2010/03/06

卒業

 人は人生において何度か何らかの卒業の過程を乗り越えてきています。私も色々なシーンで卒業を経験してきました。最初の卒業の記憶は幼稚園、何せ「いたずらっ子の餓鬼大将」だった怖いもの知らずの幼稚園生時代、園長先生のお陰で追い出される事も無く無事「卒業」し、自宅から歩いて5分の小学校へ・・・

 4年生までは幼稚園時代そのままで近所を暴れ廻り当然、宿題もやらず良く廊下に立たされ自由奔放な小学校時代が一変したのが5年生から・・・地元の進学校で中・高一貫教育の学校に行くよう親から宣言され、さあ、大変!今までサボっていた勉強に追いまくられ何とか小学校「卒業に」間に合い無事、進学校に合格。

 関係ないのですが今、新聞を賑している村木厚子、元厚生省局長は小学校からの同級生です。彼女は僕なんかと違い真面目で勉強が良く出来て絶対、報道されているような事件を起こせるような人間ではありません!あの冤罪事件が報道された時から私はあり得ないと思っていました。そりゃ人間、色々な人生を送っていくなかで変わっていくものなので小学校時代、そうだったから今でもそうだなんて単純には思わないのですが彼女に限って私は断言できますね。彼女に限ってはあり得ません。

 ママ、そんな小学校時代を「卒業」し中・高一貫の私立校に入学し6年間は平穏に倶楽部活動と勉強に明け暮れ、小学校時代に自分は天才だと思い込んでいたのですがそこはそれ進学校に行ってみれば周りは皆、優秀な学生ばかりで中学入学早々、挫折を味わい、補修授業に呼び出され、世の中には何でこんなに頭の良い人間がいるのだろうと思い知らされました。マア、それでも何とか無事。中学・高校を「卒業」し無事、東京の私立大学に入学。

 高校の卒業式には大学受験のスケジュールとどうしてもバッテングしてしまい結局、出席出来ませんでしたがこの高校卒業が今でも一番、いわゆる「卒業」という言葉が持つ意味合いを感じた時でもありました。子供から大人への「卒業」でもあり、一番、自分が変化する時代でもあるからなのでしょうか、親元から離れ、親を「卒業」し、子供を「卒業」し新しい暮らしに踏み出す希望に満ちた「卒業」でした。

 大学4年間はご他聞にもれずマージャンにビリヤード、酒に・・・で人生の中で一番、時間を持て余し遊んだ時代でもありました。兎に角、学生であるのが嫌で早く社会人になりたくてたまりませんでした。何とか大学は留年することも無く4年で「卒業」し空港関連会社に就職が決まり漸く学生生活を「卒業」し社会人になることが出来ました。

 金がなかったので学生時代に住んでいたアパートから会社に通い、羽田→成田→羽田と空港を行き来しその間、海外の空港にも視察に行かせて貰ったり12日で羽田→福岡→大阪→札幌→羽田なんて強行スケジュールの仕事なんて事もありました。

 その内に独身生活から「卒業」することになり学生時代から遠距離恋愛をしていた今の女房と結婚することになり、当時、勤務していた成田から結婚式の前日に高知に戻り何とか式に間に合い、結婚式当日に司会者の方に「名前の読み方はミノルさんで宜しいですか?」何て打ち合わせを行いつつ無事、独身生活を「卒業」し夫婦二人の生活が始まりました。

 学生時代から結婚するまで5年間、間借りしていた大家さんの家の2階からとうとう卒業することにり結構、下町の東急線の駅のホームから飛び移れそうな狭くて暗い下町の片隅に住んでいたので「やっと俺も下町から卒業出来たな・・・」と感慨深いものがありました。

 そんなサラリーマン生活を10年間送りましたが、色々な事があってそのサラリーマン生活も「卒業」することになり、当時仲の良かった社長秘書と経理課の奴と3人で会社を辞める事になり、その頃、毎日のように3人で飲みに行っていたので「お前ら相談して辞めることにしたんだろ」と良く怒られましたが、本当に偶然、「卒業」の時期が同じになっただけなのですが3人でサラリーマン生活を「卒業」しました。社長秘書は広島の奥さんの実家の呉服屋さんの跡継ぎになり、経理課の奴も何故か奥さんの実家の熊本で農業を手伝いながら会社勤めをしています。

 八ケ岳にきてからも結局は誘われた会社で建築の仕事をしていたのですが色々あって10年でその会社を「卒業」することになり、新たにこの会社を始めたと言う訳です。

 こうして文章に書いてみると色んな人生の節目で必ず「卒業」と新たな人生の「始まり」がセットになっているものですね。それもやはり季節的には春が多いですね。

 この春の桜の時期になるといつも思い出すのはやはり故郷高知で高校を卒業し大学に入学が決まり当時の同級生たちと春休み、長かった受験勉強で遊べなかった鬱憤を晴らすかのように毎日、自由に遊びまわった記憶が蘇ってきます。高知城やはりまや橋、桂浜、今年の大河ドラマの舞台となる竜馬が闊歩した場所で我々も遊んでいました。春は卒業と新たな始まりの季節ですね。

2010/03/01

猫の里親日記

PA0_0001  2匹の猫の里親になって3週間が過ぎました。生後2ヶ月だったシャム風のオス猫は漫画の主人公から名前を貰って「バロン(写真)」と命名され同じく生後6ヶ月だったサビ・三毛のメス猫は我が家の人娘から「ジル」と命名されそれぞれ全く違う個性を発揮しながら徐々に我が家に慣れてきました。

 ジルは我が家に来て直ぐにキッチンの裏に閉じこもり1週間全く出てきませんでした。餌とトイレは外に出てきて済ましていた様なので多分、我々が寝静まったのを見計らって出てきていたのだと思います。その後、ジルは別の隠れ場所を物色し2階の箪笥の裏に閉じ篭り私はこのチャンスを狙ってキッチンの裏には戻れないように塞いでしまいました。

 これで箪笥の裏を覗けば姿を確認出来るようになり更に1週間が過ぎました。出来るだけ刺激しないようにそっとしておいたのですが2週間が過ぎて「そろそろいいんじゃない?」と言う事になり、今度は再びジルが箪笥の裏から消えたチャンスを狙って配置を変えてしまいました。これで段々、身を隠す処が少なくなり否応無しに姿を晒す時間が徐々に増えて来ました。

 もともとどういう生い立ちだったかは詳しくは分かりませんが我が家に来る前に保護していた方は室内で多頭飼いをしていた方で「とても性格の良い猫ですが余り長い時間は抱っこは出来ません」と言っておられましたが長い時間どころか近寄る事も出来ない状態でした。でも私が観察する限り人間に対して恐怖感を持っていると言う訳ではなく単に臆病な性格なようでそれを裏付けるように我が家にきて2週間を過ぎた頃から餌で呼ぶと出てくるようになり先週からやっと手から餌を食べる様になりました。

 猫にも表情が有り最初は緊張して爛々と目が光り明らかにこちらを警戒しているようでしたが時間が経つにつれ、そろそろ「こいつらどうやら私に危害を加える気はないらしい(笑)」と思えたらしく段々表情が柔らかくなり目の前で毛づくろいをしたり欠伸をしたり、お腹を見せたりと余裕が出てきました。

 それでも現段階では呼ばれて餌を食べれば直ぐに引っ込んでしまいますが段々、猫同士でじゃれあって家の中を走り回ったり私達が居る目の前で餌の皿から餌を食べたりトイレをするようになりました。もう少ししたら写真も撮らせてくれるかも知れません。抱けるようになる日が来るかはまだ分かりませんが何れにしても10月には次のワクチンを打たなければならないのでその時までには捕まえられるようにする必要があります。

 一方のバロンは天真爛漫、全く人を警戒する様子は微塵もなく女房と「2匹の性格を足して2で割ったらちょうど良いのにね」といつも話しております。我が家に来てから1週間は兎に角、私から離れず毎晩、布団の中で抱いて寝ました。困ったのは夜明けと寝る前に母猫のオッパイを思い出してチュウチュウと私の手や顎やホッペタの皮膚を吸う癖です。

 これも猫の癖の一つなんですが前に飼っていた親子猫も子猫が1歳半になっても母猫のオッパイを吸って離れず、お陰で母猫の胸の毛はいつも毛玉が出来てそれを取るのに苦労しました。まあ、これも性格なので仕方ないのですが母猫の身代わりは出来るだけ遠慮させて貰う様に(笑)徐々に仕向けています。

 しかしバロンは雑種とはいえ、やはりシャムネコの血をひいているのか人間には友好的で誰が来ても全く逃げるということを知りません。しかし、まだ生後3ヶ月足らずの子猫なので元気を持て余し気味で家中を運動場にしてしまい興奮してしまうと引掻いたり甘え噛みをするので、これをさせない努力が大変です。

 もともと兄弟猫を探していたのはこういう場合に2匹で遊んでくれると助かるのと、お留守番が出来るようにと思っていたのですが、その役目を期待したジルが当初、引篭もってしまったので困っていたのです。それでも最近は出てきてくれたので仲良く2匹で走り回っています。

 2匹で遊ぶ様子を観察していると確かにジルの保護者の方が言われたようにジルは一回りバロンより大きいのですがバロンが処構わずジルに飛び掛っていっても決して噛まないし迷惑そうに逃げるのは逃げるのですが嫌な時も猫パンチは食らわしますが決して本気で威嚇はしません。そういう意味では見かけは黒くて目だけ光っていてちょっと見は怖そうですが良くみると可愛くて性格も臆病な分、優しいのかも知れません。

 この先、我が家の家族としてどういう風に関わっていくようになるか分かりませんが時々、この猫家族の様子もお伝えしていこうかと思います。出来れば次はジルの写真が撮影できれば報告したいと思います。お~い、ジル!いい加減出てきてジッとしていてくれよ~

2010/02/20

オリンピックのアスリート達

 バンクーバーオリンピックが始まりましたね。冬のスポーツが余り得意ではなかった私にとって冬のオリンピックに出場するアスリート達は本当に凄いなと思います。スピードスケートやスキージャンプ、スキー滑降(昔は大回転なんて言いましたよね)クロスカントリー、フュギアスケートなんていうオーソドックスな競技に加え最近はスノーボードハーフパイプ、カーリング、何かが人気が出て多彩になってきました。

 フュギアスケートなんて一見可憐な美しい競技に見えますがアスリート達の強靭な筋肉に裏付けされたハードな競技ですよね。こういう競技は中々他にはありませんね。男子は4回転、女子は3回転が出来ないと高い得点が得られないようにそのレベルも年々上がっていきますがよくあんなにクルクル廻れるものです。

 そんな中にあって今回はスキージャンプやスピードスケートに30歳を越えるベテラン選手達が参加しています。4年に1回のオリンピックに3回も4回も出ると言う事は12年~16年間もトップアスリートとしてやっていなくてはならないと言う事で、それはとてつもない努力の積み重ねであろうと思います。

 私なんか高校生まで陸上選手をしていましたがそれでも結構大変だったのでトップレベルを維持していくことがどれ程大変かは少し分かるつもりです。私のレベルでは高知大会に出場するのがせいぜいで、良くて四国大会出場レベルで全国大会なんてとてつもない選手が出る大会だと思っていました。それがオリンピックとなると日本代表でしょ!それはとてつもなく大変な事ですよね。少なくても私はそう思います。

 今回、スピードスケートで15歳?でしたっけ?最年少の少女が出場し参加選手中最下位でした。しかし私にとって「オリンピックに参加している各国代表選手の中の最下位でしょ」と思うのですが彼女にとって、というかトップアスリートにとって参加する以上少しでも上位を目指すのは本能のようなものでトップアスリートの性みたいなものでしょうか彼女は悔し涙を流しました。10代の選手が国の代表選手としてオリンピックに参加するということは凄い名誉だと私は思います。

 特にメデイアの方達は是非、そういう選手を日本の代表選手として称えて欲しいなと思います。報道の中で特に気になるのは「○位に終わりました・・・」という姿勢、あれは何を意味しているんでしょうね。「終わりました」イコール「残念でした」という意味でしょうか?アスリート本人が「残念」というのは凄く分かります。しかし、それを伝える人間が「○位に終わりました・・」というのはそのアスリートにとって凄く辛い事です。言われなくても本人が一番悔しいのですから・・でも彼等は日本を代表する選手達です。例え実力を発揮する事が出来なくても支えて上げて欲しいと私は思います。それでなくても国の代表というプレッシャーを背負って出ているのですから。

 私にとってオリンピックに出る事が出来る選手というのは凄い選手なんです。だから堂々と「世界○位になりました!」と言って欲しいですね。昨日もカーリングの中国戦の中で試合には負けてしまったのですがその勝敗を分けた原因を両国のスキップと呼ばれる選手の力量の差であるような報道がありましたがあれは本人にとってとても辛い言われ方なんです。

 そんな事は言われなくても本人が一番、感じている事なんです。彼女達は紙一重の微妙な駆け引きの中で競技を行いトップアスリートであるが為にものすごい高いレベルで戦っています。そんな戦いの最中に指揮官を非難するような解説は聞いていて「分かってないな」と感じます。少しでも自分の限界までスポーツをした事がある人間ならきっと分かると思います。私の目には今回のカーリング競技に関してはどの国が勝ってもおかしくないレベルで戦っていると思います。

 オリンピックに日本代表として出ている選手達は本当に間違いなく日本のトップアスリート達なんです。そりゃ金メダルが取れればそれに越した事はないけど例えメダルが取れなくても選手達が日本のトップアスリートである事に変わりはありません。頑張れ日本のトップアスリート達!

2010/02/12

猫の里親になりました。

 黒のラブラドール1匹と母親猫1匹、その娘猫1匹、息子猫1匹の計4匹が人間以外の家族として我が家に居ました。過去形なのは数年前に全員、後を追うように順番に天国に行ってしまったからです。最初にラブが逝き、母猫が逝き、娘と息子がその後を追いました。

 全員が長寿だったので仕方なかったのですが何だか気が抜けた様になってしまいそのショックから立ち直れずに数年経ちました。近頃は縁があれば誰かが又、来るだろうと思ってこちらからは探す事無く縁があるのを待っていましたが何となく寂しくなりそろそろ縁を求めて探しに行こうかなとネットで色々探して保健所に保護されたり捨て猫として拾われて保護されている猫達を一時預かっている団体の譲渡会が有ることを知りました。

 どうせ縁を探すならペットショップで買うのではなくこういう猫達の里親になりたいと思い、譲渡会に足を運ぶ様になりました。この時期は余り子猫がいないのでどうかな?と思いましたが最近は一年中、子猫が居るようで何匹かの子猫が譲渡会の会場に来ていました。

 しかし、初めて行った譲渡会では残念ながらこちらに振り向いてくれる子猫はおらず後髪をひかれる思いで断念しました。そして先日再度、車で半時間程行ったホームセンターで開催されていた譲渡会に出掛けて行きました。

 その日は色々と雑用が多くて開催されている時間ギリギリになってしまい後10分程で終了という時間に漸く会場に着いて駆け込むようにホームセンターに入り慌ててホームセンターの職員の方に「譲渡会はどこでやっていますか?」と走るようにホームセンターの隅っこで開催されていた譲渡会にたどり着きました。

 会場には猫が10匹程、犬が4,5匹いました。「もう居ないだろうな・・・」と半分諦め顔で猫のゲージを順番に見ていたら1匹の子猫に目が留まりました。シャム風の外見をした生後3ヶ月程の男の子の猫がゲージの隅でこちらを見ていて思わず目が合ってしまいました。

 試しに指をゲージの間から差し入れてみると嫌がらずに鼻先で匂いを嗅いで私の指先を舐めました。「この男の子、どうよ?」と一緒に行った女房に聞くと「私もこの子がいいなと思っていたけど、この子でいいの?」「俺はこの子でいいよ。でも出来れば兄弟が欲しかったな~」と話しがまとまり、譲渡会をボランテアで開催されているスタッフの人に「この子の事を知りたいのですが」と声をかけると「保護した方が来ていますので・・・」といい一人のお嬢さんを紹介されました。

 保護されていたその方は自宅でも猫を飼っているのですがこの猫が兄弟で捨てられていて保護したそうです。「兄弟がいるんですか!その兄弟はどうしましたか?」と聞くと残念ながら別の方のところへ養子にいった後でした。

 「この子を譲ってもらっていいですか?」とその方に聞くと「実は今日、初めて譲渡会に登録して連れてきてはみたのですが、変な人に貰われないか心配で心配で(笑)あなたのような方に貰ってもらえるなら幸せです」と言って頂き、無事、お見合いは成立し手続きをしていると実はそれだけでは済まなかったのです。

 手続きをスタッフの人としているとつい私が「本当は兄弟猫が欲しかったんですけど居ないので仕方ないです」と余計なことを言ったばっかりにスタッフの方が「本当!実は性格のすばらしく良い猫がいるのでどうぞ抱いてやって下さい」とゲージから無理やり連れてきた猫を押し付けられ「今だかって一度も怒ったところを見た事が無く、どの猫とでも上手くやっていけます。

 どうぞこの子も貰ってやって下さい」と言われ「そうですか、それじゃちょっと試しに・・」と里親になる事が決まった子猫のところに連れて行きお見合いさせると「フ~!」と唸り・・・「あの~怒ってるみたいなんですけど・・・」「あら~初めて見たわ」「・・・・」で結局、真っ黒に三毛が入った生後6ヶ月のこの子も連れて帰ることになり手続きをしていると何やら後ろで変な雰囲気が漂っているのを感じて振り返ると保護していた2匹の保護親の方が泣き始めてスタッフの方に慰められていました。

 「ごめんなさい、一生懸命可愛がったものですから・・・」と言われ「あの~きっと大切に育てますから、心配しないで下さい」と言ってはみたものの何だか猫さらいみたいな感じになってしまい悪い事をしているみたい。

 最後は譲渡先の親として記念撮影をしてスタッフ全員に見送られて保護親の方は泣き止まず、女房と二人逃げるようにして会場を後にしました。

 「どうする猫砂とか餌とか買ってく?」と女房に聞くと「ここのホームセンターには今は戻れないよ、又、盛大に見送られるよ」「そうだよね」と言うことになり別のホームセンターで必要なものを買い足して無事、帰宅しました。

 それ以来シャム風の子猫はすっかり懐いて毎晩、私の布団で一緒に寝て家中を走り廻っています。えっ?もう1匹はどうしたかって?え~え~もう1匹はキッチンの裏に隠れて出てこなくなりもう5日目です。夜中になると出てきて餌と水は飲んでいるのですが慣れるにはもう少しかかりそうです。抱っこさせてもらえるのは当分先のようです。それまでは懐中電灯でキッチンの裏を覗き込んで「お~い元気?」と声を掛ける毎日です。

2010/02/06

寒い冬の過ごし方

 いよいよ本格的な極寒の季節に突入し標高1000mの八ケ岳高原に暮らす我々にとって寒さとの戦いの日々が続いております。なんで南国高知で育った人間がこんな氷点下5度や6度なんてのが昼間の平均気温なんて所で暮らしているのかという事なんですが、住んでしまったところが寒い所だったので仕方がないのですよね。

 その代わりといっては何ですが快適な夏の涼しさがあるので、これはしょうがないのですね。両方、楽しみたかったら冬はハワイにでも行くしかないのでそれはそれ、お金持ちになったら(一生なれないと諦めておりますが)考えてみたい暮らし方なのですが、当面はこの2月をいかに乗り切るかということです。

 とにかくこの2月さえ乗り切ればあとは待望の春が待っていますのでとにかく、とにかくこの2月を何とか乗りきらねばならないのです。

 先ずは我が家のように薪ストーブを暖房の主力に頼っている家庭では残りの薪の量が気になってくる季節なんです。普通に豊富に薪をストックしていれば別にどうってことないんですが私の様に普段サボっていて薪の量がギリギリの家ではいかに節約しながら薪を使っていくかが気になるこの頃なのです。

 それから服、兎に角、下に暖かい下着を身に着ける事ですね。あまりブクブク着膨れると肩こってしようがないですから。最近はヒートテックなんて新素材が開発されて色々な発熱、保温下着があるので色々試していますが今のところどれも良いですね。

 ただ問題はこれらの下着は雪かきや冬のスポーツをした時に汗によって発熱したりする素材が含まれていてこれはもう地獄になってしまいます。ケースバイケースで使い分けをしていかなくてはなりません。

 それから風呂、これは寒い冬の夜、ひと時の至福の時間であります。但し、最後に風呂を出るのが辛い!ユックリ浴槽に肩まで浸かって体が温まってウトウト何かしていると気がつくと居眠りしてしまい、出ようとおもったらお湯がちょっと冷たくなっていて出るに出られないなんて事も・・・仕方なくもう一度追焚きするか足し湯するかして温まり直したりなんかしてやっと出られなんて事も1度や2度ではありません。

 それから困るのが車、雪が降って冷え込みが予想される日はワイパーを上げるのは勿論ですがサイドブレーキは解除しておかないとくっついて離れないなんて事もありますからね。それからフロントガラスや屋根の上に雪が降り積もったりすると良く落としておかないと運転に支障が出てしまいます。急いでるからフロントガラスだけ雪をかいて屋根の上はそのままなんて事にして走っていると信号で車を止めた拍子に屋根の上の雪が一斉に雪崩を起こしフロントガラスが真っ暗、信号が赤か青かさえ分からず発車出来ないなんて経験も実はアリマス。

 それから洒落にならない危険地帯、それは軒の下、この辺の寒い高原地のしかも森の中の家では雪止めや雨樋を付けない家が多いのです。雨樋をつけると落ち葉が積もってすぐ詰まってしまうので付けないのですがそうすると雪止めもつけず、むしろ屋根勾配をきつくして早く雪を落としたいというのがこの地域の家の基本的な考え方なのでそれは良いとして屋根に積もった雪が一斉に雪崩を起こして落ちてくるので運が悪いと下敷きになってしまうので軒先は出来るだけ避けて歩きましょう。

 歩くといえば雪が降った時は出来るだけ新雪の上を歩いた方が滑らなくて良いです。雪が降って一旦、晴れた翌日は溶けた雪が凍ってアイスバーン状態なので車のわだちの跡や道の真ん中はかえって危ないのです。

 それから踏み切り、これは余り大きな声で言えないのですが一旦停止は要注意です。踏み切りのかなり前から減速しておかないと踏み切り付近は皆が止まるのでアイスバーンになっていて下手にブレーキ踏むとアレレレーなんて事になりますので要注意です。兎に角寒い冬、もう寒いのは仕方ないのですから何とか楽しむ方法を酷使して暖かい春を皆で待ちましょうね。

2010/01/30

本屋さんが消える?

最近、電子書籍というものがアメリカで流行し始めて先日、初めてそれをTVでみましたが何だか映画の中で見た世界が現実になっていくような気がします。
私は毎晩、寝る前に布団の中で本を読むのが習慣になっているし、出張で移動する際にどんな本を持っていくかなんてのが凄く楽しみな人間なので手持ちの本が少なくなってくると情緒不安定(笑)になってきます。しかし、この電子書籍があるとそんな心配はなくなりますね。
 それにしても、最近は本が売れないらしくて近くの本屋さんがどんどん無くなっていって困っています。少し大きな本屋さんに行っても本を置いているスペースよりそれ以外のDVDやCDを扱っているスペースが段々、増えてきて本の置くスペースを侵害していっているような気がします。
 これも世の中の動きだから仕方ないのかも知れませんが何となく本屋さんに入ったときの何とも言えない本の匂いとかが消えていくようで寂しいですね。
 僕は学生時代は御茶ノ水で過したので古本屋めぐりとかで山の様に積み上げられた本の間を縫って目当ての本を探すのが楽しみでもあったのですが時代が変わったという事ですかね。
 しかし、気になるのはこういう記録媒体の変化の早さです。印刷した本はそれこそ一生もので置いておけますが最近の記録媒体はこの電子書籍ではないですがコロコロ変わるしこの先、一体どうなるのだろうと思います。昔は印刷して残して置けたのに最近は皆、こういう最新のメモリー機器に記憶させるようになっていますがそれが昔はテープだったのにそれがCDになりステックになりSDカードになりと目まぐるしく変わっていきます。こんな事してると本当に残したい事が残せなくなっていくような気がします。
 コンピューターの故障や電子機器のエラー、気象の変化による通信異常等により重要なデータが無くなってしまったり長く残す記録が段々消えていくようでいや~な感じです。実際、我々も仕事で使うパソコンのデータも必ずバックアップを取っていないとえらいコトになってしまいます。
 それと電子書籍の報道をTVで見ていて感じたのはこの場合、「本の装丁だとか挿絵とかはどうなってしまうのだろう?」という変な事を感じてしまったのです。全くマニュアルの感覚で生きている我が身としては本を選ぶときに内容は勿論ですがカバーの装丁だとか光沢、厚み、匂い(笑)、帯のデザイン、タイトル、挿絵の雰囲気なんかも本を選ぶ要素として重要な判断材料になっているのですがそういうものが無くなってしまうのだろうな・・と思ってしまいました。
 何だか、本にかぎったことではないのですがこういう電子機器の便利さと引き換えに人間が本来持っていた野生の感覚というのが失われていくような感じがしています。所謂、5感というのか人間が個体としてもつ感覚のみを判断材料として物事を判断すると言う事が出来なくなっているような気がします。便利さと自然や野生味というのは表裏一体で相反するものと言う事になるのでしょうかね。上手く、ほどほどに付き合っていくというのが良いように思います。
 じゃあ、電子書籍はありか?なしか?と問われると実際に使ってみないと分かりません。でも想像するに便利ではあるけど「冷たい」感覚を味わうような気がするのです。過去に自分の記憶に残った書籍はやはり内容もさることながらその本の重さだとか装丁の手触りだとか挿絵の特徴で覚えているような気がします。
 これは私だけの感覚かも知れませんが人間って意外とそんなものじゃないでしょうか?良く記憶術の中で体の一部に置き換えて覚えるとか時代を語呂合わせで覚えるとかこれって人間だけが持つ能力じゃないでしょうかね。私はそういう感覚や話が大好きなので文明の進歩に逆らってこういう感覚を大事にしていきたいと思っています。

2010/01/24

「八ヶ岳エコソムリエ講座」に参加してきました

 八ヶ岳の知り合いが企画した「八ヶ岳エコソムリエ講座」の第一回入門講座を受講してきました。

 エコソムリエというのはこの企画に合わせて考えられた造語で今日、この講座を受講して自分なりに理解したところによると、その地域の文化や自然、歴史等に精通しその地域を訪れた人々にその知識を体験に基づき正しく、楽しく伝える事が出来るガイドということだそうです。

 今日がその第一回講座で4つの座学が開催されました。最初が「八ヶ岳を知る」というタイトルで元高校の地学の教師をされていた亀村平男氏が講師をされました。今日の講座の中でも楽しみにしていた講座の一つでしたので大変、楽しく話を聞かせて頂きました。

 亀村氏は八ヶ岳歩こう会のメンバーでもあり長年教師をされていただけに大変、聞く者を惹きつける話術で本来なら10時間はかかる内容の講義を僅か1時間にまとめて分かり易く説明してくれました。

 亀村氏の話によると八ヶ岳周辺は約50万年前に伊豆半島が日本列島に衝突して以来、北側に押され続けているそうな・・又、八ヶ岳周辺には古い(あくまで地質学上の古いですが)山はなく権現岳で約15万年前、編笠山で約3万年前に現在の形になったそうです。

 南八ヶ岳で最大の火山活動は今から約25~30万年前の古阿弥陀岳火山の活動でこの時に発生した岩屑流が現在の富士見町から韮崎にかけての釜無川沿いに七里岩とよぶ崖を築いたとのことです。

 又、この火山活動による大崩落の前の八ヶ岳の標高は推定約3400m程あったそうです。よく民話で語り伝えられる八ヶ岳に嫉妬した富士山が八ヶ岳を蹴飛ばして山が崩れて富士山より高かった山頂が崩れて富士山の方が高くなったという話は、地質学的にはこの八ヶ岳の火山活動の最盛期が約25~30万年前であったのに対し富士山は約10万年前に活動を開始し当時の標高は1000m程だったそうです。つまり民話のとおり八ヶ岳の方が圧倒的に高く古い先輩の山だったという事ですね。富士山が現在のような形になったのは僅か1000年前のことだそうです。いやはや地球の歴史というのは奥が深いですね。

   八ヶ岳は日本のへそと呼ばれるように地質学的にも主要なプレートが集まっている地域で元は海底深く沈んでいた地層が隆起してできた新しい地域だそうです。

 続いて2時間目はご存知我らが「八ヶ岳歩こう会事務局長」多賀さんの講義でタイトルは「八ヶ岳の歩き方~棒道編~」で多賀さんによるウオーキングの楽しみ方の講義を受けました。

 楽しみ方の秘訣は唯黙って歩くのではなく一緒に歩く人達と「楽しみ」「しゃべり」「笑い」「食べ」「癒し」「出会い」「感動」する事が大切であるとの話を聞き長年、ウオーキングで多くの方を日々案内されてきた人らしいウンチクのある楽しい内容の講義でした。

 昼食をはさみ午後の講義はやはりいつも一緒に活動している八ヶ岳の自転車野郎「なかアウトドアーズ」の中川さんの「八ヶ岳の遊び方」から始まりました。

 中川さんは当社のお客様でもあるのですが6年前に静岡から八ヶ岳に移り住んで来た方で2年前から独立して「なかアウトドアーズ」を設立し自転車やスノーシュー、カヤック等のアウトドアの遊びをとおして八ヶ岳の魅力を案内しています。

 そして最後の講義は八ヶ岳自然ガイド協会代表の斉藤一紀氏による「八ヶ岳の自然~野鳥編・初級~」の講義でした。

 斉藤氏は野鳥観察に造詣の深い方で八ヶ岳周辺に住む鳥達の事を詳しく説明してくれました。講義にあたり最初に渡された資料の1ページ目が野鳥認知度・簡易テストとかかれたテスト形式になっており自分が八ヶ岳で見た鳥の名前を10種類書き、さらにその中でよく知っている鳥の絵を描きその鳥の生態を文章で説明せよとの設問でした。

 いや~これがなかなか難しくて知っているようで全く知らないという事に改めて気付かされました。八ヶ岳周辺には約170種類の鳥が観察されておりこれは日本でも有数の地域であり中でも北杜市の鳥として指定されているフクロウについては日本一と言えるほどの個体が生息しているそうです。

 しかし一方で昔、八ヶ岳の山頂付近で観測されたライチョウについては現在は全く見つけられないとの事で確実にその生態は変化しているようです。近年はバードウオッチングが流行し野鳥への関心も高まっているが例えば巣箱を作る活動そのものは評価するがかけっぱなしではダメで必ず年に1回は外して中の巣材を取り出し掛け直してやる等のフォローが必要との話に思わず納得してしまいました。

 「鳥は見ようとしないと見えない」という言葉と「鳥の未来は人間の未来を象徴している」という話が印象的でした。

 「エコソムリエ」は今後も講義を続け単位数を重ねる事によって多くの「八ヶ岳エコソムリエ」を育てる活動を続けるそうです。私も微力ながら応援していきたいと思っています。

2010/01/16

冬の里山の一日

 今年も厳冬シーズンまっさかりとなりました。高知育ちの私としてはこの寒さがひたすら我慢となるのですが(それじゃこんな寒いところに来るなよ・・と言われればそのとおりなんですが(笑))今年は気温の割りに体感温度が寒くて何だかやたら寒い気がします。

 そんな寒い平凡な私の日々の暮らしは先ず、朝大体645分頃起きて窓のカーテンを開けます。そうするとこの時期はまだ朝日が上がってきてなくて東の空が明るくなってきたといった感じです。もちろん太陽は東の森の中から上がってくるので森の外よりは少し遅くなります。

 それからボイラーのスイッチを入れてお湯で顔を洗います。この時期はボイラーのコントローラーのスイッチを切っても元電源が入っている限り我が家のボイラーは凍結防止の為に自動的に時々スイッチが入って水温が下がらないように働いています。

 それから灯油のファンヒーターのスイッチをいれて部屋を温めます。基本的に我が家の暖房はウッドストーブなのですが昼間は出掛ける事が多いので消してしまいます。そして夕方帰ってくると先に女房がウッドストーブの火を起こして待っているか私が起こすかどちらかで暖をとっています。我が家はログハウスなので基本的に一度暖まると冷めにくいのでその点ではとても助かっています。

 会社への通勤はこの時期はスタットレスタイヤに履き替えた4輪駆動車で往復する事になるのですがいつもとルートを変えています。いつも通る森の中の道は陽が当たるカーブと日陰のカーブでは全く様子が変わり、かなり慣れたものでも結構、危険なので通らないようにしています。陽が当たる側は結構、融けていて、こりゃ大丈夫と思ってスピードを上げると直ぐに逆カーブではアイスバーンになっていて路面はツルツルで慌ててブレーキを踏んだらスーと滑って側溝へ・・・なんて車をしょっちゅう見かけます。だからこの時期は森の中の道は出来るだけ避けて通るようにしています。その為にちょっと遠回りになりますが一旦、標高の低い道まで下がって幹線の道を上がるようにしています。

 それから車に関しては色々工夫があって駐車する時は出来るだけ南向きに駐車します。これは吹雪いた時に出来るだけフロントガラスに雪が積もるのを避ける為です。この辺りは八ヶ岳おろしという冷たい北西の風が吹き降ろしますから。勿論、雪が降りそうな時はワイパーは上げておかなくてはなりませんけどね。それとサイドブレーキは引きません。凍結して解除出来なくなる可能性がありますからね。

 仕事場の室温は大体10度位、寒いので室内でもジャンパーを着て(笑)ウオームビズしています。冬の夜、雪が降ると次の日の朝は自宅でも会社でも雪掻きが朝一番の仕事です。余りに積雪が多いと雪掻きだけで一日分の体力のかなりを使ってしまい、もうヘロヘロ何て事もあります。

 それと困るのは室温が低いので事務仕事をしようと思っても手が震えて少しストーブで手を温めないと字が書けない時もあります。

 こんな事を書くと冬の季節は辛いことばかりのように思われるかも知れませんが楽しい事もあるんです。例えば晴れ上がって放射冷却が厳しい朝、冬山となる廻りの2000m級の山々は本当にこれぞ自然がくれた壮大なプレゼントの様に美しい姿を見せてくれるし、寒い冬の夜、ウッドストーブの前で薪がはぜる音を聞きながらウッドストーブの扉のガラス窓から見える炎を見ているのはお金に代えられない満ち足りた時間を与えてくれます。

 それに、この寒い冬があるから豊かな自然が育まれ新しい生命が生まれる春の季節の有難さが実感として感じる事が出来ると思うとこの寒さも我慢出来ない程、寒いとは思いません。そりゃ、人間なので寒いことは寒いのですがその後に楽しみがあるので我慢なのです。その点が都会に住んで居た時よりも季節を肌で感じるという実感が大きく違うところだと思います。

 唯一、私が苦手なのが足元が滑ると言う事。どうも南国育ちなのでウインタースポーツが苦手で今まで散々スキーやスケートにチャレンジしてきたのですがどうもこの足元が危ない、滑るというのが慣れなくてダメなんですよ。今年も現場でスッテンコロリンとして「痛くないです・・・」と見栄をはりながら痛さを我慢していました(笑)

2010/01/10

今年はどんな生き物達に出会うでしょう

 今年は年明け早々からダッシュのように仕事が始まり、すっかり年末年始のお正月気分も抜けてしまい、いきなり全開モードでいつもの慌しい日常がスタートしました。

 今年はどんな年になるのでしょうね。今日、自宅で昼ごはんを食べながら何気なく外を見ていたら目の前の森の中にバンビちゃんを連れた親子連れの鹿の群れが走ってきました。雌鹿が3頭の小鹿をつれて群れから少し離れてしまったようで森の中で佇んでいました。

 ちょうど我が家の100m程下に鹿が通る獣道がありいつも連中はそこを往復していますが途中、車が通る舗装された道路を横断する為にそこを通る時は連中も慎重なのですが、たまに車が通り掛ったりすると群れが分断されてパニックになるのです。

 慣れた人ならじっと連中の通り過ぎるのを待つか様子をみながらゆっくり通り過ぎてくれるのですが慣れない人が通り掛ると慌ててブレーキを踏んだりもう来ないと思って走り出すと目の前に鹿が飛び出してきたりと鹿の群れにとっては危険な状態になります。

 特にこの時期は猟期なので週末の休みの日は近くから発砲音がしょっちゅう聞こえてきます。都会の方には信じられない事でしょうが私の住む森の周辺は発砲注意地区といって猟が許されている地域なのです。だからこの猟期には始終近くでパンッパンッという猟銃の発砲音がします。

 地元の猟友会の人達が害獣駆除として入っていたりレジャーハンターが入っていたりします。長年、発砲音を聞いているとその人が上手いか下手かも分ってしまいます。パンパンとやたら射ちまくる猟師達は当たらないからやたら撃つ訳で、猟になれた方なら大抵、発砲音は1発か2発で終わりです。その後は静かなものです。だから仕留めたなと分ります。

 鹿達もよくしたもので猟師達が入っているときはどこかに逃げるようで時々里に逃げ込んできたり山奥深く隠れるようですね。しかし、ここ数日は里山にも雪が降ったのできっと山の上の方では餌が取れなくて下に下りてきたのだろうと思いますね。

 それにしても増えすぎて害獣に指定されて今年もかなりの数の駆除が認められているようですが何となく忍びないですね。せめて奪った命への弔いは忘れないようにしたいですね。

 山梨県でも近年はジビエ料理として鹿肉料理のレシピを考案して観光にも役立てようとしている様です。しかし、我が家の家の前を通り掛る小鹿達の可愛いお尻の白い模様をみていると「早く逃げな」と思わず心の中で思ってしまいます。

 そういえば雪が降った朝やシンシンと雪が降っている夜、森の中を通りかかると動物の足跡がそこら中についている事があって思わず笑ってしまう事があります。夜中に結構大量の雪が降った朝、家の前に出てみると明らかに猫の足跡があったりして、この寒い雪がふる夜中にこいつ何の為に遊びにきたんだろ?とか、思いがけず小さな足跡が一直線に付いていて誰だこいつは?とか結構、想像力を掻き立てられます。

 そういえば先日、我が家に遊びに来たテン君はその後、干し柿のひもを引っ張ったまま裏の古くなった木端の山の中に入って行ったらしく紐だけが外に出ていました。どうやらその中に彼(彼女?)の秘密の隠れ家があるようです。しかし、確かその中には家に住み着いていたヤマカガシ君が先にいた筈なんですが・・・食べちゃったかな?それならそれで蛇嫌いの私にとっては好都合なんですけどね。

 今日は車を運転して信号で止まると何やら白い小鳥がツガイで大騒ぎしながら道路脇に下りてきて車に轢かれそうになりながら、それでも飛び立たなくて、何だか求愛行動かな?と思ってみているとどうやら嘴に加えたものを奪い合っているみたいでいつまでもくっついて大騒ぎしていました。

 今年もきっと色々な人間以外の生き物達と出会う事があるます。彼らがどんなユーモラスが行動を見せてくれるのか楽しみです。

2010/01/05

2010年、今年もよろしくお願い致します。

 新年あけましておめでとうございます。2010年、切りのいい新しい年が始まりました。

 今年の年末年始はどこにも行かず子供達が森の中に戻って来たのでごくごく当たり前の穏やかな家族水入らずの時間を過ごしました。久しぶりに家族全員が揃ったので一緒にゲームをしたりカラオケを楽しんだりと平凡ながら充実した年末年始でした。皆さんはどんなお正月を迎えられたでしょうか?

 時間の経過としては只々、時が進み新しい年を迎えたに過ぎないのですが私は気持の切り替えとしてお正月というのは大切な一年の行事の一つだと思います。勿論、お正月は仕事で忙しい方もいらっしゃる訳でそれはそれで又、どこかで気持の切り替えが必要になると思いますが私は無事にお正月を迎えられる幸せを本当に嬉しく思っています。

 お正月の我が家の楽しみの一つはTVで箱根駅伝を見る事です。例年は高知からの帰省中、車の中で見る事が多いのですが今年はどこにも行かなかったのので家でじっくり楽しむ事が出来ました。

 私も高校生の頃、陸上部に在籍していたので走る楽しみや苦しみは少し知っています。陸上競技は本来は個人競技と思われていますがリレーや駅伝だけは団体競技ですね。個人の力量の積み重ねが団体競技となるのですが、そこに襷を繋ぐという要素が混じってくると単に個人のラップ記録の積み重ね以外の要素が出てくるので競技としての面白さはグッと増してきます。

 私も学生時代4×100Mリレーにも出ていたのでその楽しさや苦しみは実感として分かっているつもりです。必死で練習を積み重ねて出場した四国大会で私と次のランナーとの間でバトンが渡らず帰ってきてから「何の為に行ったんだ!」と周りから叱られたり、第2走者として走って県記録を破れずに同タイムに終わった時、中継をしていたラジオの解説者から「第2走者がもう少し早ければ記録を破れた」と言われ、凄く落ち込んだ事もありました。

 ましてやTV中継され全国のファンが見つめる中での箱根駅伝ならそのプレッシャーたるや想像を超えるものがあると思います。「襷が繋がらなかったら・・・」と思うとその選手の気持は痛い程感じます。今回も最終10区で繰り上げスタートとなり1チームの襷が途絶えてしまいました。

 それまで1区から9区まで繋いでいきたタイムの結果なので決して9区の選手の責任ではないのですがやはりそこは人間、走っている選手は何とか襷を繋ごうという思いで走っているので繋がらなかった時は「申し訳ない」という気持になてしまいます。

 まして自分が走っている最中に故障して襷が途絶えた時は尚更、自分を責める事になるのです。今年も選手の一人が昨年、自分が故障して襷が途絶えた区間を再度走り見事に襷を繋ぎ1年間苦しんできた心の葛藤から解放されました。

 又、箱根の山登りでは昨年に続き今年も区間新を更新して見事トップに躍り出た選手がいました。平坦なところではそれほど大きな差は出なくても山登りとなると話は変わります。箱根駅伝のコースを考えた人はそこまで考えてコースを決めたのでしょうかね?

 選手の中には山登りが得意な人、下りが得意な人、それぞれ個性があります。だからそこには個人記録の足し算にはならない要素が加わりそれが箱根駅伝の魅力になっているのだと思います。

 私も又、新しい年の始まりに当たり人の心の複雑さや神秘に改めて接する事が出来ました。今年も多くの人と接する事になると思います。どんな出会いやドラマが待ち受けているのか楽しみですが、私と色々なかたちで繋がる事になる皆さま、今年もどうぞよろしくお願い致します。

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八ヶ岳でのログハウス生活 ---木の家設計施工 森のすまい工房(有限会社アシスト

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