知る権利、知らない権利
最近はインターネットが発達して豊富な情報が色々な所から入るようになり便利になりました。しかし、どうもひねくれ者の私は逆にその便利さに危いものを感じるようになってしまいました。
というのは、その情報の発信者が個人的な価値観や偏った価値観で発信した場合に受け取る側に誤った知識を与えてしまいかねないという事です。
昔は情報の発信源となると新聞や雑誌、テレビ、ラジオといった公共色の強いメデイアに限られていたので、そこにはある程度、情報の信憑性や複数の情報源からの確認作業等の経過をへて検閲作業が行われていたように思いますが、最近はどうもHPやブログ、ツイッター等の情報媒体を個人が自由に使えるようになったので色々な情報を個人が不特定多数の人に発信する事が可能になった反面、誤った情報が広く流される危険性も増したような気がします。
先日の尖閣列島の映像にしてもそうですが統制を失った情報が垂れ流されるのは混乱をまねきますよね。他方、それではどっかが一元的に情報を検閲して統制された情報しか流されないようになると、今度は情報操作が行われ特定の価値観にそった情報のみが流される事になり、それも問題ですよね。
「じゃあ、どうすればいいんだよ!」と言われると、「はて?どうすれが良いのでしょうね?」となるのですが、極論をいうと自分の感性に従って普段からアンテナを張って自分なりの情報を集めて自分の物差しをしっかり持って判断するしかなくなるのでしょうね。
物事には必ず表の面と裏の側面があるのだから、そこを自分なりの価値観で捉えてしっかり判断するしかないのではないかと思います。そういう意味では必ずしも「知る権利」だけではなく「知らない権利」というものもあっても良いのではないかと思います。
勿論、頭脳明晰で沢山の情報処理能力を持った方は出来るだけ多くの情報を集めて分析すればよいのだと思いますが、私みたいに情報の蓄積能力が極端に限られていて時に余った情報が片っぱしからこぼれ落ちていく(笑)なんて場合は本当に必要な情報だけ頂いて、とりあえず生きていく上で問題なさそうな情報に関しては申し訳ないが「スマン、スマン」と言いながらパスさせて貰うのもアリなのかなという気がします。
それ程、今の世の中には私にとって情報が溢れすぎていて困ってしまうのです。つまり知っている事が幸せなのか知らない方が幸せなのか一概に言えなくなってきているように思います。
「独裁政治は無知が生む」と言われます。私も全くそうだと思います。独裁者にとって都合のよい情報しか国民に流さず恐怖を植えつけ統治しやすくするのは独裁政治の常套手段ですが、この場合は間違いなく正しい情報を国民は知らなくてはならず、又、知る権利があります。
昔、アダムとイブは食べてはいけないと言われたリンゴを食べた事で違った価値観を持ってしまいました、本当は神様に言われたとおりリンゴの味を知らない方が幸せだったのかも知れません。そうなったら今の人類はもしかしたら違う生き物になっていたかも知れません。(う~ん、奥の深い話だ・・・笑)
近いところでは歌舞伎俳優さんを巻き込んだ傷害事件が起こり、双方が相反するコメントを発表しその報道を聞いている人達は一体、どっちの言う事が本当なんだ?と首を傾げる事になりますよね。
事実は当事者のみ知る事で、どちらかが意図的に事実と違う事を述べているという事になるのか、或いはどちらも正しい事を言っていて唯、その事実の捉え方が違うのかも知れません。
子供の喧嘩の場合はどちらも悪いという事になるのが一般的ですが・・・ああ、本当に最近は色々、分からない事が多すぎて自分でちゃんと判断していかないと、いよいよ分からなくなってしまいます。
政治の世界も何だか混沌としてきて一体どれが正しいんだという思いが段々強くなってきます。民主党も自民党もどっちもどっちかな~折角の改革のチャンスなんだし、国民が折角、改革を望んだんだからしっかりして欲しいですよね。
一番、残念なのがあの国会でのヤジ合戦。政治家の先生達は小学校で「発言する時はちゃんと手を挙げて発言しましょう」「人の話はちゃんと聞きましょう」と先生から教わらなかったのでしょうかね。国会中継はヤジを聞いているだけでもう嫌になってしまいます。国民の血税はヤジを飛ばして欲しくて納めている訳じゃないんだからしっかり議論をして欲しいですね。
今年もあと僅かです。幸せな年末・年始を迎える為に情報を良く吟味して、くれぐれも振り込み詐欺等の誤った情報を信じないように注意しましょうね。
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