ、やはりシャムネコの血をひいているのか人間には友好的で誰が来ても全く逃げるということを知りません。しかし、まだ生後3ヶ月足らずの子猫なので元気を持て余し気味で家中を運動場にしてしまい興奮してしまうと引掻いたり甘え噛みをするので、これをさせない努力が大変です。

 もともと兄弟猫を探していたのはこういう場合に2匹で遊んでくれると助かるのと、お留守番が出来るようにと思っていたのですが、その役目を期待したジルが当初、引篭もってしまったので困っていたのです。それでも最近は出てきてくれたので仲良く2匹で走り回っています。

 2匹で遊ぶ様子を観察していると確かにジルの保護者の方が言われたようにジルは一回りバロンより大きいのですがバロンが処構わずジルに飛び掛っていっても決して噛まないし迷惑そうに逃げるのは逃げるのですが嫌な時も猫パンチは食らわしますが決して本気で威嚇はしません。そういう意味では見かけは黒くて目だけ光っていてちょっと見は怖そうですが良くみると可愛くて性格も臆病な分、優しいのかも知れません。

 この先、我が家の家族としてどういう風に関わっていくようになるか分かりませんが時々、この猫家族の様子もお伝えしていこうかと思います。出来れば次はジルの写真が撮影できれば報告したいと思います。お~い、ジル!いい加減出てきてジッとしていてくれよ~

2010/02/20

オリンピックのアスリート達

 バンクーバーオリンピックが始まりましたね。冬のスポーツが余り得意ではなかった私にとって冬のオリンピックに出場するアスリート達は本当に凄いなと思います。スピードスケートやスキージャンプ、スキー滑降(昔は大回転なんて言いましたよね)クロスカントリー、フュギアスケートなんていうオーソドックスな競技に加え最近はスノーボードハーフパイプ、カーリング、何かが人気が出て多彩になってきました。

 フュギアスケートなんて一見可憐な美しい競技に見えますがアスリート達の強靭な筋肉に裏付けされたハードな競技ですよね。こういう競技は中々他にはありませんね。男子は4回転、女子は3回転が出来ないと高い得点が得られないようにそのレベルも年々上がっていきますがよくあんなにクルクル廻れるものです。

 そんな中にあって今回はスキージャンプやスピードスケートに30歳を越えるベテラン選手達が参加しています。4年に1回のオリンピックに3回も4回も出ると言う事は12年~16年間もトップアスリートとしてやっていなくてはならないと言う事で、それはとてつもない努力の積み重ねであろうと思います。

 私なんか高校生まで陸上選手をしていましたがそれでも結構大変だったのでトップレベルを維持していくことがどれ程大変かは少し分かるつもりです。私のレベルでは高知大会に出場するのがせいぜいで、良くて四国大会出場レベルで全国大会なんてとてつもない選手が出る大会だと思っていました。それがオリンピックとなると日本代表でしょ!それはとてつもなく大変な事ですよね。少なくても私はそう思います。

 今回、スピードスケートで15歳?でしたっけ?最年少の少女が出場し参加選手中最下位でした。しかし私にとって「オリンピックに参加している各国代表選手の中の最下位でしょ」と思うのですが彼女にとって、というかトップアスリートにとって参加する以上少しでも上位を目指すのは本能のようなものでトップアスリートの性みたいなものでしょうか彼女は悔し涙を流しました。10代の選手が国の代表選手としてオリンピックに参加するということは凄い名誉だと私は思います。

 特にメデイアの方達は是非、そういう選手を日本の代表選手として称えて欲しいなと思います。報道の中で特に気になるのは「○位に終わりました・・・」という姿勢、あれは何を意味しているんでしょうね。「終わりました」イコール「残念でした」という意味でしょうか?アスリート本人が「残念」というのは凄く分かります。しかし、それを伝える人間が「○位に終わりました・・」というのはそのアスリートにとって凄く辛い事です。言われなくても本人が一番悔しいのですから・・でも彼等は日本を代表する選手達です。例え実力を発揮する事が出来なくても支えて上げて欲しいと私は思います。それでなくても国の代表というプレッシャーを背負って出ているのですから。

 私にとってオリンピックに出る事が出来る選手というのは凄い選手なんです。だから堂々と「世界○位になりました!」と言って欲しいですね。昨日もカーリングの中国戦の中で試合には負けてしまったのですがその勝敗を分けた原因を両国のスキップと呼ばれる選手の力量の差であるような報道がありましたがあれは本人にとってとても辛い言われ方なんです。

 そんな事は言われなくても本人が一番、感じている事なんです。彼女達は紙一重の微妙な駆け引きの中で競技を行いトップアスリートであるが為にものすごい高いレベルで戦っています。そんな戦いの最中に指揮官を非難するような解説は聞いていて「分かってないな」と感じます。少しでも自分の限界までスポーツをした事がある人間ならきっと分かると思います。私の目には今回のカーリング競技に関してはどの国が勝ってもおかしくないレベルで戦っていると思います。

 オリンピックに日本代表として出ている選手達は本当に間違いなく日本のトップアスリート達なんです。そりゃ金メダルが取れればそれに越した事はないけど例えメダルが取れなくても選手達が日本のトップアスリートである事に変わりはありません。頑張れ日本のトップアスリート達!

2010/02/12

猫の里親になりました。

 黒のラブラドール1匹と母親猫1匹、その娘猫1匹、息子猫1匹の計4匹が人間以外の家族として我が家に居ました。過去形なのは数年前に全員、後を追うように順番に天国に行ってしまったからです。最初にラブが逝き、母猫が逝き、娘と息子がその後を追いました。

 全員が長寿だったので仕方なかったのですが何だか気が抜けた様になってしまいそのショックから立ち直れずに数年経ちました。近頃は縁があれば誰かが又、来るだろうと思ってこちらからは探す事無く縁があるのを待っていましたが何となく寂しくなりそろそろ縁を求めて探しに行こうかなとネットで色々探して保健所に保護されたり捨て猫として拾われて保護されている猫達を一時預かっている団体の譲渡会が有ることを知りました。

 どうせ縁を探すならペットショップで買うのではなくこういう猫達の里親になりたいと思い、譲渡会に足を運ぶ様になりました。この時期は余り子猫がいないのでどうかな?と思いましたが最近は一年中、子猫が居るようで何匹かの子猫が譲渡会の会場に来ていました。

 しかし、初めて行った譲渡会では残念ながらこちらに振り向いてくれる子猫はおらず後髪をひかれる思いで断念しました。そして先日再度、車で半時間程行ったホームセンターで開催されていた譲渡会に出掛けて行きました。

 その日は色々と雑用が多くて開催されている時間ギリギリになってしまい後10分程で終了という時間に漸く会場に着いて駆け込むようにホームセンターに入り慌ててホームセンターの職員の方に「譲渡会はどこでやっていますか?」と走るようにホームセンターの隅っこで開催されていた譲渡会にたどり着きました。

 会場には猫が10匹程、犬が4,5匹いました。「もう居ないだろうな・・・」と半分諦め顔で猫のゲージを順番に見ていたら1匹の子猫に目が留まりました。シャム風の外見をした生後3ヶ月程の男の子の猫がゲージの隅でこちらを見ていて思わず目が合ってしまいました。

 試しに指をゲージの間から差し入れてみると嫌がらずに鼻先で匂いを嗅いで私の指先を舐めました。「この男の子、どうよ?」と一緒に行った女房に聞くと「私もこの子がいいなと思っていたけど、この子でいいの?」「俺はこの子でいいよ。でも出来れば兄弟が欲しかったな~」と話しがまとまり、譲渡会をボランテアで開催されているスタッフの人に「この子の事を知りたいのですが」と声をかけると「保護した方が来ていますので・・・」といい一人のお嬢さんを紹介されました。

 保護されていたその方は自宅でも猫を飼っているのですがこの猫が兄弟で捨てられていて保護したそうです。「兄弟がいるんですか!その兄弟はどうしましたか?」と聞くと残念ながら別の方のところへ養子にいった後でした。

 「この子を譲ってもらっていいですか?」とその方に聞くと「実は今日、初めて譲渡会に登録して連れてきてはみたのですが、変な人に貰われないか心配で心配で(笑)あなたのような方に貰ってもらえるなら幸せです」と言って頂き、無事、お見合いは成立し手続きをしていると実はそれだけでは済まなかったのです。

 手続きをスタッフの人としているとつい私が「本当は兄弟猫が欲しかったんですけど居ないので仕方ないです」と余計なことを言ったばっかりにスタッフの方が「本当!実は性格のすばらしく良い猫がいるのでどうぞ抱いてやって下さい」とゲージから無理やり連れてきた猫を押し付けられ「今だかって一度も怒ったところを見た事が無く、どの猫とでも上手くやっていけます。

 どうぞこの子も貰ってやって下さい」と言われ「そうですか、それじゃちょっと試しに・・」と里親になる事が決まった子猫のところに連れて行きお見合いさせると「フ~!」と唸り・・・「あの~怒ってるみたいなんですけど・・・」「あら~初めて見たわ」「・・・・」で結局、真っ黒に三毛が入った生後6ヶ月のこの子も連れて帰ることになり手続きをしていると何やら後ろで変な雰囲気が漂っているのを感じて振り返ると保護していた2匹の保護親の方が泣き始めてスタッフの方に慰められていました。

 「ごめんなさい、一生懸命可愛がったものですから・・・」と言われ「あの~きっと大切に育てますから、心配しないで下さい」と言ってはみたものの何だか猫さらいみたいな感じになってしまい悪い事をしているみたい。

 最後は譲渡先の親として記念撮影をしてスタッフ全員に見送られて保護親の方は泣き止まず、女房と二人逃げるようにして会場を後にしました。

 「どうする猫砂とか餌とか買ってく?」と女房に聞くと「ここのホームセンターには今は戻れないよ、又、盛大に見送られるよ」「そうだよね」と言うことになり別のホームセンターで必要なものを買い足して無事、帰宅しました。

 それ以来シャム風の子猫はすっかり懐いて毎晩、私の布団で一緒に寝て家中を走り廻っています。えっ?もう1匹はどうしたかって?え~え~もう1匹はキッチンの裏に隠れて出てこなくなりもう5日目です。夜中になると出てきて餌と水は飲んでいるのですが慣れるにはもう少しかかりそうです。抱っこさせてもらえるのは当分先のようです。それまでは懐中電灯でキッチンの裏を覗き込んで「お~い元気?」と声を掛ける毎日です。

2010/02/06

寒い冬の過ごし方

 いよいよ本格的な極寒の季節に突入し標高1000mの八ケ岳高原に暮らす我々にとって寒さとの戦いの日々が続いております。なんで南国高知で育った人間がこんな氷点下5度や6度なんてのが昼間の平均気温なんて所で暮らしているのかという事なんですが、住んでしまったところが寒い所だったので仕方がないのですよね。

 その代わりといっては何ですが快適な夏の涼しさがあるので、これはしょうがないのですね。両方、楽しみたかったら冬はハワイにでも行くしかないのでそれはそれ、お金持ちになったら(一生なれないと諦めておりますが)考えてみたい暮らし方なのですが、当面はこの2月をいかに乗り切るかということです。

 とにかくこの2月さえ乗り切ればあとは待望の春が待っていますのでとにかく、とにかくこの2月を何とか乗りきらねばならないのです。

 先ずは我が家のように薪ストーブを暖房の主力に頼っている家庭では残りの薪の量が気になってくる季節なんです。普通に豊富に薪をストックしていれば別にどうってことないんですが私の様に普段サボっていて薪の量がギリギリの家ではいかに節約しながら薪を使っていくかが気になるこの頃なのです。

 それから服、兎に角、下に暖かい下着を身に着ける事ですね。あまりブクブク着膨れると肩こってしようがないですから。最近はヒートテックなんて新素材が開発されて色々な発熱、保温下着があるので色々試していますが今のところどれも良いですね。

 ただ問題はこれらの下着は雪かきや冬のスポーツをした時に汗によって発熱したりする素材が含まれていてこれはもう地獄になってしまいます。ケースバイケースで使い分けをしていかなくてはなりません。

 それから風呂、これは寒い冬の夜、ひと時の至福の時間であります。但し、最後に風呂を出るのが辛い!ユックリ浴槽に肩まで浸かって体が温まってウトウト何かしていると気がつくと居眠りしてしまい、出ようとおもったらお湯がちょっと冷たくなっていて出るに出られないなんて事も・・・仕方なくもう一度追焚きするか足し湯するかして温まり直したりなんかしてやっと出られなんて事も1度や2度ではありません。

 それから困るのが車、雪が降って冷え込みが予想される日はワイパーを上げるのは勿論ですがサイドブレーキは解除しておかないとくっついて離れないなんて事もありますからね。それからフロントガラスや屋根の上に雪が降り積もったりすると良く落としておかないと運転に支障が出てしまいます。急いでるからフロントガラスだけ雪をかいて屋根の上はそのままなんて事にして走っていると信号で車を止めた拍子に屋根の上の雪が一斉に雪崩を起こしフロントガラスが真っ暗、信号が赤か青かさえ分からず発車出来ないなんて経験も実はアリマス。

 それから洒落にならない危険地帯、それは軒の下、この辺の寒い高原地のしかも森の中の家では雪止めや雨樋を付けない家が多いのです。雨樋をつけると落ち葉が積もってすぐ詰まってしまうので付けないのですがそうすると雪止めもつけず、むしろ屋根勾配をきつくして早く雪を落としたいというのがこの地域の家の基本的な考え方なのでそれは良いとして屋根に積もった雪が一斉に雪崩を起こして落ちてくるので運が悪いと下敷きになってしまうので軒先は出来るだけ避けて歩きましょう。

 歩くといえば雪が降った時は出来るだけ新雪の上を歩いた方が滑らなくて良いです。雪が降って一旦、晴れた翌日は溶けた雪が凍ってアイスバーン状態なので車のわだちの跡や道の真ん中はかえって危ないのです。

 それから踏み切り、これは余り大きな声で言えないのですが一旦停止は要注意です。踏み切りのかなり前から減速しておかないと踏み切り付近は皆が止まるのでアイスバーンになっていて下手にブレーキ踏むとアレレレーなんて事になりますので要注意です。兎に角寒い冬、もう寒いのは仕方ないのですから何とか楽しむ方法を酷使して暖かい春を皆で待ちましょうね。

2010/01/30

本屋さんが消える?

最近、電子書籍というものがアメリカで流行し始めて先日、初めてそれをTVでみましたが何だか映画の中で見た世界が現実になっていくような気がします。
私は毎晩、寝る前に布団の中で本を読むのが習慣になっているし、出張で移動する際にどんな本を持っていくかなんてのが凄く楽しみな人間なので手持ちの本が少なくなってくると情緒不安定(笑)になってきます。しかし、この電子書籍があるとそんな心配はなくなりますね。
 それにしても、最近は本が売れないらしくて近くの本屋さんがどんどん無くなっていって困っています。少し大きな本屋さんに行っても本を置いているスペースよりそれ以外のDVDやCDを扱っているスペースが段々、増えてきて本の置くスペースを侵害していっているような気がします。
 これも世の中の動きだから仕方ないのかも知れませんが何となく本屋さんに入ったときの何とも言えない本の匂いとかが消えていくようで寂しいですね。
 僕は学生時代は御茶ノ水で過したので古本屋めぐりとかで山の様に積み上げられた本の間を縫って目当ての本を探すのが楽しみでもあったのですが時代が変わったという事ですかね。
 しかし、気になるのはこういう記録媒体の変化の早さです。印刷した本はそれこそ一生もので置いておけますが最近の記録媒体はこの電子書籍ではないですがコロコロ変わるしこの先、一体どうなるのだろうと思います。昔は印刷して残して置けたのに最近は皆、こういう最新のメモリー機器に記憶させるようになっていますがそれが昔はテープだったのにそれがCDになりステックになりSDカードになりと目まぐるしく変わっていきます。こんな事してると本当に残したい事が残せなくなっていくような気がします。
 コンピューターの故障や電子機器のエラー、気象の変化による通信異常等により重要なデータが無くなってしまったり長く残す記録が段々消えていくようでいや~な感じです。実際、我々も仕事で使うパソコンのデータも必ずバックアップを取っていないとえらいコトになってしまいます。
 それと電子書籍の報道をTVで見ていて感じたのはこの場合、「本の装丁だとか挿絵とかはどうなってしまうのだろう?」という変な事を感じてしまったのです。全くマニュアルの感覚で生きている我が身としては本を選ぶときに内容は勿論ですがカバーの装丁だとか光沢、厚み、匂い(笑)、帯のデザイン、タイトル、挿絵の雰囲気なんかも本を選ぶ要素として重要な判断材料になっているのですがそういうものが無くなってしまうのだろうな・・と思ってしまいました。
 何だか、本にかぎったことではないのですがこういう電子機器の便利さと引き換えに人間が本来持っていた野生の感覚というのが失われていくような感じがしています。所謂、5感というのか人間が個体としてもつ感覚のみを判断材料として物事を判断すると言う事が出来なくなっているような気がします。便利さと自然や野生味というのは表裏一体で相反するものと言う事になるのでしょうかね。上手く、ほどほどに付き合っていくというのが良いように思います。
 じゃあ、電子書籍はありか?なしか?と問われると実際に使ってみないと分かりません。でも想像するに便利ではあるけど「冷たい」感覚を味わうような気がするのです。過去に自分の記憶に残った書籍はやはり内容もさることながらその本の重さだとか装丁の手触りだとか挿絵の特徴で覚えているような気がします。
 これは私だけの感覚かも知れませんが人間って意外とそんなものじゃないでしょうか?良く記憶術の中で体の一部に置き換えて覚えるとか時代を語呂合わせで覚えるとかこれって人間だけが持つ能力じゃないでしょうかね。私はそういう感覚や話が大好きなので文明の進歩に逆らってこういう感覚を大事にしていきたいと思っています。

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八ヶ岳でのログハウス生活 ---木の家設計施工 森のすまい工房(有限会社アシスト

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