2009/03/29

昔馴染みの散髪屋

 もう20年も通っている散髪屋さんがあります。山梨に移住して来た時に病院と共に困ったのが何処の散髪屋が良いかと言う事でした。私の頭は子供の時からのクセッ毛であっちこっち飛び跳ねて始末に困る頭でした。それでいつも馴染みの散髪屋さんに行っていたのですが山梨では全く知らないので評判を聞いてあちこち行ったのですが中々自分に合うところが有りませんでした。

 

 仕方なくその頃は子供も小さかったので暫くは子供の頭を切るのと一緒に女房に切って貰っていました。そんなある日、女房が会社で「隣駅の駅前にあるTさんが良いらしいよ」と聞き込んで来て早速行ってみました。

 

 初めて行って店のドアを開けると店の親父さんと思しき人と若い店員さんらしい人がこっちを見て驚いた表情で固まっていました。後で分った事ですがこの店は完全予約制で飛び込みでは出来ないやり方をしていました。それでも女房の会社から聞いてきた事等を離すと気持ちよく「いいですよ、じゃあ少し待ってて下さい」と気軽に受け入れてくれました。

 

 待合のソファーに座ってその店の仕事ぶりを見ていると、どうやらその店は両親と息子の3人で切り盛りしている散髪屋さんだと言う事が分ってきました。元気のよい肝っ玉母さんと寡黙な職人肌の親父さん、そして若い人担当の息子さん。そんな3人の連携が取れていてすごくチームプレーが素晴らしい家族経営の店でした。

 

 親父さんは昔からの馴染み客を相手に特にべらべら喋るでもなく物静かに仕事をこなし、そんな親父さんを肝っ玉母さんが口八丁手八丁でフォローして息子さんはそんな両親に反発しながらも新しいカットやパーマ、毛染め等の技術を身に付けて高校生や若い地元の青年達に慕われているといった感じでした。

 

 私はその店がすっかり気に入ってしまい、それから月に1回程のペースで通うようになりました。女房に言わすと「あのさ~その頭のどこを切る訳?(笑)」といつも文句を言われるのですが、確かに本当は丸刈りにしたいのですが一応、会社を経営しているのと黙っていると人相が悪い(笑)ので大事なお客様が来なくなってしまうといけないので我慢して、それでもいつも短く切って貰っています。

 

 私の担当はどうやら息子さんに決まったようでカットは息子さんがするのですが3人でお客さんをクルクルと交代しながら担当するので忙しいと顔を剃るのは親父さんだったりお母さんだったりしました。寡黙な親父さんはあんまり話しかけてもいけないので私も黙っていましたが腕はピカイチでした。お母さんは元気一杯でいつもニコニコ色んな近所の噂話を面白可笑しく話して聞かせてくれました。

 

 そんな家族経営の散髪屋さんにある日とんでもない事が起こりました。交通事故に巻き込まれて親父さんとお母さんが大怪我をしたのです。一命は取り留めたのですがその事故が元で結局、親父さんはその後間もなく亡くなり。お母さんも不自由な体になってしまいお店に出られなくなりました。

 

 息子さんは落胆し、どうやってこの店を切り盛りしていこうかと思い詰め、一時期元気を無くしていましたが、何とかその状態を乗り越えて今でも元気で1人で店を立派に切り盛りしています。お母さんは杖をついて店のタオルを畳んだりするまで回復し時々店のソファーに座っています。

 

 息子さんは地元の消防団の役員も兼ねていて時々火事で出動がかかると散髪の途中でも出動して行きます。一度「そんな時、お客さん怒らないの?」て聞いたら「この辺じゃそれが当たり前だからお客さんも理解してくれます」と言ってました。そんな大変な役員も漸く今年で任期を終えます。

 

 店には今でも散髪台の椅子が3つ並んでいます。でも、そんな3台の椅子で使われているのは一番、入り口に近い1台だけです。それでも私は時々、開いている残りの2台の椅子を見ると親父さんに顔を剃って貰った感触を思い出したりします。

 

 隣駅前の小さな散髪屋さん、今では無理せず1人で出来るだけのお客様をこなしている小さな店ですが私にとっては大事な馴染みの店です。

2009/03/22

便利さと不便さと金持ちと貧乏

 仕事で使っているノートパソコンの調子が悪いので息子が帰ってきたついでに調べて貰った。スタッフからは「社長、このパソコンはインターネット接続しないで下さいね」と言われており「何で?」と聞くと「ウイルスソフト入れるとこいつ動かなくなりますから」と言われた。どうやらメモリーが不足しており動作が不安定になるみたい。

 

 まあ、普段インターネットに繋ぐ事も余りないので特に不便なく使っていた。だけど最近、このパソコンに変な表示が出るようになったり時々全く映らなくなったりするように・・・パソコン曰く「モ~、いい加減にソフトの更新しないと私知りませんからね。壊れますよ。いいんですね」と言う様な事を訴えている。でも、スタッフからは「繋ぐな」と言われているしな~と思い、今回、息子が帰ってくるのに合わせて診て貰ったという訳です。

 

 息子曰く「父さん、こんなパソコン使ってるの?」「なんで、イケナイ?」「あのね~このパソコン何年使ってるの?」「う~ん、6年くらいかな?」「これ、よく動いてるよね」「エッ今まで特に問題なかったよ」「あのね~説明しても分からないだろうけど、このパソコンのメモリーはねここにあるタダで貰ってきたパソコンより低いの」「?」「だからね、タダのパソコンより仕様が劣っているわけよ。動いているのが不思議なくらいなのよ」「ふ~ん、だから調子悪いのか?」「そういう訳じゃないけど無理があるって事」「そこをナントカして」「モ~」てな話し合いが行われとにかくメモリーを増やさないとどうにもならないとの事でそれだけ買って貰う事にした。

 

 ところが「父さんこのパソコンのメモリーの値段ってさ、この100倍位容量のある最新型より高いって知ってる?」「知らない・・・何で?」「何でって・・・そうなの!」いやはや最近はどうも価値観が狂っていて訳が分かりません。最近はやりのミニ・モバイルのノートパソコンは一時期の携帯電話並みに100円とかで売ってる。当然、裏があって通信契約とのセットが条件だったりして全く携帯と同じ構図だ。良く考えてみたら本体だけ買った方が特だったりするのだがこれが複雑で良くわからんのですね。

 

 とにかく世の中はより便利に暮らそうと思うとお金が掛かるようになっていると言うことですね。つまりお金持ちはより便利な暮らしが出来るし貧乏人は不便さを我慢しなくてはならないという事か・・・それなら多少、不便でも我慢しようと思うのは貧乏人ということかな?

 

 私のこのパソコンだって一昔前なら大変な高機能だったはずで、それが技術の進歩でより便利で機能性が高いものが出来たせいでボロクソ言われるワケでいわば文明の犠牲者ですね。確かに不便さと貧乏はつきものかも知れませんが佐賀のガバイバアチャンのようにその中で逞しく生き抜いていく事が実は地球に優しかったり本当は人間らしかったりすることってあるんじゃないでしょうかね。

 

 私なんか実にいい加減な人間なので「便利だよ~」なんて言われるとすぐにそっちに傾いてしまうけどちょっと立ち止まって「もうすこし勿体無いから使おうかな」とか「不便だけど別に我慢出来ない程じゃないか・・」とか考えてみるのも今、必要かも知れません。

 

 又、逆にさっきの100円ミニ・ノートパソコンではないけど安さだけに目がいってしまうと事の本質が見えなくなることもあります。建築だってそうですけど安さだけを判断基準にしてしまうと結局、長い目でみると安くてすぐ駄目になったり体に悪かったりして結局、何の為に節約したのか分からなくなります。

 

 海外からの輸入食品何かも安いからだけで導入していると結局、健康被害を起こしたりして何のことはない少し高くても国内の造った人の顔が見える食品が結局一番、安全だったりする。「便利さと不便さと金持ちと貧乏」よ~く考えてみないとどれが一番幸せか分かりませんね。

2009/03/14

お葬式

 ここの所、何故かやたら葬式づいている。冬、寒い所に住んでいるので結構、地元ではこの時期になると葬式が多くなる。しかし、今回はそれとは関係なくスタッフの親御さんが亡くなられたり八ケ岳でお世話になった元外務大臣の柿沢弘治さん、そして自分の親戚と何だか気分としては毎週、葬式に参加している感じである。余りに葬式ばかり出てるので喪服をクリーニングするチャンスが無く先日、思い切って今だ!と隙を狙ってクリーニングに出した程だ。その時はどうぞクリーニング中に葬式が出ませんようにと思わず願ってしまいました。

 

 そんな時フト、自分にとって初めて葬式というものを意識したのは何時だったかな?と思い返してみると自分の父方の祖父の時でした。まだ小学生の頃だったと思うけど初めて自分の周りで普通に接していた人間が死んだ。そして初めて死体というものを見た。爺ちゃんの棺桶を覗き込んだ時の衝撃は今でも覚えている。その時初めて人の死というものを意識した。

 

 あれから一体いくつの死体を見てきたのだろう?自分が青春時代を送っていた時期は全く人の死というものを意識した事は無かった。そんなものは自分と関係ないと思っていた。しかし、段々年月を経て数年前に健康診断で始めて要精密検査を言い渡され「もしかしたら癌の恐れもありますよ」と脅かされ(結局、検査の結果無罪とはなったのですが)自分の死というものを意識させられ、冗談じゃない今度は自分の番かよと初めて覚悟を決めた時もありました。

 

 先日、アカデミー賞で外国映画賞のオスカーを獲得した「おくりびと」も公開されてすぐ見ました。ちょうど知り合いのプロデユ―サーが手掛けた映画だったこともあり女房と二人で見て、これはきっとヒットするなと直感しましたがまさかオスカーまで取るとは思いませんでした。それだけ外国の人達には「死」というものに対する日本人独特の美的感覚が新鮮に思えたのだろうなと感じました。

 

 話がそれましたがそれ程、死というものに対する捉え方は民族で違っているという事だと思います。外国では河原で普通に荼毘にふされたり鳥葬といって高い山の上に葬られて鳥の血肉になる事を求められたりと様々な形式があると聞いています。そんな中で日本はまるで生きていた時の様に着飾りお化粧を施し身を清めて葬られます。

 

 映画の中では「納棺師」と呼ばれる特殊技能を持った人がその儀式を執り行いますが一般的な場合ではほとんどの人が残念ながら病院で亡くなるのでその場合はその患者さんを担当した看護士さんが身を清めて下さるのが一般的なようです。勿論、家族の方達がおられたらお手伝いをするのですが身内を亡くしたばかりの遺族にとっては感情的に辛いものがあり看護士さんが主体的にして下さるケースが一般的だと思います。

 

 私も自分の父を亡くした時に父が最後を迎えた場所を母と二人で掃除に行き、片付けたのですがまだ、父の温もりが残っているようでここで父がその生涯を終えたと思うととても辛かったのを覚えています。こんな平和な時代でさえこんなに辛いのだから戦時中なぞはどんな思いだったのでしょうね。

 

 先日、TVで東京大空襲の時に埋葬する場所がなくて仕方なく集団埋葬された当時の場所を尋ねてい歩いているカメラマンを取材した番組を見ましたがきっと死体を捜す遺族の悲しさは大変なものだったと思います。

 

 自分の死後の世界はどうなるのか分かりませんが一度覗いてみたいなとは思いますがそうすると一度死んで戻ってこなくてはならないので、それはもし手違いで戻って来れなかったら困るのでちょっとそれは困るな~と思って諦めています。一発勝負しかないかと・・・皆同じか。

 

 自分の葬式を前もって執り行う「生前葬」というやり方もアリだけどそれはやはりリアリテイーが無いものな~。こいつ悲しそうな顔してるけど実際の時はこね~じゃないんか?何て思ってみたり反対に平気そうな顔してるけど本当になると実は一番悲しんでくれたりして・・・何て想像するのも楽しいかも知れないけどそれはきっと良くない事なんだろうな。

 

 マア、「佐賀のがばいばあちゃん」じゃないけど人生、生きてるだけで丸儲けと思って頑張るか!

2009/03/08

音楽と共に

 当社の事務所にはいつもBGMが流れています。普段はFM放送が流れていますが最近、省エネで昼休みとか電源を切ってしまうので事務所内が無音になり何となく落ち着かなく成る事に気が付きました。

 

 自分と音楽との歩みを思い返してみると子供の頃は以前、お話したとおりガキ大将だったので外で悪さばかりしていたのですが親が何とかしようと思ったのでしょうね。或る日ピアノの家庭教師を連れてきました。その頃も別に音楽が嫌いな訳ではありませんでした。いや、むしろ好きだったかも知れません。

 

 しかし、どうも昔の(今は知らないのですが)ピアノ練習曲というと赤バイエル、黄バイエル、ソナタ?だったっけな?を練習させられ、それなりに弾けるようになりました。しかし、子供心にその練習曲が悲しい音色に聞こえてすっかり嫌いになってしまい、段々何とか逃げようと考え、家庭教師がくる時間に合わせて押入れに隠れてしまい絶対外に出ないようにして、とうとう親はそれで家庭教師の先生に悪いと思ったのか諦めてしまいました。今考えればあのまま続けていればピアノが弾けて少しは自分の趣味も広がったかな?と悔やんでいます。

 

 その後はビートルズが来日して一気にグループサウンズ(古い・・)の時代が訪れ音楽を巡る環境もすっかり変わってしまいました。自分も次第にオールナイトニッポンを始めとするラジオの深夜番組に嵌ってみたり初めて自分でレコードを買ったのもその頃でした。タイトルは忘れたけど確かフォークソングだったような気がします。丁度、その頃兄貴がギターを買って弾いていたのでレコードを渡して弾いてくれと頼んだのを覚えてます。

 

 そういえばラジオの深夜番組で地元放送局が放送する時間帯があってその時に同級生の女の子が同じクラスの男の子に告白する手紙が読まれ丁度、自分もその放送を聞いていて驚いたな~結局、その二人は卒業後に結婚して夫婦になったんですけどね。

 

 その時代は日本のフォークソングの幕開けで日本中でコンサートが開かれていました。私も地元で開催された吉田拓郎のコンサートや中野サンプラザでのユーミンのファーストコンサート何かを聞きに行きました。

 

 学生時代、春休みはいつも田舎のカバン屋でバイトをしていたのですがその時代は有線放送がブームで、昼休みにはいつも近くの喫茶店で昼飯を食べながら電話でリクエストをしてバイト仲間で誰のリクエストが一番先に掛かるかなんて事を競っていました。

 

 それからは日本の音楽界は飛躍的にジャンルが増えてポップスやR&B、ハードロック、テクノ等々何やらやたらジャンルの名前が増えて一体この音楽はどれに属すのか?訳がわからなくなってきました。

 

 最近は八ケ岳に引っ越してきてからあまりジャンルに囚われることなく音楽を楽しむようになりました。その最たるものは薪能かも知れません。毎年近くの神社で開催される薪能に通うようになり最初はすごく抵抗感があったのですが今では年一回の日本人の音楽のルーツに触れるような思いで聴いています。

 

 一番最近はYOKOという女性ジャズボーカリストのコンサートに女房と二人で行って来ました。普段、あまりジャズに接する機会は無いのですが大学生の頃は格好付けて「オスカーピーターソンがいいね~」なんて言って御茶ノ水にあるビルの地下のジャズ喫茶に入り浸り分かったような振りをしていました。そういえばその頃、大学の同級生が良くその喫茶店に入り浸って何故か英語の辞書を食ってたな~何であいつはいつも辞書を食ってたんだろ?何せ変な時代でした。

 

 それとたまたまご縁があって小野リサさんのコンサートに良く行くようになりました。彼女の優しいボサノバの歌声は本当に癒されます。以前、余りの心地よさにコンサート中にウトウトした事がありました。

 

 こうしてみると自分の歩んで来た時とともに常に音楽があった事に改めて気付かされます。近年はいつでもどこでも音楽が楽しめるようになり本当に良い時代になりました。必死でカセットやオープンリールに録音していた時代が嘘のようですね。

2009/03/02

村長ありき

 先日、知人に薦められて「村長ありき-沢内村 深沢晟雄の生涯-」という本を読みました。岩手県沢内村という雪深い財政難に苦しむ寒村でありながら戦後初の乳幼児・高齢者の医療費の無料化、そして乳幼児の死亡率0を達成した深沢村長の生涯を描いたノンフィクションです。

 ちょうど高知に帰る飛行機の中で読んでいたので、その内容の素晴らしさに涙が止まらず、隣の席の人に気付かれないようにするのに苦労しました。最近は本当に涙もろくてどうしようもありません。これはやはり以前受けた目の手術の所為かな?と・・エッ関係ない?齢の所為?マアそれはどうでも良いのですが、兎に角素晴らしい内容の本でした。

 実はこの原作をモデルにした「いのちの作法」という記録映画が作られていて全国で自主上映会が開催されています。知人がここ北杜市でも是非開催したい、多くの人に観て貰いたい、しかも無料ではなく、あくまで有料で観て貰いたいと言う事で名乗りを上げ、私も大した事は出来ないのですがお手伝いする事にしました。

 開催は75日ですのでまだ時間があるので先に原作本を読むことにした訳です。この「村長ありき」の原作本に描かれている時代背景には戦後の混乱する地方行政の中にあって本当の政治とは医療とはどうあるべきかと言う事が描かれています。端的にいうと政治の根幹とは住民の生命行政つまり住民の命を守るのが最大・唯一の理念でなければならないと言う事です。

 戦後の混乱する地方行政の中で岩手県の寒村では当たり前のように乳幼児が死亡し老人が充分な治療を受けられず亡くなっていく現実に直面し、何とかしなくてはならないと誰しも思いながらではどうすれば良いかという事になると明確な解決策は誰も答えられない・・・何だかこれは戦後の混乱期の話ではなくて現代でも全く同様な事が起こっているような気がしません?

 確かに当時と比べ飛躍的に医療技術が進歩し潤沢とは言えないまでも日本は飛躍的な経済発展をとげて地方行政にもそれなりの予算が付くようになったハズです。ハズなんですが・・ここ数年の年金保険の不祥事や産婦人科の減少による充分な出産対応が出来ない病院の現状をみると何だかこの沢内村がたどってきた道のりは現代にも繋がっているような気がします。

 まるでマネーゲームの様な年金の「運用」という名の投資はまさに我々の命をマネーゲームに委ねているようなものです。本来減るわけが無い我々の納めてきた年金は昨年一年間だけで何兆円も減少しています。もちろん経済が順調だった頃は飛躍的に増加した年もあります。しかし、投資という行為は正にこの生命行政に関しては私はあってはならない事だと思います。それは投資しているのはお金ではなく我々の命だからです。

 ここ北杜市でも病院の統廃合問題が起きているように聞いています。しかしそれは地方行政において最優先課題であるべきだと私は思います。「住民の生命を守る」これこそが政治の最重要で唯一の課題であるとこの本は教えています。

 政治の世界では我々では分からない難しい問題もあるだろうとは思います。しかし、経済が破綻し地方行政の予算が削られ住民が苦しむ事があるなら何の為の政治かと思います。様々な軋轢を取り払い無駄を省き真に必要な生命に関わる問題に絞って国は政治を行うべきではないでしょうか?

 沢内村の深沢村長は自分の行った生命行政に関して「本来は国が行うべき行政であるが国がやらないのなら自分達がやるしかない」と様々な圧力に合いながら自分の信じる行政方針を貫きました。深沢村長は残念ながら道半ばにして病に倒れこの世を去りましたが村長の政治方針に共感する村民達がその遺志を引き継ぐ事になりました。

 出来れば日本中の人達がこの生命行政に同調し本当の政治とはどうあるべきかを考えるきっかけになれば素晴らしい未来が開けるように思います。

2009/02/23

車って・・・

 東京に住んでいるときは車なんて必要ないと思っていました。実際、都会では電車網が発達しているし当時、下手すると住んでいるアパート代よりも駐車場代の方が高かった。一度、駐車場を探した時は近くに無くて電車に乗って隣駅まで行かないと無いと言われ車に乗るのに電車に乗って車を取りにいくのも馬鹿らしいな~と思って止めにしました。

 田舎の実家がガソリンスタンドを経営していた事もあって車は小学校の時から乗っていた(勿論、スタンドの中でですよ)お客様が「洗車しといて」何て言って置いておくので私が移動して洗っていました。だから運転暦はやたら長い。しかし、自分の車を持ったのはサラリーマン時代、上司がもう車に乗らないから安く譲ってやるといわれた「ファミリア」が最初の車でした。

 当時、長男が生まれてさすがに「あれば便利かな?」と思い始めていた頃だったので喜んで話に飛びついた。今でも初めてその上司の住むデイズニーランド付近のマンションの駐車場に車を取りにいき首都高速をビクビクしながら運転して帰ってきたのを覚えています。その車は結局、海の近くに長く使わずに置いていたのでエンジン付近が錆びていてすぐに駄目になってしまって乗れなくなってしまいましたがそれから今まで多くの車に乗ってきました。

 先日、思い出しながら遍歴を数えてみると、アコード、ストリート、デリカ、ランクル、パジェロ、オデッセイ、オデッセイⅡ、エスクード、CR-Vと乗り継いで来た。それぞれその時の生活環境にすごく直結していて思い出深い車達です。

 子供達を一杯のせてキャンプ場に入り浸っていた時のアコード、ストリート、お金がなくて車を売って生活費に換えてとにかく動けばよいからと言って買ったボロボロのランクル、今考えればよくあれで高知まで帰ったものです。

 私にとって車は自分の生活と共に時を過してきた身近な自分を支えてくれる仲間だったのかも知れません。私は車に高級感とかブランドとかを求める気持ちは全くありません。今の山の暮らしの中で必要な機能を持っていてくれれば充分だと思っています。あのまま都会に住んでいたら多分、車は持たなかっただろうと思います。渋滞の中で運転するのには辟易していましたので・・

 さて、現在は車社会にとって大きな変革が起こっています。世界的な経済危機の中、大排気量で圧倒的なパワーを売り物にしてきたアメ車が経営の危機に直面し消費者も車に対する考え方が変わってきています。それでも高級SUV車が好調な売れ行きを示しているという日本の現状には私は正直いって良く理解出来ませんが・・

 CO2削減が世界的に求められエコロジーな暮らしを人々が志向するようになって車も変わっていかなくてはならないのではと私は思います。車は良くも悪くも便利な乗り物です。特に山の中に暮す我々にとっては生活に密着したツールと言えます。里山のベンツは軽トラ!これに勝る車は無いと思っているのですが2台持つわけにもいかず今の生活環境を考えると今乗っている車がベストだと思っています。

 つまり、早い話が小さいときから車が好きなのですね。その時、その時に色んな考えで選び一緒に行動してきた車なのでそれぞれに思い入れが強いのです。この先、車社会がどう変化していくのかどう変わらなければならないのか実はワクワクしながら見ています。自分も含めマイカー族にとって車は便利な道具ではありますが今後、車の未来がどうあるべきかその変遷をしっかりと見据えていかなくてはならないかなと思います。

2009/02/15

いのちの食べ方

 先日、知り合いから召集が掛かり地元の若者達が「いのちの食べ方」という自主映画を上映するからこういう頑張っている若者達を我々おじさん達が応援せずにどうする!ということで「オオッそういう事ならイカネバナラヌ」と観てきました。

 

 行ってみると地元の公民館のような所が会場で座敷に映写装置を置いてスクリーンは壁に白い布を掛けただけという正に手作りの自主映画会でありました。入場料はカンパという事でここがオジサン達の出番でもある訳ですが、内容は1時間半という上映時間で音楽なしコメントなしテロップなし、淡々と映像のみ流すドキュメント作品で想像していたとおり我々が普段、何気なく口にしている加工食品がどのような工程で製造されているかその原点に迫るものでかなり衝撃的なシーンも出てきてちょっと目を逸らしたくなるような所もありました。

 

 例えば加工牛肉、当然元は生きている牛な訳でその過程で必ずその命を頂いているのだが我々がその現場を見ることは普段、中々ありません。しかし、誰かがその役割を必ず果たさなければならず、その行為を惨いといえる人は牛肉を食べない人という事になるのでしょうかね。

 

 以前、同じような試みを川崎に住んでいる時に自分でもした事があります。近所の子供達を近くの公園で自主保育という形式で面倒を見ていた時期があり、その中で何とか子供たちに自分達が生きていく為に他の生き物の命を頂いているんだという事を理解させようとしました。

 

 それは子供達だけでなく当然、親達にも言えることだったのですけどね。それでどうしたかと言うと生きた鶏を貰ってきてその鶏を処分して皆で食べようじゃないかと言う事で、誰が処分する?となり、成り行き上私が処分する事になりました。

 

 昔、私が子供の頃はまだ近くの商店街に肉屋さんがあり、そこの親父が毎朝、なぜか店先に椅子をだして鶏の首を包丁で切っていたのを見ていました。しかし、自分で処分したことなんか当然無くて「俺がやるよ」と言ったものの内心「どうしよう・・・」と思っていました。

 

 しかし、時間は容赦なく過ぎてとうとうその時が来てしまい、くだんの肉屋さんの様に手際良く出来る自信は全くなく、その手の本を片っ端から読んで見よう見まねでやる事にしました。

 

 当日、近くの公園の木立の中にダンボール箱に入った鶏を持って行って子供たちは恐る恐る遠巻きに見ています。段ボール箱から先ず羽根をつかんで鶏を取り出し出来るだけ早く苦しまないように首の骨を折り(これが物凄くキツカッタ・・)暴れないように大人しくなるまで抑えておいてすっかり体温が下がり冷たくなってから枝に鶏を吊るして首を切り血を抜きました。

 

 その頃には廻りの子供達や大人達の私を見る目はまるで犯罪者・・・実際、後で随分批判もされましたけどね。それでも子供達は好奇心の方が勝り時間が経つに従って段々、遠巻きに観ていた輪が短まり最後はぶら下がって首のない鶏に触ってみる子供達も出るようになりました。

 

 そして血抜きが終わった鶏を家に持ってかえって鍋に入れて毛をむしり取り解体して手羽焼きにしたり煮たりして食べることになりました。その時になってみると以外と子供達は平気で食べるんですよね。食べられないのは自分、どうしても手に鶏の温かみと首の骨を折った時の感触が残っていて最初の一口がなかなか食べられない。

 

 こんなものなんですね。偉そうな事言ってもやってみると中々出来ないものなんです。現代に住む我々は食生活に関しては加工食品に依存している部分が多くて昔、子供達は魚が切り身で泳いでると思っている。なんて笑い話の様な話がありましたが魚にしても動物の肉にしても野菜や果物にしても必ず命を頂いてエネルギーに変えているワケでその原点を「惨いから見せない」という事でなく知らせる事も大切な情操教育になると思います。

 

 現代はそういう原点を感じる機会が少ないのでゲーム感覚で大切な命を簡単に奪ったり奪った命をリセット出来ると錯覚してしまうのだと思います。

 

 さて、話は元に戻って「いのちの食べ方」はそういう意味で加工食品が現在、どのように生産されどのような過程を経て我々の口に入っているか事実をコメントを加える事無く淡々と描写した優れたドキュメント作品です。

2009/02/08

今まで書けなかったこと・・

 八ヶ岳に住んでから20年、この世に生を受けてから50数年、手掛けさせて頂いた家が150数棟、そうこうしているうちに段々、八ヶ岳の仲間、身内、お客様の中で段々、人生を終えていかれる方が増えてきた。その度に悲しみ、元来が涙もろい(笑)ので最近はこらえるのが大変になってきて困っている。人は齢を重ねるごとに涙もろくなると言われるけど「全くだ」と自覚している。

 最近は結婚式に呼ばれることはまず無くなり呼ばれるとなると葬式ばかりになってきた(笑)。しかし、こりゃしょうがない。うっかりするとそのうち自分の番がくるのだから・・・だから悲しんでばかりはいられない。

 最近読んだ北杜市に住む作家、樋口明雄氏の著書「約束に地」はここ北杜市を舞台にした小説でテーマのひとつに「死とは乗り越えるものではなく共に生きるもの」とある。自分の父は十数年前に亡くなったがその時はあまり悲しくはなかった。父は父なりに自分の人生を全うしたと思っていたからである。全く高知の「イゴッソウ(頑固者)」らしく好きな事をしたと思っている。実の母は少し認知症だけど体は健康で元気である。義理の母は亡くなって3年、最後は病床で少し苦しんだので見るのが辛かった。

 そして、それらの死をやはり時間と共に乗り越えていかなくてはと思っていた。しかし、そりゃ時間と共に悲しみは少しずつ癒されていくけど乗り越えると云う事は忘れると云う事に繋がるようで少し嫌だった。まあ、そのうちボケて忘れるのだろうけど(笑)しかし樋口さんの言われるように「共に生きるもの」と考えた方がとても楽である。

 人間も生きものである以上、いつかは死を迎える。生きることは死ぬこと、生を受けるということはいつか死を迎えると云う事。死は新しい生の始まり。私は別に生き返ると云う事ではなくある人の死は、その死に関わる人達の新しい人生の始まりだと思います。支えを失い新たな生活を始めなくてはならなかったり教えを受けられなくなって自分で考えなくてはならなくなったり、新たな変化が始まるのだと思っています。だからこれからそう思うようにしようと思っています。そうしないと数が増えすぎて困るから(笑)

 私自身は東京でのサラリーマン生活を捨てて自分の意志に従ってここ八ヶ岳に引っ越してきて自分の生きる証として多くの家を手掛けさせて頂き全く好きな人生を歩ませて頂いて、最近の流行ではないけど「生きてるだけで丸儲け」と思っている。多分、付き合わされた家族は良い迷惑であったろうと思うけど家族だからショウガナイノデアル。

 大切なのはその日を精一杯生きること。そう思っている。しかし、最近一日がやたら早く過ぎていくのは何故なんだろう?やらなくてはならない事は山ほどあり、その日一日で出来る事は本当に限られている。毎朝、その日一日でやらなくてはならない事をメモに書いてこなすようにしているのだけど本当にそれだけで精一杯である。これは生きている者の宿命なのでしょうね。だから私の廻りの人生を終えた皆さん、私は皆さんと共に生きていきますからね。時々、忙しくて忘れる事があっても勘弁ね。

2009/01/31

旅への思い・・・

 ここのところ旅というものをしていない。移動はしている。仕事絡みや私用で田舎との往復も含めると結構、移動はしている。しかし、純粋に家族旅行みたいなものをもう暫らくした覚えがない。

 子供達が小さい時は夏休みを利用してキャンプをしたり旅館に泊まったりとあちこち旅行はした。しかし、子供達も大きくなって皆、そろってどっか旅行に行こうなんて事は少なくなってしまった。女房とあそこに行こうか?何て話はするものの実現したためしがない。

 大体、休みがお互いにずれているのですれ違いばかりで一緒に過す時間が長くない。海外旅行なんて新婚旅行に二人でサイパンとロタ島に行っただけでそれ以降はいつも仕事がらみの海外行で二人で行ったのは新婚旅行が最初で最後であった。

 そう、あの時はまだパスポートが数次旅券と一回限りのものと二通りあって女房があの時「どっち取れば良いの?」なんて言うから、格好つけて「結婚したら何回も二人で海外行くんだから、数次旅券にしとけ」なんて言ったのが運のつき、あれ依頼ず~~と「私は騙された」と言われ続けている。

 そんな事言われても「俺は一生懸命働いてるんだけどな・・・」と小さく聞こえないように反論するのが精一杯。エ~エ~確かに言いました!言いましたけど仕方ないじゃありませんか。行けなくなっちゃんだから・・

 今に見ていろ「世界一周旅行へ連れて行ってやる」なんて定年近くのサラリーマン達は夢見るようですがこれが以外と日本人には馴染めないみたいですよ。

 以前、知り合いの豪華客船のスタッフの方に聞いたのですが欧米の旅行に慣れた熟年夫婦の場合は結構、長い船旅でもダンスをしたり泳いだり映画を観たりと社交的に過せるそうですが日本人の高度成長期を頑張ったサラリーマンの方が定年を迎えた場合は仕事しかしてこなかったので長い船旅を夫婦二人で向かい合っていると息が詰まってしまい、かといってダンスや船長主催のデイナーパーテイーには馴染めないしで結構途中の寄港地で船を下りてご帰還なんて事も珍しくないみたいですよ。

 だから豪華客船ではそんな日本人の為にあの手この手で飽きさせないイベントを企画するのが大変みたいです。そりゃそうでしょうね。デイナーパーテイーなんて急に言われたって、こちとりゃ立ち食いそばで頑張って来たんだからそりゃ無理ってもんでしょう。急に紳士淑女にはなれないってもんです。

 それじゃ温泉旅館にでも行くかと思うけど、これがまた無類の早風呂でカラスの行水ときてる。だから仕事で旅館に泊まって同行の方達と一緒に風呂でもなんてなるとこれが辛いの何のって我慢して裸の付き合いしてるけど汗ダクダクでもう限界ギリギリの忍耐以外のなにものでもないときているからどうしようも無い。

 それじゃ泊まらなくてもよいからゆっくりフルコースのデイナーでもどうかと思いきや、これが子供の時からの無類の早食いときている。何せ普段でも現場周りが忙しけりゃ運転しながらサンドイッチとコーヒーで昼食なんてのも珍しくない。ゆっくり食べるなんて習慣は全くない。

 さすがに大人になってからお客様と一緒に食事とか接待宴会なんてものを経験するようになって廻りから散々注意されて、お客様より先に食べ終わるのはマズイと考え直し、ペースを調整するようになった。

 しかし、習慣というものは恐ろしいもので今までろくに噛みもせずに飲み込んでいたものをユックリ噛んでペースを調整すると全く食べた気がしない。いやはや、これじゃ確かに健康にも良くないし一緒に食事してくれる奇特な人なんていないですよね。

 しかし、旅行が嫌いな訳ではない、むしろ大好きである。今まで海外はアメリカ・カナダ・メキシコ・インドネシア・台湾・シンガポール・イタリア、日本は北から北海道、新潟、岩手、石川、宮城、群馬、茨城、埼玉、千葉、東京、神奈川、山梨、長野、岐阜、静岡、愛知、三重、滋賀、京都、大阪、兵庫、広島、奈良、徳島、香川、愛媛、高知、福岡、宮崎、鹿児島、沖縄には行った。

 オオッ!結構行ってるではないか・・・そうだ昔、世界一周はとても無理だけどいつか日本一周は行ってみたいなと思ったんだ。通り過ぎるのではなく一つの県にゆっくり滞在して日本再発見をしたいと思ったんだった。そうだ、そうしよう。

2009/01/25

おいしい水

 最近、女房に朝起きてくると一番に水を飲まされています。何だか体に良いそうでコップ一杯の水を寝起きに飲むというのは慣れないうちはちょっと辛かったけど最近はもう習慣になったのでそれほど辛くなく飲むことが出来るようになりました。

 

 我が家の水は共同井戸水で地下100mのところから汲み上げているそうで今まで枯れたことはありません。もう十数年前になりますがこの井戸を管理していた会社が倒産して別会社に管理が移された事がありました。その途端にすっかり味が変わってしまい、或る日、風呂に水を溜めて入ろうとしたら目がくらくらして刺激臭がしてとても入れない状態で翌日、管理会社に連絡したら「安心して下さい。前の会社がいい加減で消毒もしてなかったので今度は塩素の自動投入機を井戸のポンプに取り付けましたので安心して飲んで下さい」との返事「・・・う~ん、余計な事を」と思いましたがそれにしてもひどいので再度調べて貰ったらその共同井戸で供給される別荘地の一画で配管がパンクして水が出っぱなしになっていてその為に自動投入される塩素がどんどん供給されたのが原因と分かり、その件は一件落着となりました。

 しかし、人間の感覚というのは大したもので今まで無かったものが入ってくると直ぐに何だか分からないけど拒否反応をしめすものですね。

 元々ここ八ヶ岳の湧水は八ヶ岳に降った雨が100年程かかって出て来ると言われており日本百名水の一つにも数えられている地域なのです。八ヶ岳の地層にいくつかの粘土層が含まれておりここが不透水層となり八ヶ岳に降った雨がその不透水層に当たって表面に出てきていると何かの本に書いてあったのを読んだ覚えがあります。

 その不透水層がちょうど標高1000m付近にあるそうでその為に私が住んでいるここ八ヶ岳南麓の長坂町や大泉町、高根町付近の丁度標高1000m付近には豊富な湧水群が存在しているという訳です。

 しかし、いくら名水だからといってもさすがにそのまま飲み続けるのは少し抵抗があったので定期的に成分調査をしてもらったり必ず煮沸してから飲むようにしていたのですが、最近は煮沸した上に炭をいれて不純物を取り除いてから飲むようにしています。

 以前、加工場で丸太の皮むきをしている時に某TV局の取材を受け「この水を飲み比べて下さい」と言われ要は八ヶ岳の美味しい水と都会の水道水とどちらが美味しいかという企画だったのですが忙しかったので断ろうかと思ったら綺麗なオネエサンがインタビューアーと知りつい引き受けて、やらせでいかにも仕事中に突然インタビューを受けて肉体労働者の素朴な感想みたいなシチュエーションで答えた事がありました。

 当然、地元の水が美味しかったのですがその水が本当にどこの水だか分からないので真相のほどは私には分かりませんが、確かに我が家の井戸の水は都会の飲料水と比べると口当たりが柔らかいような気がします。

 しかし、最近は都会の水も殺菌方法等の技術的な進歩が進み美味しくなったそうですね。昔みたいに都会の水、即まずいという印象はないみたいです。

 我が家の井戸水もお陰様で今のところ蛇口をひねれば普通に出てくるし開拓当時のように川の水を引いてきたりする苦労をせずに都会と変わらない便利さを享受しています。

 でも、時々思うんです。都会の場合は断水したから近くの川の水を飲むという感覚ではないでしょうが私の住むここ八ヶ岳南麓ではとりあえず美味しい湧水群があり、保健所では飲料水としては不適と言われますが緊急時に暫らくその水を飲んだからといって健康被害が出るような事はないと勝手に自分で思っています。だって、その位綺麗で冷たくて澄んでいるのです。これはとても有り難く幸せな事だと私は思っています。

 それに近所には知り合いお百姓さんの畑も一杯あるし魚も豊富に泳いでいるしイザとなれば鹿やイノシシもいるし何とか連中を捕まえて・・・何とか生きていけそうな気がしませんか?こんな事を考えるのは私だけでしょうか?以前、開拓民の方の話を聞いたときに一番苦労したのは水だと言っておられたのを覚えています。この辺りは昔から水利権をめぐる争いが絶えなかった所らしくそれくらい水は生きていく上で大切なものだったと言うことでしょうね。

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八ヶ岳でのログハウス生活 ---木の家設計施工 森のすまい工房(有限会社アシスト

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