2009/02/15

いのちの食べ方

 先日、知り合いから召集が掛かり地元の若者達が「いのちの食べ方」という自主映画を上映するからこういう頑張っている若者達を我々おじさん達が応援せずにどうする!ということで「オオッそういう事ならイカネバナラヌ」と観てきました。

 

 行ってみると地元の公民館のような所が会場で座敷に映写装置を置いてスクリーンは壁に白い布を掛けただけという正に手作りの自主映画会でありました。入場料はカンパという事でここがオジサン達の出番でもある訳ですが、内容は1時間半という上映時間で音楽なしコメントなしテロップなし、淡々と映像のみ流すドキュメント作品で想像していたとおり我々が普段、何気なく口にしている加工食品がどのような工程で製造されているかその原点に迫るものでかなり衝撃的なシーンも出てきてちょっと目を逸らしたくなるような所もありました。

 

 例えば加工牛肉、当然元は生きている牛な訳でその過程で必ずその命を頂いているのだが我々がその現場を見ることは普段、中々ありません。しかし、誰かがその役割を必ず果たさなければならず、その行為を惨いといえる人は牛肉を食べない人という事になるのでしょうかね。

 

 以前、同じような試みを川崎に住んでいる時に自分でもした事があります。近所の子供達を近くの公園で自主保育という形式で面倒を見ていた時期があり、その中で何とか子供たちに自分達が生きていく為に他の生き物の命を頂いているんだという事を理解させようとしました。

 

 それは子供達だけでなく当然、親達にも言えることだったのですけどね。それでどうしたかと言うと生きた鶏を貰ってきてその鶏を処分して皆で食べようじゃないかと言う事で、誰が処分する?となり、成り行き上私が処分する事になりました。

 

 昔、私が子供の頃はまだ近くの商店街に肉屋さんがあり、そこの親父が毎朝、なぜか店先に椅子をだして鶏の首を包丁で切っていたのを見ていました。しかし、自分で処分したことなんか当然無くて「俺がやるよ」と言ったものの内心「どうしよう・・・」と思っていました。

 

 しかし、時間は容赦なく過ぎてとうとうその時が来てしまい、くだんの肉屋さんの様に手際良く出来る自信は全くなく、その手の本を片っ端から読んで見よう見まねでやる事にしました。

 

 当日、近くの公園の木立の中にダンボール箱に入った鶏を持って行って子供たちは恐る恐る遠巻きに見ています。段ボール箱から先ず羽根をつかんで鶏を取り出し出来るだけ早く苦しまないように首の骨を折り(これが物凄くキツカッタ・・)暴れないように大人しくなるまで抑えておいてすっかり体温が下がり冷たくなってから枝に鶏を吊るして首を切り血を抜きました。

 

 その頃には廻りの子供達や大人達の私を見る目はまるで犯罪者・・・実際、後で随分批判もされましたけどね。それでも子供達は好奇心の方が勝り時間が経つに従って段々、遠巻きに観ていた輪が短まり最後はぶら下がって首のない鶏に触ってみる子供達も出るようになりました。

 

 そして血抜きが終わった鶏を家に持ってかえって鍋に入れて毛をむしり取り解体して手羽焼きにしたり煮たりして食べることになりました。その時になってみると以外と子供達は平気で食べるんですよね。食べられないのは自分、どうしても手に鶏の温かみと首の骨を折った時の感触が残っていて最初の一口がなかなか食べられない。

 

 こんなものなんですね。偉そうな事言ってもやってみると中々出来ないものなんです。現代に住む我々は食生活に関しては加工食品に依存している部分が多くて昔、子供達は魚が切り身で泳いでると思っている。なんて笑い話の様な話がありましたが魚にしても動物の肉にしても野菜や果物にしても必ず命を頂いてエネルギーに変えているワケでその原点を「惨いから見せない」という事でなく知らせる事も大切な情操教育になると思います。

 

 現代はそういう原点を感じる機会が少ないのでゲーム感覚で大切な命を簡単に奪ったり奪った命をリセット出来ると錯覚してしまうのだと思います。

 

 さて、話は元に戻って「いのちの食べ方」はそういう意味で加工食品が現在、どのように生産されどのような過程を経て我々の口に入っているか事実をコメントを加える事無く淡々と描写した優れたドキュメント作品です。

2009/02/08

今まで書けなかったこと・・

 八ヶ岳に住んでから20年、この世に生を受けてから50数年、手掛けさせて頂いた家が150数棟、そうこうしているうちに段々、八ヶ岳の仲間、身内、お客様の中で段々、人生を終えていかれる方が増えてきた。その度に悲しみ、元来が涙もろい(笑)ので最近はこらえるのが大変になってきて困っている。人は齢を重ねるごとに涙もろくなると言われるけど「全くだ」と自覚している。

 最近は結婚式に呼ばれることはまず無くなり呼ばれるとなると葬式ばかりになってきた(笑)。しかし、こりゃしょうがない。うっかりするとそのうち自分の番がくるのだから・・・だから悲しんでばかりはいられない。

 最近読んだ北杜市に住む作家、樋口明雄氏の著書「約束に地」はここ北杜市を舞台にした小説でテーマのひとつに「死とは乗り越えるものではなく共に生きるもの」とある。自分の父は十数年前に亡くなったがその時はあまり悲しくはなかった。父は父なりに自分の人生を全うしたと思っていたからである。全く高知の「イゴッソウ(頑固者)」らしく好きな事をしたと思っている。実の母は少し認知症だけど体は健康で元気である。義理の母は亡くなって3年、最後は病床で少し苦しんだので見るのが辛かった。

 そして、それらの死をやはり時間と共に乗り越えていかなくてはと思っていた。しかし、そりゃ時間と共に悲しみは少しずつ癒されていくけど乗り越えると云う事は忘れると云う事に繋がるようで少し嫌だった。まあ、そのうちボケて忘れるのだろうけど(笑)しかし樋口さんの言われるように「共に生きるもの」と考えた方がとても楽である。

 人間も生きものである以上、いつかは死を迎える。生きることは死ぬこと、生を受けるということはいつか死を迎えると云う事。死は新しい生の始まり。私は別に生き返ると云う事ではなくある人の死は、その死に関わる人達の新しい人生の始まりだと思います。支えを失い新たな生活を始めなくてはならなかったり教えを受けられなくなって自分で考えなくてはならなくなったり、新たな変化が始まるのだと思っています。だからこれからそう思うようにしようと思っています。そうしないと数が増えすぎて困るから(笑)

 私自身は東京でのサラリーマン生活を捨てて自分の意志に従ってここ八ヶ岳に引っ越してきて自分の生きる証として多くの家を手掛けさせて頂き全く好きな人生を歩ませて頂いて、最近の流行ではないけど「生きてるだけで丸儲け」と思っている。多分、付き合わされた家族は良い迷惑であったろうと思うけど家族だからショウガナイノデアル。

 大切なのはその日を精一杯生きること。そう思っている。しかし、最近一日がやたら早く過ぎていくのは何故なんだろう?やらなくてはならない事は山ほどあり、その日一日で出来る事は本当に限られている。毎朝、その日一日でやらなくてはならない事をメモに書いてこなすようにしているのだけど本当にそれだけで精一杯である。これは生きている者の宿命なのでしょうね。だから私の廻りの人生を終えた皆さん、私は皆さんと共に生きていきますからね。時々、忙しくて忘れる事があっても勘弁ね。

2009/01/31

旅への思い・・・

 ここのところ旅というものをしていない。移動はしている。仕事絡みや私用で田舎との往復も含めると結構、移動はしている。しかし、純粋に家族旅行みたいなものをもう暫らくした覚えがない。

 子供達が小さい時は夏休みを利用してキャンプをしたり旅館に泊まったりとあちこち旅行はした。しかし、子供達も大きくなって皆、そろってどっか旅行に行こうなんて事は少なくなってしまった。女房とあそこに行こうか?何て話はするものの実現したためしがない。

 大体、休みがお互いにずれているのですれ違いばかりで一緒に過す時間が長くない。海外旅行なんて新婚旅行に二人でサイパンとロタ島に行っただけでそれ以降はいつも仕事がらみの海外行で二人で行ったのは新婚旅行が最初で最後であった。

 そう、あの時はまだパスポートが数次旅券と一回限りのものと二通りあって女房があの時「どっち取れば良いの?」なんて言うから、格好つけて「結婚したら何回も二人で海外行くんだから、数次旅券にしとけ」なんて言ったのが運のつき、あれ依頼ず~~と「私は騙された」と言われ続けている。

 そんな事言われても「俺は一生懸命働いてるんだけどな・・・」と小さく聞こえないように反論するのが精一杯。エ~エ~確かに言いました!言いましたけど仕方ないじゃありませんか。行けなくなっちゃんだから・・

 今に見ていろ「世界一周旅行へ連れて行ってやる」なんて定年近くのサラリーマン達は夢見るようですがこれが以外と日本人には馴染めないみたいですよ。

 以前、知り合いの豪華客船のスタッフの方に聞いたのですが欧米の旅行に慣れた熟年夫婦の場合は結構、長い船旅でもダンスをしたり泳いだり映画を観たりと社交的に過せるそうですが日本人の高度成長期を頑張ったサラリーマンの方が定年を迎えた場合は仕事しかしてこなかったので長い船旅を夫婦二人で向かい合っていると息が詰まってしまい、かといってダンスや船長主催のデイナーパーテイーには馴染めないしで結構途中の寄港地で船を下りてご帰還なんて事も珍しくないみたいですよ。

 だから豪華客船ではそんな日本人の為にあの手この手で飽きさせないイベントを企画するのが大変みたいです。そりゃそうでしょうね。デイナーパーテイーなんて急に言われたって、こちとりゃ立ち食いそばで頑張って来たんだからそりゃ無理ってもんでしょう。急に紳士淑女にはなれないってもんです。

 それじゃ温泉旅館にでも行くかと思うけど、これがまた無類の早風呂でカラスの行水ときてる。だから仕事で旅館に泊まって同行の方達と一緒に風呂でもなんてなるとこれが辛いの何のって我慢して裸の付き合いしてるけど汗ダクダクでもう限界ギリギリの忍耐以外のなにものでもないときているからどうしようも無い。

 それじゃ泊まらなくてもよいからゆっくりフルコースのデイナーでもどうかと思いきや、これが子供の時からの無類の早食いときている。何せ普段でも現場周りが忙しけりゃ運転しながらサンドイッチとコーヒーで昼食なんてのも珍しくない。ゆっくり食べるなんて習慣は全くない。

 さすがに大人になってからお客様と一緒に食事とか接待宴会なんてものを経験するようになって廻りから散々注意されて、お客様より先に食べ終わるのはマズイと考え直し、ペースを調整するようになった。

 しかし、習慣というものは恐ろしいもので今までろくに噛みもせずに飲み込んでいたものをユックリ噛んでペースを調整すると全く食べた気がしない。いやはや、これじゃ確かに健康にも良くないし一緒に食事してくれる奇特な人なんていないですよね。

 しかし、旅行が嫌いな訳ではない、むしろ大好きである。今まで海外はアメリカ・カナダ・メキシコ・インドネシア・台湾・シンガポール・イタリア、日本は北から北海道、新潟、岩手、石川、宮城、群馬、茨城、埼玉、千葉、東京、神奈川、山梨、長野、岐阜、静岡、愛知、三重、滋賀、京都、大阪、兵庫、広島、奈良、徳島、香川、愛媛、高知、福岡、宮崎、鹿児島、沖縄には行った。

 オオッ!結構行ってるではないか・・・そうだ昔、世界一周はとても無理だけどいつか日本一周は行ってみたいなと思ったんだ。通り過ぎるのではなく一つの県にゆっくり滞在して日本再発見をしたいと思ったんだった。そうだ、そうしよう。

2009/01/25

おいしい水

 最近、女房に朝起きてくると一番に水を飲まされています。何だか体に良いそうでコップ一杯の水を寝起きに飲むというのは慣れないうちはちょっと辛かったけど最近はもう習慣になったのでそれほど辛くなく飲むことが出来るようになりました。

 

 我が家の水は共同井戸水で地下100mのところから汲み上げているそうで今まで枯れたことはありません。もう十数年前になりますがこの井戸を管理していた会社が倒産して別会社に管理が移された事がありました。その途端にすっかり味が変わってしまい、或る日、風呂に水を溜めて入ろうとしたら目がくらくらして刺激臭がしてとても入れない状態で翌日、管理会社に連絡したら「安心して下さい。前の会社がいい加減で消毒もしてなかったので今度は塩素の自動投入機を井戸のポンプに取り付けましたので安心して飲んで下さい」との返事「・・・う~ん、余計な事を」と思いましたがそれにしてもひどいので再度調べて貰ったらその共同井戸で供給される別荘地の一画で配管がパンクして水が出っぱなしになっていてその為に自動投入される塩素がどんどん供給されたのが原因と分かり、その件は一件落着となりました。

 しかし、人間の感覚というのは大したもので今まで無かったものが入ってくると直ぐに何だか分からないけど拒否反応をしめすものですね。

 元々ここ八ヶ岳の湧水は八ヶ岳に降った雨が100年程かかって出て来ると言われており日本百名水の一つにも数えられている地域なのです。八ヶ岳の地層にいくつかの粘土層が含まれておりここが不透水層となり八ヶ岳に降った雨がその不透水層に当たって表面に出てきていると何かの本に書いてあったのを読んだ覚えがあります。

 その不透水層がちょうど標高1000m付近にあるそうでその為に私が住んでいるここ八ヶ岳南麓の長坂町や大泉町、高根町付近の丁度標高1000m付近には豊富な湧水群が存在しているという訳です。

 しかし、いくら名水だからといってもさすがにそのまま飲み続けるのは少し抵抗があったので定期的に成分調査をしてもらったり必ず煮沸してから飲むようにしていたのですが、最近は煮沸した上に炭をいれて不純物を取り除いてから飲むようにしています。

 以前、加工場で丸太の皮むきをしている時に某TV局の取材を受け「この水を飲み比べて下さい」と言われ要は八ヶ岳の美味しい水と都会の水道水とどちらが美味しいかという企画だったのですが忙しかったので断ろうかと思ったら綺麗なオネエサンがインタビューアーと知りつい引き受けて、やらせでいかにも仕事中に突然インタビューを受けて肉体労働者の素朴な感想みたいなシチュエーションで答えた事がありました。

 当然、地元の水が美味しかったのですがその水が本当にどこの水だか分からないので真相のほどは私には分かりませんが、確かに我が家の井戸の水は都会の飲料水と比べると口当たりが柔らかいような気がします。

 しかし、最近は都会の水も殺菌方法等の技術的な進歩が進み美味しくなったそうですね。昔みたいに都会の水、即まずいという印象はないみたいです。

 我が家の井戸水もお陰様で今のところ蛇口をひねれば普通に出てくるし開拓当時のように川の水を引いてきたりする苦労をせずに都会と変わらない便利さを享受しています。

 でも、時々思うんです。都会の場合は断水したから近くの川の水を飲むという感覚ではないでしょうが私の住むここ八ヶ岳南麓ではとりあえず美味しい湧水群があり、保健所では飲料水としては不適と言われますが緊急時に暫らくその水を飲んだからといって健康被害が出るような事はないと勝手に自分で思っています。だって、その位綺麗で冷たくて澄んでいるのです。これはとても有り難く幸せな事だと私は思っています。

 それに近所には知り合いお百姓さんの畑も一杯あるし魚も豊富に泳いでいるしイザとなれば鹿やイノシシもいるし何とか連中を捕まえて・・・何とか生きていけそうな気がしませんか?こんな事を考えるのは私だけでしょうか?以前、開拓民の方の話を聞いたときに一番苦労したのは水だと言っておられたのを覚えています。この辺りは昔から水利権をめぐる争いが絶えなかった所らしくそれくらい水は生きていく上で大切なものだったと言うことでしょうね。

2009/01/18

冬の生活

20090118_100116000  20年前に八ヶ岳に暮らそうと土地を探して家族と週末毎にあちこちとウロウロしていました。そんな冬の或る日、白州、武川方面を探して廻った後、何でだか忘れたけど小淵沢の駅前に来ました。

 その日は確か少し曇っていて冷たい北風が駅前を吹き荒れていました。その時、八ヶ岳には住みたいけど果たしてこの冬の寒さに耐えられるだろうかと内心ちらっと不安が心の隅を横切ったのを覚えています。家族に「八ヶ岳に移住する!」と宣言して土地探しを始めた手前、とても「寒いから止めようかな?」何て言えるわけもなく、初志貫徹で移住してしまいました。

 元々南国高知で暮らしていたので寒さには弱かったのです。しかし、人間というものは慣れるものですね。今ではどちらかというと夏の暑さに弱くなってしまい、とても夏の高知で暮らしていく自信がありません。一度、母の看病で高知に夏、帰った事があるのですが母がクーラーが嫌いなものでマンションの母の部屋にはクーラーが付いてなくて一晩中、汗ダラダラで眠れない夜を過した覚えがあります。

 一番下の息子も小さい頃、夏休みに高知に一人で遊びに行ったのですが帰ってきたら全身、あせもだらけで「もう夏休みには帰らない」と言っていました。人間って環境に慣れるものですね。

 さて、そんな八ヶ岳の冬の暮らしですが寒さは昨今の地球温暖化の影響か、さほど昔程、冷え込む日は少なくなりました。それでも当然、氷点下ですが・・・そんな我が家の冬の一日、まず暖房ですがこれはウッドストーブが欠かせません。とにかくウッドストーブが一番の重要アイテムですね。これが無いと死んでしまいます。だから一冬分の薪が充分、備えてあると心も豊かになります。

 それからスタットレスタイヤ、当然車は4輪駆動車しか買いません。その車にスタットレスタイヤを雪が降る前に装着してしまいます。前は自分で取り替えていたのですが一度、冬の雪が降った時に慌てて装着したら暫らくして走行中にタイヤが外れてしまい、それから怖くなってそれからはガソリンスタンドに持っていって代えています。その時についでにオイル交換もしてしまいます。冬にタイヤ交換する場合はタイヤのナット等に氷が付着して締め付けが甘くなることが有りますのでご注意下さい。

 それから、冬の運転ですがこれはとにかくスピードを出さない事につきます。先日、女房が後ろから車に煽られて横に寄せて追い越させたらその車がその直ぐ先でスピンしながら滑っていったそうです。兎に角、凍結した道路でブレーキを踏んだらもうアウトです。その時はとにかく慌てずに一度アクセルを踏んで姿勢を戻してからゆっくり制動をかけるしか手がありません。ご注意、ご注意・・・。

 私が気を付けているのは雪が降り始めたら出来るだけ車で出掛けない事です。当たり前の事だけど特に雪の降り始めや冬の初めは地元の人でもタイヤの準備が出来ていなかったり都会から遊びに来た人やトラックの人達も冬対策が出来ていない事が多くてスリップ事故に巻き添えになる可能性があります。

 一度、事務所の前で大型バスがはるか坂の上からスリップして制御不能のまま横向けになって100m近く滑り落ちてくるのをなすすべも無く横で見ていた事がありました。

 雪が降った時は、雪が降った当日よりも翌日の朝が一番危険です。降った雪が一度溶けてそれが夜の間に凍結してしまうのです。そうなるといくらスタットッレスタイヤを履いていても止まりません。

 車といえばその他にも冬は駐車した時にサイドブレーキを引かない方が良いです。凍結して解除出来なくなる事があります。それからもう余りないとは思いますがデ―ゼル車は必ず冬用の軽油を入れておかないと凍結して動けなくなりますので気をつけて下さい。以前は結構、このトラブルがありました。

 冬の楽しみは何と言ってもこの辺りには2000m級の山が多数あるのでその冬景色はもう何物にも代えられない美しさを見せてくれます。

 冬の高気圧に覆われた晴天の日には朝から夕方まで太陽の位置が動くのに合わせてその美しさが変化し特に朝夕の赤く染まった八ヶ岳や南アルプスの荘厳な姿は涙が出そうになるくらいです。冬の一日、ウッドストーブの前でゆっくりお茶をしながらこの景色を眺める時は至福の時です。だから、やめられないのですね・・・

2009/01/11

恐怖の煙突掃除

 先日、寒波に襲われた夜、仕事を終えて家に帰ろうと自宅に電話したら女房が「ストーブの煙が逆流して家の中が真っ白なんだけど・・・」と不機嫌そうな声。その瞬間、嫌な予感が体中を駆け巡り「分かったよ帰ったら調べてみるから」と不吉な予感を押し殺して帰宅。

 家について着替えてから2階に上がってストーブの煙突が屋根を貫通する部分を手で叩いてみたら「ガラガラガラ・・」と嫌な音が・・・あ~あ、やっぱり詰まってる。実はサンルームの増築が忙しくてここ2年程、煙突掃除をサボってました。もうそろそろヤバイかな~と実は思っていたのですが屋根に上るのがいやでサボっていたのです。

 あ~あ、自業自得とはこの事、まさかこの寒空にウッドストーブ無しで我慢出来る訳なく、その晩は何とか騙しながらストーブを焚いて翌日、夜が明けてから屋根を見上げると予想どおり屋根には夜露がびっしり凍りついていてとても上れない。しかも我が家の屋根の勾配は45度、幸い玄関を増築して屋根を緩勾配で継ぎ足したのでその上には何とかサンルームの屋根伝いに上れる。

 「こりゃ、昼過ぎて太陽が西に傾かなきゃ無理だわ」と一人納得して昼まで待って作業開始。毎度の事ながら45度勾配の屋根に突き出た煙突にたどり着くには反対側の天窓からロープを投げて片方の端を家の中の柱に括りつけ煙突側の屋根に投げたロープの端を体に結びつけて安全確保をしなくてはとても作業なんか出来ないのです。

 重い足取りを引きずりながら地下室に置いてある煙突掃除用のブラシとロープを取り出し、こびり付いたタールを取り除くための道具を腰袋に詰めて2階へ、ロープの端を近くの柱に括りつけ天窓を開けてそこから一旦、身を乗り出して反対側の屋根にロープを投げ、更にサンルームの屋根に出てから反対側の煙突のある屋根に乗り移りロープの端を捕まえて自分の体に括りつけ、「さあやるかっ!」と自分に気合を入れ、袋に入れた掃除用ブラシを取り出そうとしたら、何と手が滑ってブラシが屋根を転がって下の駐車場に転落。

 「ウッソ~・・・」しばらく呆然と下に落ちたブラシを眺めていても誰もそれを取ってくれる訳もなく、体に括りつけたロープをほどいて腰袋を外してついでに一旦いれた気合もとりあえず保留して、とぼとぼとさっき屋根に出た扉から中に入り1階に下りて玄関から駐車場に出てブラシを拾って再び煙突を見上げて溜め息一つ・・・

 「ふ~」再び、同じ手順を繰り返し、今度はブラシを落とさないように体に括りつけたロープの途中に括りつけてイザ再出陣!ロープを引っ張って煙突の上にたどり着き、作業が出来るように煙突に足場を確保してから煙突のトップを外し中を見たらイヤ~付いてる付いてる。どうしても煙突のトップは煙の温度が下がるのでタールが付きやすいのですがベッタリこびり付いてました。

 持ってきたドライバーでそのタールをこそぎ落とし、次に煙突の中にブラシを突っ込んで上から何度も上下させて煙突内のタールを下に落とします。その後で家の中に戻りウッドストーブの扉を開けて中にたまったカスを取り除きやっと掃除完了!

 これで今晩から安心してストーブが使えます。そしてその晩、買い物で遅くなった女房に代わり私が火を付ける事になり意気揚々と点火!・・した途端に家の中に煙が噴出した!ウソッ?何で?慌てふためいても後の祭り一旦付いた火を消すのは今度は大変。

 全ての空気取り入れ口を塞いで燻るストーブをなだめすかして鎮火するのをひたすら待ってから中の火種を取り出してやっと煙は落ち着き、訳が分からず呆然とストーブを眺めていたがフト思いたってストーブから出ている煙突の一番下を叩いてみたらギッシリと燃えカスが詰まっているではアリマセンか!

 確かにストーブの中に手を突っ込んで煙突の中まで掃除して手が届く範囲の燃えカスを摂ったつもりがその煙突の上で既に燃えカスが詰まって溜まっていたのですね。最初に煙突のテッペンからブラシを突っ込んで下に着いた感触を確認したのですがそれはこの詰まった燃えカスのテッペンだったのですね・・・しかしまあ、よくぞここまで詰まったもんだ。

 そういえばここ最近、ストーブの火のつきがメチャクチャ悪かったもんな。この所為だったのね。スマンスマンとストーブに謝りながら再着火。今度はスムーズに点火。そりゃ~もう快調に燃え上がり、「そうだよな、これが普通だよな」と改めてウッドストーブの素晴らしさを思い出して暫らくストーブの火に見入り、女房と二人で「やっぱりストーブの火っていいよね~」と満足したのでありました。しかし、ウッドストーブの掃除、皆さん抜かりはないですか?ってこんな真冬に煙突掃除するのは俺だけか・・・

2009/01/05

今年もどうぞ宜しくお願いします。

 年末に子供達のうちの男連中2人が帰って来ましたが娘は仕事で残念ながら戻って来られなかったので都合4人で田舎の高知に帰ってお正月を迎えました。幸い天気も良くて高速道路の運転も長男と二人で交代しながらだったので比較的楽に小淵沢ICから高知の南国IC迄の約720Km10時間程で何とかクリアして無事到着。

 田舎のバアチャンの見舞を済まして紅白歌合戦をのんびり女房の実家で見てから子供達も連れて近くの神社に初詣に出かけました。小さな神社ですが女房の実家の氏神様なのでいつもお世話になっている神社でここ数年、いつも紅白歌合戦後の初詣に出かけているのです。

 長い階段を登りきった所でまだ年が明けていなかったので10数人の人たちが待っていました。手を洗って清めてから待つ事数分、やっと年が明けた所で知り合いの神官さんがおもむろに太鼓を叩き始めやっと2009年の年明けを迎えました。賽銭箱にお賽銭を入れて鐘を鳴らして今年一年の願い事をお願いして田舎の正しいお正月を無事迎える事が出来ました。

 翌朝はゆっくり朝寝坊をして毎年、年明けの一番の楽しみである箱根駅伝をテレビで見ながら朝食を摂りその後、市内の初売りの店に行って買い物をした後、親戚の家に泊まりに行きました。毎年、女房の妹の一家と正月を過ごすのが日課になっており義理の妹の子供達4人とうちの子供達3人、合わせて7人で一緒にガヤガヤと賑やかに毎年過ごしていたのです。

 子供達が段々、大人になり今回もうちの娘が勤務で帰れなかったので一人欠けてしまいましたがこんな時にしか中々会えないいとこ同士なので都合がつく限りこの時間を大切にしたいと思っています。

 その後、今度は女房の方のジイチャンをお見舞いに行ってから再び高知市内の実家に戻り最後の夜をゆっくり家族水いらずで過ごし翌朝には高知を後にして又、八ヶ岳に戻って来ました。

 毎年繰り返してきた何の変哲もない我が家のお正月風景ですがこの「何の変哲もないお正月」が私にとって何よりも幸せな時間なのです。出来るならこの先も、この毎年変わりのない平和なお正月が無事迎えられる事を心より願っています。

 さて、新しい年の始まりにあたり今年はどんな暮らしをしようかと考えました。新しい年といっても時間が特に新しくなる訳ではなく単にいつもと同じ明日を迎えるだけの事なのですが一年という時間の区切りを心の中でつけるというのはメリハリがついて私は嫌いではありません。むしろ大事にしたいと思っています。

 そうした時に私はいつも自分の心に問いかけます。今、何を感じているか?これから何をしなくちゃならないと思うか?それは昨年、一年かけて何となく心の中に積もってきた自分の感情の積み重ねの中から自分でも気が付かない心の整理をつける意味で大切にしている決め事なのです。

 今年、私は自分の感性をもっと大切にしようと思います。年を重ね、自分でも知らずと習慣になっている暮らしのリズムを唯繰り返すのではなくもっと自分の感性のまま暮してみようと思います。

 眠いと思った時に寝て、仕事したいと思った時に仕事して、時間だからといって食事をするのではなくお腹がすいたらご飯を食べ、楽しい時には思いっきり楽しみ、悲しい時には泣き、美しいものを見た時に美しいと感動し素晴らしい音楽を聴いた時にはジャンルに縛られずに楽しむ。

 そんな人間としての感性を習慣に縛られずに素直に楽しみたいと思います。そして今年一年、健康で元気に目一杯仕事を楽しみたいと思います。経済は世界的な不況でお先真っ暗な状態ですがそういう時だからこそ自分の感性を信じ今、出来る事を精一杯努力するしかないのではないかと思います。

 こういう時だからこそ経済発展に依存するのではなく節制に努め自然との共生を見直して感性豊かに暮らせる暮らしを実現させてみたいと思います。今年一年、どうぞ宜しくお願い致します。

2008/12/28

今年一年、有り難うございました。

Yatu 今年も一年、森の囁きを読んで頂き有り難うございました。世界的な経済恐慌や大地震の発生等2008年は辛い出来事が印象深かった年でしたが来年はどんな出来事が待っているのでしょうか。出来れば明るい出来事の多い年にしたいものです。

 皆さんは今年どんな年でしたか?私は来年、八ヶ岳に来てから20年目を迎えます。東京でのサラリーマン生活に終止符を打ち一大決心(実はそれ程でもなかったのですが)して八ヶ岳に移住して来てあっという間の20年間でした。今思い返してみても人生で一番の変動があった期間かも知れません。

 この20年間で子供たち3人もそれぞれ成長し私の造ったログハウスから巣立って行き自分たちの人生を歩み始めています。私たち夫婦は又、子供達から手が離れ二人で新たな暮らしを始めています。

 来年は八ヶ岳移住20周年という節目の年になります。だからといって特別な計画があるわけでも何でもないのですが私は常に人は何でも良いから目標や夢がないとつまらないと思っています。だから、私もこれから年末・年始の休み中に来年の目標を決めようと思っています。

 普段、中々長い休みが取れず家族と一緒に1週間近く一緒に過す機会がないのでそれはそれで楽しみですが私自身もゆっくり過しながらぼんやりと来年の事を考えようと思います。

 いつも年末になると思い出すのですが今年も色々な人との出会いや別れがありました。

 いつも顔をあわせると笑顔で元気をくれる人、何だか悩みを抱えて辛そうに話を聞かせてくれた人、年齢的には私よりずっと先輩なのに元気一杯で人生を楽しんでおられる人、怒り一杯で周りの人に当り散らしていた人、いつもホンワリした雰囲気を漂わせて周りに暖かい雰囲気を与えてくれる人、残念ながら自分の人生を全うして旅立って行った人、様々な人達との触れ合いが今年も沢山ありました。

 そういう意味で今年も私にとってはとても有意義で楽しい一年でした。人と人が触れ合う事はとてもエキサイテイングな事です。私はいつも初めての人とお会いするときにドキドキします。この人はどんな人なんだろうとドキドキしながら接しています。心の中にどんな物語を持っている人なんだろうと想像しながらその人のちょっとした話し方や身振りから想像するのです。

 とても第一印象で分かるものではありませんが何度かお会いしているうちに何となくその人のイメージが出来上がっていきます。それが本当のその人の姿かどうかは分かりませんが私にとってのイメージが出来上がっていきます。私にとって色んな人とのそうした触れ合いが最大の財産です。

 私の子供の頃は本当に人と接するのが苦手な子供でした。それは今でも心の奥底では変わらないのですがそれが大人になるにしたがって逆に「この人はどんな人なんだろう」と自分なりに想像して自分なりのイメージを造っていく心の動きに変化していったのではないかと思います。

 来年は又、どんな人との出会いが待っているのでしょう。その人は今どこで何をしているのでしょう?人は自分の未来が見えないから楽しみですね。過去は変えられないけど未来は変える事が出来る。私はいつもそう思っています。

 人は過ちを犯すこともあります。それが自分で意図した事でなくても結果的に起こしてしまう事もあります。でもその失敗は未来で取り返す事が出来るかも知れない。私なんか過ちばっかりです。でもいつも周りの人に助けて貰っています。自分一人では何も出来ないけど周りに自分を分かってくれる人がいると私は生きていける。だから人との触れ合いは私にとって何より大事な財産です。

 このブログを見てくださる方にもとても感謝しています。書き始めた時はこんな下手な文章を読んでる人が本当にいるのかなと疑心暗鬼で書いていましたがある日、このブログのファンですと仰る方からコメントを頂き本当に驚きました。私の拙い文章を読んでくれている人がいる!それが勇気を与えてくれました。

 私は来年も新たな人との触れ合いを楽しみにしながら自分で何が出来るかを模索していきます。今年一年、本当に有り難うございました。良かったら来年又、遊びに来てください。お待ちしています

2008/12/24

今年最後の新月伐採

20081224_102357187  大阪の知り合いの会社が今年最後の新月伐採をやるので現認(第3者として伐採に立ち会って伐採木の履歴を記録する行為)を依頼され行って来ました。

 山梨から特急と新幹線を乗り継いで新大阪駅まで行きそこから地下鉄で待ち合わせ場所の事務所に着いたのは夕方の5時を廻ったあたりでした。

 新幹線はよく利用するので別に問題無いのですが地下鉄となると東京と大阪では色々と細かな操作が違っていて画面に表示される操作を良く見ないと間違えそうでした。

 そこの会社は無公害キッチンを造っている会社で新月の木に興味を持って頂いて数年前から熱心に活動されています。今回、初めて私は河内長野の山に入りその会社で利用する樹齢120年生の杉、桧の新月伐採に立ち会う事になっているのです。

 到着した晩は色々と新月伐採の事や仕事の事等についてそこの社長さんと話し合い翌朝、朝7時に集合して山に行くことに・・・翌朝、約束の時間に待ち合わせ場所に行くと一緒に行く関係者の方は来られているのに社長さんはまだ来られていなくて連絡を取って自宅まで迎えにいくと朝4時まで仕事をして皆のお弁当も作っていたとの事、そうです。くだんの社長さんは女性なのです。しかし、熱心な社長さんで頭の下がる思いです。

 ようやく全員揃って目的の山に向かって出発し車で約1時間、河内長野の山が見えて来ました。山のふもとの森林組合の製材所でお手伝いをしてくれる伐採関係者とボランテアの青年二人も合流しいよいよ山の中へ・・・どこでも見慣れた山の風景ですが山仕事用の林道は決して快適なものではなく乗用車が1台漸く通れるくらいの巾しかどこもありません。

 いつもそういう山道を通っていて「ここで落ちたらお陀仏だよな・・・」と毎回心の中で呟いています。しかし、車はそんな谷下に落ちることもなく無事、伐採現場に到着。今回、伐採に協力して頂いた山主さんや林業をされているその息子さん、そして実際に伐採をして頂く職人の方達5,6人が山で待っていてくれて挨拶もそこそこに今日の段取りを打ち合わせして早速、伐採が始まりました。

 山の斜面は30度~40度ある北斜面、上り下りだけでも結構大変、しかも今回、伐採する杉・桧の林は樹齢120年生の木ばかり。私も初めて見ましたが管理された植林ですが間伐が遅れていて木の直径はさほど大きくないのですが樹高が高い!何と40m近い大木もあり平均でも30メートル後半の高さがあります。

 これほどの樹高がそろった山は初めて見ました。これだけ樹高が高いと伐採するのも結構、神経を使います。しかも間伐がそれほど進んでいないので樹間が余り開いていおらず掛かり木になる可能性が高くキコリさんの腕前が要求される森です。今回は一日で20本程、伐採する予定でしたが樹高が高く結構な数量の木が取れそうなので本数を減らして17本切る事になりました。

 1本伐られる度にボランテアで来てくれた青年二人が倒れた木の長さや直径、樹齢、倒れた方向、角度等を手際よく測定し、それを私がIDカードと呼ばれる記録用紙に記入していきます。それは山の中では結構、骨の折れる仕事なのですが参加者全員今回の新月伐採の意味をよく理解して頂いているようで非常に協力的で気持ち良く測定する事が出来ました。色んな所で伐採に立ち会っていると中には「何でこんな面倒くさい事しなきゃならないんだ・・・」と言わんばかりの人もいるのですがここ河内の方達はすごく気持ちよく伐採して頂きました。きっと良い木が取れる事と思います。

 今年の新月伐採の現認はこれで終わりです。又、来年、新たな出会いがあるかも知れません。今回の河内長野での伐採に立ち会って改めて多くの人達が日本の山を何とか良くしなくては思っておられてこういう人達がいる限り私はこの活動を地道に続けていかなくてはならないと強く思いました。

 今年も世界を震撼させる経済恐慌の予兆が見られ人々を不安に陥れていますが山の木々達はそれを見て何を感じているのでしょう。未来の子供たちにこの日本の山の自然を受け継ぐのは我々、現代に生きる者の使命だと私は思います。来年も微力ながらそんな活動が出来ればと願いながら八ヶ岳に帰って来ました。

2008/12/16

貧乏万歳!

 世の中、世界的な経済不況で米国自動車産業の3大企業が破綻の危機に陥ったり日本でも派遣社員の大量解雇や賃金カット等、不況の嵐が吹き抜けています。

 ニュースで株式市場のボードを見つめる人々の姿がよく取り上げられますが、私のような元々何も持たない(笑)人間にとっては別に資産が減るわけでもなく、というか元々資産と呼べるものが無いので、これは幸せな事か不幸な事か自分でも良く分からないのですが自分の今までの人生を振り返ってみると、幼少?の頃の実家はそれでも比較的裕福で商店街の一角を貸家として持っておりそれなりに不自由なく暮らしていたように記憶しています。

 子供の頃なので余り良く覚えていませんが当時、祖母からは父は「あまり商才がないから事業に手を出してはいけない」と言われていたのを記憶しており確かに時を経るにつれ段々、実家はお金に困る様になり、それにつれて引越しを繰り返すようになりました。

 父はガソリンスタンドを経営しており、子供の頃から毎朝、店を開けるのが私の仕事でした。中学生の頃、父に「明日、税務署が来るから大事なものは隠しておけ」と言われ訳が分からないまま自分なりに大事なものを隠したのですが翌朝、税務署の人と思しき数人の人が店に訪れ何やらドヤドヤと事務所の電話やら机やらに札を貼り始めました。

 今、考えればいわゆる差し押さえというやつだったのでしょうね。当時、母は「恥ずかしい、恥ずかしい」と言ってましたが私は訳が分からず何やらワクワクしながら見ていたような気がします。父は「貼るなら見えない所へ貼れ!」って怒鳴っていました。元々、父は根っからのイゴッソウ(高知弁で頑固者のことです)なので父の名誉の為に言うならお金がなくて差し押さえられたのではなく払いたくない税金だったのだと思います。その後も裁判までして抵抗していましたので・・・そういう人でした。

 しかし、それはそれとして確実にその後も段々、経済的に苦しくなっていき、その中でも母が苦労して兄と私の二人を大学まで行かしてくれました。私は同じ高知出身で同じ大学に行った友人と二人で同じ部屋の学生寮に入りましたがあの頃が今までの人生で一番貧乏でした。

 そんな事情だったので母に余り無理も言えず兎に角、始終お腹をすかしていました。特に月末は二人とも金がなくて同じ寮の友人に田舎から食料が送られてくると皆で部屋に押しかけて食べさせて貰っていました。1週間くらい米とソーセージ1本もしくは米とマヨネーズなんて食事を続けていた事もありました。

 今でもあの頃は本当にお腹が空いていたのを覚えています。ある日、友人から電話がかかり「駅前のカップラーメンの自動販売機を蹴っ飛ばしたら中からカップラーメンが出てきて止まらなくなったから皆来い」なんて言われて皆で取りに行ったりしました。もう時効だと思いますがレッキとした犯罪ですよね。ゴメンナサイ・・・

 そんな学生時代を送っていたので私は学生という立場が嫌で嫌でたまりませんでした。元々、子供の頃から店を開けてお客様の車にガソリンを入れたりパンク修理をして小遣いを貰っていたので早く大人になってお金を稼ぎたいと願い、学生を早く終わらせて社会人になって自分で稼いで暮らしたかったのです。だから中途半端な学生時代が一番貧乏でした。

 それでも色んなアルバイトをしたので、それはそれで楽しかったですけどね。あれからウン十年、あれほど憧れていた東京の一流企業でのサラリーマン生活を自分で放り出して八ヶ岳での暮らしを始めてしまい、あのまま我慢してサラリーマンを続けていたらそれなりにある程度の暮らしは維持出来たと思いますが、どうしても我慢出来ずに飛び出してしまい、やっぱり自分の人生はお金持ちには縁のないものになりました。

 来年も経済不況はきっと続くでしょう。私の乏しい知識ではとてもそれに打ち勝つ戦略など思いつく訳もなく今までと同じように地道にやっていくしか無いので後は優秀なスタッフに智恵を出して貰い自分は中央高速道路のサービスエリアで年末宝くじを買って「当たりますように」と願いを込めるのでありました。

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八ヶ岳でのログハウス生活 ---木の家設計施工 森のすまい工房(有限会社アシスト

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