2012/11/05

自宅塗装中

 そろそろ秋も深まって来て年末の声が近づいてきました。今頃になってですがずっと出来ずにいた自宅の塗装を思い切ってやってしまう事にしました。

 塗料と刷毛等の道具はもう1年も前から用意してあったのですがどうも休みになると遊びに行ってしまう事が多くて(笑)塗装の方は遅れに遅れてやっと重い腰を上げる事になりました。

 私の自宅はログハウスなので外部は当然ながら木で覆われています。木はどうしても紫外線等の影響を受けて放っておくと劣化が進んでしまいます。お客様には偉そうに「3年に一度は塗って下さいね」何て言ってるくせに自宅はもう5年程開いてしまい本当にスマンスマンといった状態です。もうこれ以上置いておくと又、来年になってしまいそうなので遊びに行きたいのをぐっとこらえて朝からずっと塗装に明け暮れておりました。

 先ずは開口部となる窓や塗料が付いたら困る所に養生をするのですが前回、塗装した時に面倒だからと養生せずにやったら案の定、あちこちを汚してしまい女房にひどく叱られてしまい(笑)「今回はちゃんとやってよね。私、監督しようか」と言うのを固辞してきちんと養生をしました。

 それから木部に付いてしまった汚れを落とし塗装していくのですが一番困るのが自分で塗装するので足場がなく、高い所は当然ながら長い梯子を登って塗るしかないのですが自慢じゃありませんが高所恐怖症なので(笑)下を見ない様にして覚悟を決めて登っていくのですがそれでも届かない所があるのです。

 じゃあどうするかと言うと手が届かないので長い柄のついた棒の先に刷毛を取りつけて塗るのです。但し、これが大変!2段梯子の一番上にのって長い柄の先につけた刷毛に塗料を染み込ませなければならないので塗料缶を梯子の下に置いてそこに上から長い柄をのばして刷毛に塗料をつけてエイヤッ!とその柄を持ち上げる時に当然ながら塗料があちこちに飛び散り、その上自分の頭の上に長い柄を伸ばして不自由な格好で塗装するので当然ながら自分の頭や顔の上に塗料が降ってくる訳で・・・

 頭の上にはその事を想定してタオルで頭をグルグルに巻いてあるのですが顔はどうしようも無くてペチャッと塗料が付く度に目に塗料が入り痛くて仕方ないので又、梯子から下りて顔を洗いに洗面所に行ってとその繰り返し・・「こんなとこ絶対他人には見せられない」と思いながらとにかく確実に安全に一歩すつと自分に言い聞かせ何とか一番やっかいで危ない所を夕方までに済ませそれでも外部4面のうちの1面の3分の2位しか塗れなくて後は又、後日なのです。

 何とか年内に綺麗にして来年を迎えたいのですが問題が一つ。南面の一番高い所にスズメバチが巣を造っておりそこには近づけないので連中が居なくなるのを待つしかないのです。あ~あ、南面だけは来年になるかもです。まっ今迄我慢して貰ったのだから我が家にももう少し我慢してもらうか!ヤレヤレ

2012/10/20

私にも出来た・・・

 このところ何とかしなきゃいかん事柄が次々と出て来ます。たまる一方の日常業務やら、○○運動やら、新月の木に関わる活動やら、母の事やら・・考えれば何とかしなきゃならん事柄が一杯あります。

 そこへきてこれが一番問題なのがそれを解決しなきゃならん私がノンビリしていてちっとも何ともならない(笑)きっと私が凄くキレ者で頭脳明晰で有言実行でテキパキと物事を解決できる人間ならこれらの問題はきっと次から次へと解決していったのかも知れないのですが残念ながら当の本人はいたってのんびり屋で中々動こうとせずにきっと廻りの人達にはひとかたならぬ迷惑をお掛けしている事と思います。

 小さい頃から人と群れるのが苦手でいつも人から離れボ~と人と違う方向を見ていたり違う事を考えたりしていて、それが高じていつも小学校の時は教室よりも廊下で立たされている時間の方が長かったような気がします。

 何か一つの事柄が起きた時にいつもその事象の裏面やら側面やら人と違う事を真っ先に考えてしまうのです。自分でもひねくれ者と思う時もあります。でも、それが自分なので仕方ないのです。

 話は違いますが先日、ダライ・ラマ第14世法王の本を手に入れて読んでいたらとても共感を覚えてしまいました。書いてある内容はとても奥深くて私なんかではとても理解出来ない事ばかりなのですが何に共感を覚えたかと言うと一つの事柄に関する造詣が深くて、仏教徒としてのその一つの事柄に対する理解度が凄いと思いました。

 ダライ・ラマ法王の言葉はなにも仏教徒のみに向けられたものではなく私みたいな純庶民(笑)にも分り易い啓示を与えてくれています。経済の事、人工中絶の事、環境の事、本来なら宗教者が避けて通りたいような問題にも深い造詣で一つの道筋を示してくれています。

 現代の様にマスメデイアが発達して一日中、世界中の情報が溢れている世の中ではどうしてもその情報によってのみ物事の善悪を判断しがちですが物事には必ず表の顔と裏の顔がありそれらを理解しないまま判断するのは間違った理解に陥る可能性があります。

 ここ数日、世の中を騒がしているウイルスにより遠隔操作されたPCを使った脅迫事件なんかも正にそうですね。最初はとんでもない凶悪犯と報道されていた人が次の日には被害者になってしまう。

 又、その前には厚生労働省の村木さんの冤罪事件もそうですね。村木さんは私の小・中学校・高校の同級生で私も個人的に彼女を良く知っておりこの事件が報道された時には彼女の身の上に何が起こったんだろうと思いました。

 普段の彼女を知っている人間には考えられない事件だったからです。でも彼女を知らない人達はメデイアが報道する内容でしかこの事件の内容を理解する事は出来なかった筈ですので違う理解をした人も多かったのではないかと思います。

 彼女がこの事件について書いた本も先日読みましたが彼女がその本で書いていた事は彼女にしか描けない拘留中・裁判中に彼女に関わる人達の人間模様や日常を彼女自身の価値観で書いた内容でとても彼女らしい捉え方だと思いました。

 まさに「なんとかしなきゃ」の毎日を彼女自身の価値観で彼女が出来る事を一人の働く主婦として毎日辛抱強くひとつずつ積み重ねていった結果があの冤罪事件に繋がっていったのだと思います。

 彼女がこの本の中でいつも言っている「私に出来たんだから皆にもきっと出来る」という言葉はとても共感出来ました。私も「なんとかしなきゃ」の毎日を自分で出来る範囲で一歩ずつなんとかしていつか誰かに「私でも出来たんだから皆にもきっと出来る」と言えるようになりたいですね。

2012/10/15

冬の備え

 そろそろ10月も中旬を迎え朝晩の気温が一桁台になるようになって寒さが徐々に近づいてきた感じがします。

 我が家は昨年、灯油ストーブが壊れてしまってちょっとストーブを点けたい時に寒くて仕方なくなりました。本格的に寒くなるとウッドストーブをつけてしまうので全然平気なのですが朝、出かける前にちょっと温まりたい時にはこの石油ストーブの方が便利なのです。

 それで先日、女房と2人で電気屋さんに買いに行きました。色々と価格と機能を検討して昨年の型落ちだけど機能は全然今年の新製品と劣らない格安の小さなストーブがあったので早速買ってきて点けました。

 一番喜んだのは我が家の毛皮を着てるくせに一番の寒がりの猫息子です。早速ストーブ前のソファに座って全然動かなくなりました。鼻がすっかり乾いてしまって身体に悪いと思うのですが、いう事を聞かなくて何時までもそこに座っています。全く誰の為のストーブか分りません(笑)

 今年はウッドストーブの薪もあまり充分とは言えない状態なので後から追加した薪を今、積んである薪の下に入れ変えないと乾燥がまだ不十分な薪を先に使ってしまう事になるので思い切って薪を入れ替える事にしました。

 結構これが大変なのですが思いついた時にやらないと、きっとやらなくなってしまうのでやってしまいました。お陰で汗まみれになりましたが森の中に住んでいると、こういう生活の為に労働して汗をかくというのは決して厭な事じゃなくてむしろ気持ち良いぐらいだから不思議ですね。

 汗まみれで汚れてしまったついでに穴も掘ってしまおうと思い生ごみを処理する穴を掘りました。これも定期的に掘らなくてはならないので大変なのですが森の中の不便な生活では大切な仕事なのでついでにやってしまう事にしました。

 我が家ではもうひとつ年内に家の塗装をしなくてはならないのですがこれはまだ今年の課題として残っています。果たして年内に完成するかどうかですが、これも塗料を買って保存してあるのでいい加減やってしまわなくてはなりません。

 全く、自然の中で暮らしていると色々とやらなくてはならない仕事が一杯あるので、どんどん時間が足らなくなります。それでも薪で一杯になった薪小屋を見ていたりすると心が豊かになってしまうので不思議です。

 山の中に住んでいるとお金ではなくて生活に必要な最低限の食べ物や薪があると本当に心が豊かになるので有難い事だと思っています。何となく人間らしい暮らしが出来ている様で私は大好きです。

 さて、これから本格的な冬を迎える様になります。今年の冬は長期予想では暖冬ではないかと言われていますが私は厳しい冬があるから明るい春が訪れると信じているので例年どおりの冬で良いです。

2012/10/02

祭りの後

 先日、「木暮人祭り」というイベントを行いました。私が理事を務める一般社団法人「木暮人倶楽部」が主催する初めての本格的なイベントでした。私は主催者側の事務局としてお手伝いさせて頂きましたが参加企業25社程が全国から集まってくると結構、準備も大変でちょうど公私共に慌ただしい時期だったので精神的にもちょっと大変でした。

 いつも思うのですがこういうイベントはその準備期間や内容が充実していればしている程、成功裏に終わります。逆に準備がおざなりだったり期間が短かったりすると出展する側も参加して貰うお客様側にも不幸な結果になります。

 今回は開催が決まってから実施まで余り時間がなくてそれなりに大変でしたがその割には充実したイベントになったと思います。

 イベントはお祭りに良く似ていると思うのです。東京ビックサイトなんかで行われる大きなイベントでも開催期間中はイベントガールの華やかな服装やブースの飾り付け、バックミュージックやデモンストレーションなんかで見た目はとても華やかです。

 ところが最終日の開催時間が過ぎたとたんに会場は一変します。華やかに飾りつけられたブースは一斉に解体が始まり、いかに短時間で撤収するかの戦争状態になります。解体業者が会場を縦横無尽に行きかい、搬出用の車両が場内に入って来てうかうかしていると轢き殺されそうな勢いになります。

 そしてそんな喧噪の時間が過ぎて片付けもある程度目処がたってくると場内は元の殺風景な倉庫の様な雰囲気になり、ついさっきまで華やかだった時間はどこに行ってしまったんだろうと思います。まさに祭りの後の静けさです。

 今回の木暮人祭りでは最終日にちょうど台風の直撃を受けてしまい開催時間を短縮するか予定通り実施するかギリギリの判断を迫られる状態になってしまいました。結局、台風の様子をリアルタイムでネットから情報を取り安全に搬出が可能なギリギリのタイミングで閉会時間を繰り上げての搬出となりました。

 映画祭も上演していたのですが最終回の上演を中止し一斉に会場の撤去にとりかかりました。

 多くの人が集まり、多くの企業が参加すればするほど様々な事が起こります。トラブルだったり事故やハプニング、あるいは唯の我儘だったり、ありとあらゆる事が起こりうるのがイベントの裏方なのです。

 それでも充実感を感じるのはイベント開催中の出展者の方や来訪者も含めた多くの方との出会いがあるからです。まさにそれがあるから続けられるのだと思います。日本人はだから祭りが好きなのかも知れませんね。

2012/09/25

耳をすまして・・

 か~ん。今年も屋根の上に秋の訪れの音が聞こえてきました。森の中に住んでいると都会と違って人工的な音は一切しません。自然が奏でる自然の音しか聞こえてきません。だから、私は都会に出ると頭が痛くなってしまいます。

 秋が近づくこの頃、森の中はシ~ンとして何一つ物音が聞こえません。ところがある時期がくると途端に賑やかになってきます。一つはドングリの落ちる音、屋根の上に大きなドングリが落ちてきて「カ~ン」と大きな音を立てます。特にドングリの当たり年になると次から次からカンカンと煩いくらい落ちてきて運が悪いと森の中の小道を歩いていると頭の上にゴツン何て事もあります。

 雨上がりの朝、明け方近くまで大雨が降っていたのに朝になるとカラッと晴れ上り気持ちの良い朝。陽が射しているのに上からポタポタ雨が落ちてきます。昨晩降った雨が木々の葉っぱの上に残り、それが風に吹かれてバラバラと落ちて来るのです。これも晴れてるからと思ってうっかり大木の下を歩いているとビショヌレ何て事もあります。

 そして秋も深まると今度は空からカサカサと奇妙な音がし始めます。そう、枯葉が落ちて来る音です。都会ではそんな音は聞こえないと思いますが他の音が全くしない森の中では枯葉が風に舞って他の葉に当たりながらカサカサと音を立てながらゆっくりと落ちて来ます。

 夜、得体の知れない音がする時もあります。先日も夜も更けた頃、家のお風呂場の外でカサカサ大きな音がします。まるで人間が外を歩いている様な音です。「誰か外にいるんじゃない?見てきてよ」と女房が言うので懐中電灯を手に外に出て森の中を照らしても誰も居ません。「誰もいないよ」といって家の中に入り暫くすると又、ガサガサ外を誰か歩いているような音が・・・きっと鹿かキツネだと思いますが外をウロウロしている音が聞こえて来ました。マア都会なら大変な騒ぎになるかも知れませんが森の中には色んなものが棲んでいるので(笑)気にもせず寝てしまいました。

 仕事で都会に泊まる事も多いのですが一番気になるのが救急車とパトカーが鳴らすサイレンの音ですね。昔は全然、平気だったのに森の中に住む様になって滅多に聞く事がない音なのでいつも「ドキッ」としてしまいます。

 最近は玄関で変な奴が私の帰りを待っています。デッカイ「ガマガエル」です。何故か玄関の階段の所に座って待っています。暗いと中々気が付かないので踏みつぶさないか心配なのですが何故か毎日、そこで出迎えてくれます。こいつが夜になるとゲロッゲロッと煩く鳴きます。近くに小川が流れているので多分、そこから通ってくるのだと思いますが、我が家の周りには蛇も棲んでいるので食べられなければ良いのですが(笑)

 それからこれは全然違う話ですが先日、知りあいの方で東京で「江戸噺」を主宰されている方が「八ヶ岳でやるので聞きに来ませんか」と誘って頂き女房と二人で聞きに行きました。

 近くの知り合いの方の居間を借りて高座に仕立てて目の前でほぼ独占状態で聞かせて頂きその声に聞き惚れました。その時、私が思ったのはテレビやパソコンやDVDが発達してスピーカーを通しての音声を聞く機会はもの凄く多くなったけど一昔前まではこうやって皆で演芸場に行って江戸の人情噺を直に人の声で語るのを聞くのが数少ない娯楽だったのだろうなという事でした。

 それが逆に新鮮で、人の声で直に物語を語るのを直接、生で聴くという事が現代ではとても貴重な機会になってしまったんだなと感じました。

 造られた音を楽しむのも良いけれどたまに自然が奏でる自然の音や人が語る物語を静かに観賞するのも秋の楽しみ方としてはとても癒されますよ。

2012/09/16

一日早くなってない?

 最近、めっぽう一日が早く感じられて仕方ありません。ものの本によると人間は年齢を重ねるに従って一日が短く感じるようになるそうですが私も最近めっぽう一日が短くて困っています。

 何が困るかというと一日にできることが少なくなってきたような気がします。まあ、動きも鈍くなったし(笑)仕方ないのですが昔はとにかく走らないと気がすまないというか気がつくと走っているという事が多くてゆっくり歩くなんて出来ませんでした。

 それがこのところはめっちゃ動きが鈍いというか走っていない!(笑)マッ仕方ないので最近は開き直って心で「一歩づつ、一歩づつ」と言い聞かせてとにかく今、やらなくてはイケナイ事を「一歩づつ」を家訓としております。

 そうしないと本当に何もしないうちに一日が終わってしまいますからね。出来る事は頑張る出来無いことは「明日にする」もしくは「諦める」(笑)こんな事絶対、他人には勧められませんがね・・・ところがこれが以外と気持ち良いのです。

 「無理しない」というか「無理出来無い」を自分の中に受入れてしまうとこれが気持ち良いのです。あっ誤解の無いように言っときますが決して「怠ける」とか「サボる」という意味ではないですからね。全力をつくすのですが「急がない」という意味ですから。そこのところ誤解なきようにお願いしますね。

 朝起きて、カーテンを開けて、朝食を女房と一緒に作り、新聞をとりに森の外に散歩に行って帰って来てから歯を磨き、愛車にのって会社に出かけ、一日頑張ったらもう夕暮れ、帰って夕食、食べてお風呂入ってTV見たらもう寝る時間、ちょっと寝る前に布団の中で読書をして気がつけがもう次の朝・・・こんな平凡が毎日なんですけど、フト気づきました。

 これって一番幸せな事じゃないのかな?健康で食事が出来て好きな仕事に没頭出来てつかれて寝る。これ以上の幸せって無いのじゃないかな・・・と。

 そんな事、皆さん考えた事ありませんか?私は最近こんな事を良く考えるのですけど、これってやはり加齢のせい?

2012/09/02

老人介護の今

 先週、母の次の入居先探しの為に故郷、高知に再び帰って来ました。6月に今までお世話になっていた施設内で転倒して大腿骨と手首を骨折してしまい、入院して手術をしその後、別の病院に移転してリハビリを続けていました。

 しかし、認知症の患者の傾向として急激な環境の変化は患者に大きな混乱を引き起こさせるケースが多くて母の場合も今迄の環境と大きく変わってしまった為に退院して元の施設に戻るのは困難になってしまいました。

 今迄の母の様子を見てきて何となく予想はしていた事でしたが、いざ実際に事態に直面してみるといかに自分にそういう知識と認識が足らなかったか思い知らされました。

 サア、それからが大変。私がどうしても仕事の都合で中々日程調整が出来ないので女房が一旦先に帰って入院先の病院のソーシャルワーカーさんと打ち合わせをして次の入居先の候補リストを頂いて来て2,3の施設の様子を見てきてくれました。

 その後、やっと都合がついたので先週、私が帰ってそのリストに載っている施設と自分のツテで探した施設を片っ端から廻って入居が可能かどうか探して廻りました。母の様なケースでは次の入居先の候補となるのは所謂「グループホーム」と呼ばれる施設なのですが高齢化社会を迎えた日本では絶対的に施設数が不足しており私も19箇所の施設を廻りましたが全然、空いていなくて大体6,7人待ちの状態で、これでも少ない方らしいです。

 見学して廻った19箇所の施設もそれこそ千差万別で民家の様なところを改装したところやマンションの中だったり、木造の杉の香りが一杯の新しい感覚の施設や立派なホテルの様なところもありました。どこも基本的には集団で日常生活に近い状態で老後の生活を見守り必要な介護を行える様に工夫してありました。

 施設を見学して思ったのは圧倒的に女性が多いと言うことです。ほとんどの施設が女性が8割以上といった感じで中には女性のみというところもありました。一体、日本のお爺ちゃん達はどこに行ったのでしょうね?ていうかやはりお婆ちゃんの方が元気だという事でしょうか・・何となく寂しい気もしました。

 母の様なケースでは一般的には入居希望先の施設に入居申し込みをして部屋が空くのを待つのですが、現在の日本の病院事情ではそれまで入院して待っていることは困難なので一旦、介護老人保健施設という所へ移転してリハビリを続けながら施設の空くのを待つのだそうです。ところがその介護老人保健施設というところも空きが中々なくて漸く友人のツテで探した施設に入居出来る事になり来週再度、高知に帰って引越しをする事になりました。ヤレヤレです。

 しかし、考えてみるともうすぐ自分達も同じ様な年齢を迎えきっと同じような苦労をするのだろうなと言うことが容易に想像出来てしまいます。

 少子高齢化の時代を迎えた日本、幸せな老後を安心して迎える事が出来るような国に変わっていけるかが大きな課題になりそうです。政治家の皆さん党利党略なんぞで無駄な時間を費やしている場合ではありませんよ。来るべき大地震への備えや原発問題等、多くの課題を抱えて日本も変わらなくてはならない時に来ています。

 国民一人ひとりが意識を持って政府に頼らないで国民が政府を動かす仕組みをもった国に生まれ変わらなくてはならないですね。な~んて事を山梨から高知までの電車の中で考えておりました。

2012/08/20

暑かったね今年の夏、

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 今年の夏も暑さのピークを過ぎ朝晩は少し秋の気配が漂う涼しい風が吹く様になってきました。

 しかし、年々暑くなってくるような気がしますが今年の夏もなんだか暑かったですね。今年の夏は母の入院があったりオリンピックがあったりでばたばたしているうちに終わってしまった感じです。

 今年、ふと感じた事は「木陰の恵み」です。今年の夏も暑かったけど我が家は森の中にあるログハウスなので申し訳ないけど家の中はそれ程暑くならないし夜だってエアコンもいらずに快適に寝られてありがたい事です。

 ある日、ふと庭に出て我が家を眺めていると当然のように森の木々の影が我が家に影を映していました。そうか!森の恵みはこんな所にもあるんだ・・・と「今更何言ってんだ」という話ですが、その今更に気が付いてしまったのです。

 世間ではエアコンの温度を上げろとか照明を減らすだとか色々、節電対策を苦労して実践しているのですが有難い事に我が家では大きな森の木々が影を造って我が家を守ってくれています。これは本当に有難い事ですね。都会にももっと木々を植えて森を造ってやれば電気を使わずに涼む事が出来ますね。

 それから年々多くなるのは集中豪雨の被害です。温暖化による異常気象が進むとどうしてもゲリラ豪雨のように短時間に大量の雨が降る事により多くの被害が生まれてしまいます。森の中でもあまりにも集中して短時間に雨が大量にふるので土の保水力の限界を越してしまい土砂災害を引き起こしてしまいます。これは森の中に住む人間として恐ろしいです。

 幸い、私の住んでいる辺りは八ヶ岳の南麓ですがそれほど勾配のきついところではないので土砂災害の危険性はさほど心配しなくてもよさそうです。

 暑かった今年の夏、皆さんはどのように過ごされましたか?

2012/08/15

森林セラピー専門医

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 東京から友人の森林セラピー専門医の女医さん達3名が八ヶ岳に遊びに来てくれました。

 森林セラピー専門医とは新しく出来た医療制度で、まだ日本には20名程しかいないそうです。今迄、どちらかというとボランテイア的な捉えられ方をしていた森林を拠点とした自然療法ですがいよいよ医療の現場としてその効果が認識されてお医者様が森林セラピーとして医療活動として森林の癒し効果を治療の現場に取り組んでいく活動が始まります。

 私はその活動にとても期待しています。自分が都会での暮らしの中で生活のリズムを崩してしまい辛い思いをした経験があるのでもし、その時にこういう治療方法を受けていれば又、違う暮らしが出来たかもしれません。

 人間が都会に暮らし始めてからの年月は長い人間の歴史の中ではつい最近の事です。それまでは人間は森で穏やかに暮らしていたのですがその内に人間は「道具」を生みだし、「狩り」を行い、「火」を起し、食物を「栽培」する術を習得しそして次第に自然環境を壊し自分達が暮らしやすい環境を生みだし、産業革命をもたらし都会を形成してそこに集団で住むようになりました。

 しかし、もともと人間は森の中で暮らした時間が長かったのです。だから人間のDNAにはその記憶が蓄積され、それがあまりにも早い環境の変化に追いつかずに知らないうちに人間のストレスとなって体調の変化をもたらすのではないかと私は思っています。

 勿論、ひとによって感じ方は様々ですので都会大好き、山の中は嫌いなんて人も当然いる訳で私はそれを否定するつもりは全くありませんし、自分自身も都会の真ん中でサラリーマン生活を普通に過ごし、学生時代からを含めると14年程東京で普通に毎日、満員電車に揺られて通勤し暮らしていた時はこんな事は全く考えませんでしたからね。

 でも私はある日、体調を崩してしまい突然、都会の生活に拒否反応を感じてしまい、それが耐えられないくらいのストレスになってしまったのです。その原因は色々あると思うのですが残念ながらその時は対処療法はありませんでした。いわゆる「自律神経失調症」みたいな診断をされてしまい、多分それしか言いようがなかったのだと思いますが自分もそれで納得してしまいました。

 しかし、その時に対処療法として森林セラピー専門医のような制度があり、それを試す事によって自分の体のリズムがどう変化するかを診断する事が出来ればもっと早く自分の体調への理解を深める事が出来て自分なりに病気とどう取り組んでいくべきか判断出来たかも知れません。

 今の世の中はストレス社会だと思います。ちょっとした事で怒りが爆発し人々はパンパンに心の容量が膨れて余裕がない様に感じます。そんな時に森林セラピー専門医の方の問診を受けてちょっと森の中に入りその懐に抱かれれば少し心の容量が広がる様に思います。

 その為には森の看護師さんも必要になるかも知れません。それは今、正に森の中で自然ガイドをされている様な人達が森の看護師さんになるのかも知れません。期待しています。森林セラピー専門医、頑張れ!

2012/08/06

ITオリンピック

 4年に一度の世界のアスリート達の祭典オリンピックがイギリスで開幕しました。私は元々スポーツを見るのが大好きなのでオリンピックはたまらない楽しみです。

 学生の頃は陸上部だったので男子100m走のウサイン・ボルトの走りは驚愕の思いです。私達の現役の頃は100m走の人類の限界は人間の体が受ける風圧と脚力の関係から9秒6と聞いていたので彼の走りは人類の限界を越える走りとしか思えません。正に人類最速の男ですね。

 しかし、今回のオリンピックの運営を見ていて気になるのは競技の判定にIT化が進みジャッジが正確になるのは凄く良いことだと思うけどその為に競技が中断されたりするのは何となく拍子抜けしてしまいます。

 陸上競技の100m走も私達の頃は当然、IT機械なんてないのでストップウオッチで計測するのですが、これが人によって押すタイミングが違うので微妙にずれるのです。

 当時はゴールラインに測定員がいてスターターのピストルが発射された時に出る「煙」を見てストップウオッチのボタンを押して計測していました。スタートラインからゴールまで当たり前ですが100mあるのでピストルの音を聞いてからストップウオッチを押していたのでは遅くなるのです。だからせいぜい10分の1秒位までしか出せませんでしたが今は100分の1秒まで測定できるのですから凄い進歩ですね。

 フライングも当時は2回までOKでしたが今は1回で失格なので厳しくなりました。スターテイングブロックという選手がスタートする時に足を乗せる機械にセンサーが付いていてそれでピストルがなってからどの位で反応したか分るし勿論フライングしたかも分る仕組みになっています。

 今大会で私が知っている限りではその他の競技でIT判定を採用しているのは水泳、フェンシング、柔道、テニス、自転車、体操等、多くの競技でIT機器が使われています。

 しかし、今大会の柔道で使われている映像判定にはちょっと違和感があります。それは柔道という競技の中で主審1人と副審2人という一番近くで見ている3人の審判の存在価値が失われる可能性があるからです。

 勿論、正確を期すのは当然だと思いますが際限なく機械に判定を委ねるのは逆に競技の進行を妨げるだけになるのではないでしょうか?テニスの様にプレー中に1回だけ映像判定を求める事が出来るとかにしないとその内に審判は要らなくてそれこそロボットが判定する(笑)時代が本当にくるかも知れません。

 私がスポーツ観戦が好きなのはそこに嘘がないからなんです。口はぼったい言い方をするならそこに筋書きの無いドラマがあるからたまらんのです。競技するのが生身の人間だからそこに色々なハプニングや番狂わせがあるから楽しいのです。

 それは誤解を覚悟でいえば裁く側の人間にも言える事です。人間だからミスジャッジもする可能性がある。だからそこにドラマが生まれる。そのミスジャッジでその人の人生が変わるなんて話も本で読んだ事があります。

 たった1球のストライクかボールかの判定がそのボールを投げたピッチャーの人生を変える事さえあるかも知れません。だけどそれが人間なのです。

 過去に柔道のミスジャッジだとかサッカーの神の手と言われるミスジャッジだとか既に伝説になるような話もあります。日本でも長嶋選手の天覧試合でのサヨナラホームランがファールだったなんてのもそうですよね。

 きっとその場面にIT機器が採用されていたら、その場面に関わった人達は違った人生を送ったかも知れません。私はひねくれているのでその辺の曖昧な人間味のある出来ごとが実は大好きなのです。

 確かにIT機器がその場にあって正確な判定ができていたなら違った展開にはなったと思いますが、なかったからこそ真相が最後まで分らないという、いかにも人間臭いドラマが生まれるのです。エッ?いい加減にしろ?ハイ、今日はここまでにします。あ~でもだからオリンピック大好き!

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八ヶ岳でのログハウス生活 ---木の家設計施工 森のすまい工房(有限会社アシスト

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