2011/07/27

集団検診

 毎年、町の集団健康診断を受けています。この年に一度の健康診断が嫌で嫌で仕方ないのですが年に一度なので仕方なく受けています。

 今年もその時期が来てしまい(笑)仕方なく受けることになりました。そこでひとつ、問題が・・・実は昨年の集団検診でも要精密検査に引っ掛かってしまい、今回の健康診断までにどこかの総合病院に行って精密検査を受けてその結果を報告しなくてはならなかったのです。

 それも嫌で一日延ばしにしていたらいつの間にか一年・・・「全く子供じゃないんだからちゃんとしろ」って言われても仕方ないのですが、兎に角、慌てて近くのクリニックに行って「先生、かくかくシカジカで何とかなりませんか?」「何ともなりません!」「そうですよね(笑)」「兎に角、薬だけは出しますから健康診断までの間、これを飲み続けてみて下さい」と薬を渡され内心「シメシメ、これで何とか今回の健康診断はなんとかなるかも」と淡い期待を抱いたのです。

 が・・・そんなに旨くいくわけがなく、腹部のエコー検査でひっかかりその検査技師曰く「ちょっと良いですか?」「はい?何か?」「いえちょっと見せても良いですか?」「え?あ~ハイいいですけど・・・何か」「いえ、ちょっと君、こっちに来て見てみなさい」と先生。

 隣で心電図をとっていた若い女の検査技師を呼び寄せ「ホラッここ見て、ちょっとこの方、見にくいんだけど、ホラッこうすれば見やすいだろ、ホラ分かる?ネッこうすれば良いからね。分かったね」「あの~何か写ってるんでしょうか?私の内臓?」「いえっ詳しい事は先生からお聞き下さい」ちょっと待ってくれよ~そりゃないでしょ。

 そんな気になる事、言われておまけにモルモットみたいにされて、そりゃないよね。

 で、後日、診断結果が来ました。案の定、要精密検査。あ~まただ。全くだから健康診断嫌いなんだよね。そりゃ病気にならないように予防検診は必要だと分かっちゃいるんですけど毎年、精密検査を受けろと言われると人間、段々嫌になってくるってもんですよ。

 エッ何?子供みたいな事言うな?エ~エ~どうせ子供みたいですよ。何せちっちゃい頃から病院嫌いでしたから。というか病院が好きな人なんていないでしょうよ。

 あ~あ~家に帰れば女房からも早く病院行って診てもらえと言われるし又、あと一年あるからそのうちに受けよっと。エッそれがイカン?え~え~分かっちゃいるんですよ私だって・・・

2011/07/18

日本女性は強かった

 社会の経済状況が好景気の時は男性優位の雰囲気が強いけれど一旦、経済状況が悪くなったり治安が悪くなったりすると俄然、女性が強くなりますね。

 スポーツ界でも近年、女性陣の活躍が際立っています。私にとって最初の日本女性の活躍の記憶は東京オリンピックにおける女子バレーボールの金メダル獲得でした。

 回転レシーブという画期的なレシーブ方法を編み出して見事、金メダルを獲得し、この時は「東洋の魔女」と呼ばれました。圧倒的な体格差をものともせず海外の選手の強烈なスパイクを拾いまくる日本女性の粘り強さはスポーツ界における日本女性の強さの秘訣を世界に見せつけました。その後も体操や柔道、レスリングの世界で日本女性は世界をリードしてきました。

 そして、今日、サッカー界でも又「なでしこジャパン」はワールドカップ世界一を達成しました。未だ男性陣も達成したこと無い快挙です。

 以前、TVの報道で女子サッカー界の現場を見ましたが日本では決して恵まれた環境では無く選手たちはアルバイトしながら練習に取り組んでいました。

 昼間はスーパーのレジを打ち、仕事が終わって夜、練習に明け暮れるという生活でした。それでも好きなサッカーに打ち込む姿に感動を覚えた事を覚えています。

 日本女性の粘り強さ、諦めないタフさ、それは本来、日本女性が持っていた奥ゆかしさの本質に潜む別の意味での強さなのかも知れません。

 今や女性スポーツは男性に負けない程、底辺が広がっています。元々、男性にしか許されていなかった様なスポーツにどんどん女性が進出しその中で日本女性の世界進出はめざましいものが有ります。

 中でもサッカーというスポーツはタフなスポーツでその中でも特にワールドカップは世界中の特に選ばれたチームにしか参加資格が無いまさにサッカーの頂点にある大会です。

 その大会で「なでしこジャパン」は世界の強豪に臆すること無く立ち向かい見事頂点に立ちました。

 特に決勝戦では未だ勝った事の無いアメリカを下しての勝利でした。しかし、私はいつも思います。こと、スポーツの世界において「絶対」という事はありえないのです。

 どんなに力の差があるチームの勝負でもスポーツの世界では絶対勝つとは限らない。正にやってみないと分らないのです。まして今大会でのなでしこジャパンは本当に強かった。

 FIFAランクでは日本は世界5位、アメリカは世界1位、力の差はそんなにあるわけでは無かったのだから今まで勝てなかったのにはきっと何か要因があったのだろうと思います。

 特にスポーツの世界ではそのスポーツが世界で普及すればするほど各国の力の差は無くなってきて勝負は拮抗してきます。選手達は世界中に活躍の場所を広げ、それが又、自国の選手層の底上げに繋がりその結果が力の拮抗を生むのです。

 なでしこジャパンの活躍は私の見る限り体格差を感じさせないスピードと走り負けない走力、パス廻しの正確さとスピードそしてシュートのアイデアと正確さが他のチームを圧倒していたように思います。つまりなるべくしてなった世界一のチームだと思います。

 とかく暗い話題の多い現在の日本の中でなでしこジャパンのワールドカップ世界一のニュースは本当に日本人に希望と勇気を与える快挙だと思います。

 オメデトウ!「なでしこジャパン」貴方達の決して諦めないスポーツマインドは素晴らしかったです。希望を有難う!

2011/07/09

昔の子供の夏の遊び方

 子供の頃、梅雨が明けて夏が来ると子供達は必ず近くの川に涼みがてら遊びに行っていました。

 僕達は竹の竿を持ってフナ釣りに出かけました。餌は近くの土を掘ってミミズを空き缶に入れて持って行くのですが、うっかり土を入れるのを忘れるとすっかりしなびてミミズのミイラが出来上がっていました。

 河原の土手に腰をおろしてキラキラ光る川面に目を細めながらいつまでも動かないウキを見つめていました。それでも時々、小さなフナが掛かるとバケツに川の水を汲んで中に入れ家まで持って帰りました。

 持って帰ったフナはどうしたのか?食べた覚えもないのできっと捨ててしまったんだろうと思います。そういえば何となく庭に穴を掘って埋めた様な気もします。

 何せフナを触ると手が魚臭くなって食事の時によく母親に怒られました。あの頃は川で遊んではいけない何て事をいう親もいなかったので自由に川に行けたし、例え川の事故があって人が死んでも、だから川に行くなと言われる事はありませんでした。それだけおおらかだったのかも知れません。

 釣りに飽きると近くの淀みに行って少し深くなった所を見つけて岩の上から飛び込んで遊んだりしました。

 当時は顔面と呼んでいた今でいう水中マスクを誰かが持ってきて、それを付けて水の中に入ると結構、深みまで見る事が出来て返って怖くなる事もありました。

 顔面を付ける順番が廻ってくるまでは手持ちぶたさなので河底の石の下に手を廻してそ~と触ると運が良ければ石の下に隠れていた魚を手づかみ出来る事もありました。

 悪ガキ仲間の中で魚を突く「チャン」という道具を持っている奴がいて、そのチャンを持っている奴は水中マスクで河の中を覗きこみ水中で止まっている魚を突いたりしていました。

 時々、子供達に交じって大人が投げ網を持ってくる事があり僕達はそんな大人を羨望の眼差しで見つめていました。旨く綺麗に投げ網が円形に広がると結構、網の中に光る小魚が入っている事があり子供達はいつも羨ましそうに取れた小魚を覗きこんでいました。

 今みたいに漁期なんて感覚は子供達には無かったし大人にも怒られた事がないのできっと漁期があったとしても子供達は免除だったのかも知れません。

 河原の石積みした隙間に良くウナギが忍び込んでいたので竹の先に丸い輪ッカを付けた道具を造って穴の中にそれを突っ込み、ウナギの体が旨くその輪ッカに入ったら素早くその輪ッカを引っ張って縮めてウナギを捕まえました。でも何だか自分で捕まえた記憶がないのできっと年長のものが捕まえるのを見ていたんでしょうね。

 昭和30年代、あの頃はいつも暑い外で遊びまわり勿論クーラーなんてものも無くそれでもスイカをバケツにいれて水道水で冷やして食べ決して豊かでは無かったけど今と比べて不幸では無かったと思います。

 あの頃の生活に戻る事が出来たら現在の電力使用量の半分で済むそうです。パソコンも無く、TVゲームも無く、携帯電話も無く、子供達は街頭テレビに群がり力道山の雄姿に拍手喝さいを送り、鉄人28号に目を輝かせ月光仮面の真似をしてマントをはおって走り廻り、家の電球は裸電球で用が足り、氷屋さんは手回しでカキ氷を造っていました。

 決して便利な世の中では無かったけど今より希望に溢れていたような気がします。過ぎ去った過去を振り返るのは余り好きじゃないけど大人になった我々は過去の経験を子供達に伝える義務があるように思います。不便な世の中も中々捨てたもんじゃなかったよ(笑)

2011/07/03

ハイブリッドカー

 最近、自分のクルマを大型の「SUV」と呼ばれる四輪駆動車から小型のハイブリッドカーに乗換えました。

 お陰で燃費は前の大型車の倍以上走るようになり、オマケに小回りは効くし室内は静かだし車の鍵を出さなくてもドアの開閉はできるしエンジンも鍵無しで掛かるし信号待ちでは自動的にエンジンが止まって燃料を使わずに済むし、まるでロボットに乗っているような感覚です。

 私の中で最初の車の記憶は親父が乗っていたダットサンでした。当時はエンジンをかけるのに車外に出てボンネットの前の穴にクランク状になった鉄の棒を突っ込んで廻してエンジンを掛けていました。

 自宅がガソリンスタンドを経営していた関係で小さい時から店に出て手伝いをしていたので中学生の時には車の運転が出来る様になっていました。

 勿論、無免許で運転していた訳ではなくスタンド内で車を移動する必要があったので運転出来る様になってしまったと言うことで公道を走った訳ではないので誤解のないように(笑)

 その頃はまだ車も漸く一般人が持てる様になってきた頃で先程のおやじの乗っていたダットサンやらミゼットという3輪車やらが街中を走り始めていました。

 タイヤもしょっちゅうパンクして当時は今みたいにチューブレスなんてタイヤは無かったのでパンク修理は大変でした。

 先ずタイヤを押してホイールから外してから中のチューブを引っ張り出して水に付けてパンクした箇所を探しだし、それから「ホットパッチ」という補修シートを穴が開いた箇所に押し付けて表面にマッチで火を付けるとそのシートが燃えて熱で穴の上に張り付いて修理完了というものでした。

 それが今では少しでも車重を軽くして燃費を上げる為に最近のクルマはスペアタイヤなるものが無くなってしまいました。じゃあ、パンクしたらどうするの?と思いますが最近のクルマはスペアタイヤの代わりに応急のパンク修理キットが積まれています。

 仕組はパンクしたタイヤの中に接着剤を流し込んで中から穴を塞いでしまえというものです。昔では考えつかない方法ですね。

 私の乗っているH社の小型ハイブリッドカーにはナビも搭載されていて、もう車内で地図を広げる必要もなく、もうどこへでも行けてしまいます。ライトも自動点灯で暗くなれば勝手に点くし昼間でもトンネルに入れば自動的にライトオンになるしエアコンは自動温度調節が出来るしもう一昔前から考えると隔世の感がします。

 小さい頃から車は身近な存在だったので大好きでしたが自分の車を持ったのは社会人になって先輩から譲って貰ったファミリアが最初のクルマでした。

 小さい頃から憧れていた車をやっと持てる様になった事に当時はワクワクしていました。新しい車に乗るときは今でもそのワクワク感は変わりませんが今の車は本当に便利になって何だか感覚は随分、昔と変わった様な気がします。

 確かに昔の車は今と比べて乗り心地も悪いしすぐ壊れたし大きくて重かったし直ぐエンスト起こすし修理は大変だし、そりゃ今の車の方がずっとカッコ良くて乗りやすいのは間違いないですね。

 でも・・・今の車はもう車では無い様な気がします。最初に言ったようにもうまるでロボットみたいです。でも何でか分らないのですが昔のベンチシートのコラムシフトの金属剥き出しのメーターが並んだあの運転席が何だか懐かしい様な気もして人間で全く不思議ですね。

 こんなに便利な車が開発されているのに昔の手間のかかるクルマが懐かしかったりして・・・これを無い物ねだりと言うのでしょうか(笑)

2011/06/26

普通の幸せ

 毎日、何となく忙しく時が過ぎていきます。元来がのんびりした性格なので毎日、やらなくてはならない仕事が溜まっていくのですがいっぺんに色んな事を片付けられないので結局、一つずつ、仕事を片付けていくしかない。それでも毎日、新しい仕事が増えていくのでちっとも仕事が減らなくて皆に迷惑をかけながらスマヌスマヌと思いながら毎日を過ごしています。

 今日も、仕事は休みの日なんだけど新しくする会社のパンフレットとHPに載せる自然風景の写真を撮りに近くの森へカメラを持って出掛けて行く事になりました。

 朝から天候が良くなくて「これじゃ欲しい写真は撮れないな・・・」と思い、仕方なく昼過ぎまで待つ事にして、お昼ご飯を家でとってから出掛けて行きました。

 車に一眼レフを積み込んで家より更に上の山の中に入り、あちこち気になるところで車を止めて森の中に入り写真撮影。でもやっと「ここいいじゃん」と思っても雲が掛かったり邪魔な木があって旨く取れなかったりして結局、一日走って満足出来る写真は中々撮れなませんでした。

 オマケにあちこちキョロキョロしながら走っていたら車の直前にイタチだの猫だのキジだのが飛び出して来て危ないのなんの・・・近くの登山道の入口まで車で入り展望台に立って写真撮っていたらパトカーが上がってきて「ナンだ?こんなところまで?」と思っていたらパトカーから降りてきた警官が登山計画書の入ったポストを開けて中の書類を確認していました。「ご苦労様です・・・」しかし、アチコチ車を道端に止めて写真を撮っているので「早くどっかいかないかな?」何て不謹慎な事考えてしまったりしていました。

 それでもめぼしい撮影ポイントを廻って大体、感じが掴めたので今度、天候が好転してから又、行って見ることにしました。

 夕方近くになって下の町中まで車を走らせ日常品の買い出しや古くなった靴を買い替えに店に入ったりして過ごしているうちに流石に夏至を過ぎて日が長くなったとはいえ辺りが暗くなってきたので女房と二人で晩御飯は近くのファミレスで済ますことにして店の前の駐車場に車を入れて簡単な食事を済ませました。

 店は比較的空いていて余り騒がしく無かったので助かりました。それでも隣の席には小さな子供を2人連れた家族4人が座っており子供がぐずって騒いで中々自分たちが食べる事が出来ずに困ってました。

 思わず女房が「一人預かりましょうか?なんてね・・・」とコッソリこっち向いて小さな声で話しかけてきて「やめとけよ・・・」と思わず真面目に答えてしまいました。

 自分たちの食事を終えて店を出て、遅くなったので高速に乗って家まで帰って来ました。家では帰りを待ちかねていた猫2匹がオヤツをねだって擦り寄ってくるので女房が猫缶を開けてやり、いつもそれが毎日の約束事になっています。

 こうして、普通になんて事もない一日が終わって行きます。でも、考えてみるとこういう何てこと無い一日を平凡に暮らす事が出来る事が一番幸せなんだと思います。

 震災で家にも帰れない避難民の方達が大勢、居られます。一日でも早く被災者の方達が平凡な普通の毎日がおくれる日が来ることを願っています。

2011/06/20

東京ビックサイト

 時々、東京のビックサイトで仕事に関係するイベントが開催され出展する事があります。先週も3日間に渡りイベントが開催され、行って来ました。

 イベントの規模にもよりますが大きなイベントの時には搬入も搬出も大変な目にあいます。今回のも出展を依頼されて余り多くの展示はしないつもりで「バスで行きますから、余り大きなものは持っていけませんからね」と周囲の関係者の方には話をしておいていたのですが「何とかホラ、丸太のテーブルとか用意できないかな?あれがあると雰囲気がよくなるんだよね・・・」「だってバスで行くから無理ですよ。カタログだって20部以内にして下さいよ。無理無理、絶対無理ですから」と逃げ回っていたのですが「車で行けばいいじゃない。車にしなよ。何で車にしないの?」と言われ「だって車は嫌いなんですよ。山で走り回るのは全然、気にならないのだけど都心は厭なんですよ。一方通行だとか右折禁止だとか、駐車厳禁だとか、ああいうの厭なんですよね」「何、言ってんの東京に住んでたんでしょ」「いやね、確かに働いていたけど移動は全部、電車だから・・・基本的に都心での運転はした事ないから・・・」と一方的に逃げ腰で押し通していたのですが、とうとう廻りから責められて仕方なく車に満載の荷物を積んで行く事になりました。

 イベントの前々日の夜に展示にもっていくログのテーブルやチェーンソーアートのフクロウや展示物で結局、満載の荷物を車に積み込んでイベント前日の朝、八ヶ岳を出発。お昼すぎにようやくお台場のビックサイトに到着し何とか搬入場所近くに車を置く事に成功し搬入。

 しかし、関係者がまだ集まらず展示物の配置が決まらなくて結局、関係者が集まって展示の方法が基本的に決まったのが午後の3時頃。それから展示ブースに建てる板倉造りの小屋の製作に入り終わったのが夜の7時でした。

 その間、お隣の有名な○○工務店のブースでは延々とコンパニオンさんのセリフチェックや映像の調整をしておられ、その脇で我々が木槌を持って「カ~ン、コ~ン。おい、こっちを持ってくれ!ここの板入いらんじゃないか!あっ!間違ったこっちを先にいれなきゃ!」何て大騒ぎをしておりさぞかしヒンシュクをかった事かと思いますが、汗だくになって何とか無事、設営を終えて八ヶ岳に帰って来ました。

 翌日はこちらで用事があったので1日は人に任せて残りの2日間だけ展示場に行く事にしました。翌日は確かに人は多かったのですが手伝ってくれる人も結構いたのでそれ程感じなかったのですが最終日は何故か誰も手伝いにこなくてもう一人の方と2人でブースを維持する羽目になり、又そういう時に限ってやたら来訪者が多くて朝から時間一杯まで途切れる事無くもう自分で何を喋っているのか分からなくなりそうな有様でした。

 それにしても廻りは最先端の技術を展示しているブースの中で我々はお茶屋さんのノボリ旗を立ててお茶を振る舞い、杉板の小屋を建て丸太の椅子とテーブルを置いて、来訪された多くの方に「ここは何だか峠の茶屋みたいなところだね。一体なんの展示?(笑)」と聞かれました。

 「ここは最先端のハイテク技術じゃなくて戦前の口伝に基くローテク技術を駆使して出来るだけエネルギーを使わない昔の生活に戻ろう。という活動をしているブースなんですよ」というと何だか怪訝そうな顔をされながら「でも、それが一番エコロジーなのかも知れないよね。

 何だか廻りは英語やカタカナばかりのブースで話を聞いてても頭が痛くなりそうだけど、ここは木の香りとお茶が飲めて何だかホッとするね(笑)」と言って頂きました。

 一応、私も勉強の為に廻りのブースを覗いてきましたがこのイベントのテーマが「低酸素社会と経済成長を両立させる」という相反するようなテーマなので各ブースとも最先端の省エネ技術を展示して一生懸命をれをアピールしていました。

 でも、はっきり言って良く分かりませんでした・・・だって余りにも英単語が飛びかい知らない言葉が多すぎて何で日本語で言えないのかなあ?(笑)と本当に思うのですよ。○○ソリューションがどうのこうの・・・○○イノベーションがどうしたこうした・・・分かりません(笑)八ヶ岳の山の中に住んでるんだからそりゃ無理というものです。

 きっと素晴らしい技術なのだと思いますがいくら格好よくても理解出来なきゃ意味ないですよ。えっ?理解出来ないのはお前だけ?恐れ入りました・・・

2011/06/11

真夜中の訪問者

 夜中の3時頃(多分・・)2階の寝室で寝ていると何やら外でけたたましい音がする。何だか木を叩くような激しい音。室内で寝ていたはずの猫達もパニックになって1階で走り廻っている様子。私は布団の中から出ていく事が出来ずに「何だよ~煩いな・・・何か外に居る?眠いし、どうせ狐かなんかだろう・・ほっとこ・・」その内にやはり何だか獣の鳴き声のような声がする。しかし、いつもの雰囲気とは違う。

 森の中に建っている我が家は夜中になると色々な動物の鳴き声が聞こえる事がある。狐の鳴き声は「ギャーギャー」と人間が悲鳴を上げているような厭な声でなくので煩くて仕方ない。

 鹿の鳴き声は「ケーン、ケーン」と警戒を呼び掛けるかん高い声で森の中に鋭く突きぬける。しかし、それも大抵は家から少し離れた森の中から聞こえる。

 今日の鳴き声はそれとは様子が違う。明らかに家の周りに居る。それも直ぐ近くというよりまるで家の中にいるような音がする。「やばいな~こりゃちょっと尋常じゃないな・・・見に行かなきゃならんかな~眠いしな~熊だったら洒落にならないしな~やだな~」と頭の中では夢ごこちの中で半分現実、半分夢の中の出来事のように感じながら、それでも起きる事が出来ない。

 その内に地下室の扉を叩くような音がする。「おいおい、まさかこんな夜中に泥棒じゃないよな・・・冗談じゃないぜ。我が家には金目のものなんてなんもないよ。むしろ何か置いていって欲しいくらいなんだから(笑)」しかし、外では何だかドア付近でガタガタ音がしている。しかもどうやらその音は家の廻りを廻っている様な気配がある。

 「こりゃやばいかも・・・さて、いざとなったらどっから逃げ出すか。万一、熊が家の中に入って来たらあそのこ扉を開けて屋根に飛び出して外に逃げるしかないか・・・」何て事を何故か布団から一歩も出ることなく寝たまま頭の中で考えていた。

 その後も、しばらくそのガタガタという怪しい物音は続き、私は布団から出ようかどうしようかグズグズしているうちにどうやら眠気が勝ってしまい、又、寝てしまったようで、気が付けば朝だった。

 いつもの朝の様に隣で寝ている女房の目覚まし時計が起きる時間を告げ、布団の上に二人で起きて座り込みしばらくボケ~としていたら女房が「何だか夕べ、明け方だったと思うけど、外で音がして目が覚めて眠れなくなって朝まで起きてた様な気がする」と仰る。

 「やっぱり!夢じゃなかったんだ。俺も目が覚めて凄い音がしてたから何かと思ったよ」と二人で話してから1階に下りて行き、外の様子が気になりながらもいつもの様にカーテンを開けて朝食の支度をしていたら女房が「見て!洗面所の窓から良く見えるけど、家の廻りに凄い足跡が付いてるよ!」と叫んでいる。

 私はサンルームの窓から外の様子を窺うと何と家の廻りに小枝が散乱し家の廻りに積んであった薪が崩れ大変な事になっている。

 女房が「ちょっと外見てきてよ」「やだよ!お前見てこいよ(笑)」「何、言ってんの。早く見てきて」「分かったよ~でも食事済んでからね・・・」と何とか心の準備をする時間的余裕をとり、外の様子が気になりながら朝食を終え、いよいよ外へ新聞を取りにいくついでに家の廻りを見る事にした。

 新聞は森の出口まで行かなくてはならないからそのついでである。玄関を開けて外に出るとそこには・・・・夥しい大型動物と思われる足跡が散乱している。女房が大切にしていた植物の鉢が割られてあちこち散乱し、折角植えた花も抜かれて哀れな姿に・・・地下室の入り口に廻るとそこにも大量の足跡があり端材を積んであった山が崩されてあちこちに木片が散乱してまるで瓦礫の山。

 「あ~あ~、やられたな・・・」その大量の足跡は森の奥から我が家を襲い、そこから森の出口まで延々と続いており新聞を取りに行く道沿いにず~と足跡が続いている。

 森の中には獣道があり、いつも動物達はその道を通って行くのですが、昨晩の群れはどうやらよそ者のようで新しい獣道が造られていた。しかもかなりの大群。体重があるのか足跡も深くて大きい。足跡の特徴を見る限り成獣の鹿を中心としたかなりの群れのようである。

 この時期、30頭余りの群れとなった鹿の集団を良く見かけるがこんなに家の近くに大群で押し寄せてくるのは珍しい。この辺を縄張りとしている鹿なら必ず同じ道を通るはずなので、きっと分かれた別の鹿の群れじゃないかと思われます。

 家に帰って女房に「大変な事になっているよ。見ても怒っちゃだめだよ」というと「何だって~!許さん!」そうですよね・・・「鹿さん女の恨みは怖いよ・・・」

2011/06/07

誕生日

 実は先日、人生五十数回目の誕生日を迎えてしまいました。本人さえ慌ただしさに本当に忘れていたのですが女房から「娘からメール来た?」と言われ「えっ?何かあったの?」と聞くと「父さんの誕生日だからメールするように言っといたから」と言われ始めて気が付く位の意識しかありませんでした。

 その後、知人からも色々とメールを頂きお気遣い申し訳ありません(笑)状態でした。もっとも本人からしてみると忘れるくらいですから余り記念日という意識はないのですが人から「オメデトウ」と言われるのは悪い気はしないというか嬉しいものなのでそれはそれで決して嬉しくない訳ではないのです。

 誕生日というのは時間の区切りの一つであると理解しているのでそういう意味では又、ひと区切りをクリアしましたねという記念日なのだと思います。

 父は74歳で亡くなりましたので親の歳に追い付くにはまだ20年足らずありますので、まだまだ頑張って時間を重ねなくてはならない歳です。しかし、考えてみれば幾つから余り誕生日が待ち遠しくなくなったんだろうと思います。

 子供の頃は誕生日になると友達を呼んでプレゼントを貰ったりケーキを作って貰ったりしてとても楽しみにしていました。

 それが段々年齢を重ねるにつれ喜んでくれる人達が段々減って来て(笑)ある日気が付くと「あっ!今日俺の誕生日だ」と一人で気が付くようになり、終いにはこっちから「○日は俺の誕生日だからね」と家族や知人に言わないと気が付いてくれなくなり、そのうちに「あ~ちょうどその日は都合が悪くて」なんてお祝をやんわりと拒否されたりするようになり(笑)そんなこんなしているうちに、ある程度の年齢を過ぎると「長生きしてね・・・」モードに入って来て何だか又、誕生日をお祝いしてくれる人が増えてきたりして誕生日というものはその人の年齢とともに意味合いが変わってくるものなんですね。

 私の場合はまだ現役で働いているもんだからその丁度、中間辺りかな。最近はネットでご丁寧に誕生日を知人に知らせてくれるサービスがあるもんで、それを見た方からもお祝いを言って貰ったりしてそれはそれで本当に申し訳ないような恥ずかしいようなで便利な世の中になったものです。ネットで繋がるというやつですね。

 前はメールにお誕生日用の葉書をデザインして送るソフトがあってそれでいつも送って下さる方が居て最初はとても驚きました。そういや最近、手紙でお祝いを頂くという事が余りなくなりましたね。ペーパレス社会になったので仕方ないのですがたまに手書きの達筆な葉書なんか貰うと「この人なかなか出来るな」と唸ってしまいますね。あっ!脱線してしまいました。誕生日の話でしたね。

 そう、だからもう誕生日のケーキは無くなったけど女房と二人で買い物に行って誕生日プレゼントに夏用の帽子を買って貰いました。その内に自分で自分に誕生日プレゼントを買う様になるかも知れません。というか誕生日自体を忘れてしまうのだからプレゼントも無いか(笑)それも寂しい話ですね。

 今まで一番楽しかった誕生日は幾つの時ですか?と聞かれたらあなたはどう答えますか?私は考えてみても余り覚えていません。やはり子供の時の誕生日が楽しかったような覚えはあるのですが具体的に幾つの時の誕生日かと聞かれれば全く覚えていないものですね。

 何か甘いケーキを食べた記憶や実は余り嬉しくないプレゼントを貰った(勉強道具や学習ノートの類ですね)覚えが微かにあります。

 クリスマスやお正月のように万人共通の祝日を祝うというのは何となくドキドキして意外と記憶があるのですが自分一人の為の祝日というのは私にとって余り記憶が深く残らないみたいです。

 これから先、この時間の区切りを何回刻んでいけるのかは分かりませんが、健康に刻んでいけるものなら続けていきたいですね。

2011/05/30

台風と空の旅

 いつもの数カ月に一度の故郷、高知への里帰りに行って来ました。今回は季節外れの台風がオマケに着いてきそうでちょっと心配な出発になりました。

 羽田への連絡バスの乗り場まで自分の車を走らせ駐車場に車を置いてからバスに乗り込み後は睡眠不足を解消、というのがいつものパターンなのですが今回は甲府で乗り込んできたお客さんの声に眠りを妨げられました。

 最初はお年寄りが運転手さんとなにやら喋っているのかと思いきや、どうも外人の方の様でどうも言葉が通じない。運転手さんが「何処まで行くの?」と聞いているのだが「???」どうも韓国か台湾の方の様でさっぱり言葉が通じない。運転手さんはとうとう諦めて「3000円ね・・」と諦めて国際線までの料金を受け取り件の女性はバスの中へ・・・私の斜め前の席に座り早速、靴を脱いで裸足になってバスのシートにチョコンとお座りになりました。

 騒ぎが収まったのでもう一度眠りに戻り一路、羽田空港へ・・・今回は台風が来ている事もあるのか道路も空いていていつもより随分早く空港に着いてゆっくりできました。

 出発ロビー近くのコーヒーショップで時間調整・・昔、空港で働いていた頃の馴染みの名前のコーヒーショップでしたがあの頃はちょっと高級店の雰囲気で売り出していたのですが何となくファーストフード店の様な雰囲気になっていてちょっとガッカリでした。

 飛行機の出発時間が来て出発ロビーに移動、手荷物検査場でパソコンと携帯電話等の金属製品を皿に乗せて検査場を通過して出発ロビーへ・・・このところ何故か高知行きはバスでの搭乗が多くてこの日も雨が降っているにも関わらず残念ながらバスでの搭乗になりました。

 出発時間がきて機内に乗り込み機上の人に・・・最近は機内サービスも省エネモードなので機内での飲み物ははフリードリンクのお茶かジュースに決めている。それ以外はすべて有料ですからね。高知行きの飛行機はそれでも満席で「へ~昨年は大河ドラマの影響で高知人気が続いたけど今でも満席なんだ」と変なところに感心していざ高知へ・・・台風の影響で多少、飛行機は揺れたけど無事、高知に着陸。

 空港でいつものレンタカーを借りて市内へ・・・早速バアチャンの様子を見に行き今回の目的のひとつでもあるバアチャンのテレビを地デジに買い替えに電気屋さんに行った。

 実は前回、勿体ないのでチューナーを買って取り付けたのだがバアチャンは必ず電源コンセントもアンテナ線も抜いてしまうのでその度に設定をし直さなくてはならない事に気が付いてチューナーは断念。

 今回は出来るだけ同じ形で出来るだけ操作が単純なテレビを買って、しかもバアチャンはコントローラー何て使えないのでテレビ本体にマジックでスイッチの位置に赤印を付けて更に付箋を貼って「バアチャン、ここを押すだけでテレビつくからね」と何回も教えたけれど果たしてどうなることやら・・・やれやれ。

 取り替えたテレビはレンタカーに付いているナビで近くの宅配業者を捜して集配所にテレビを持ち込み何とか梱包を手伝って貰って山梨の自宅に送り返す段取りを済ませ、一件落着。

 折角、高知に帰ったので親戚廻りも何とか済まそうと思ったけど生憎のの台風の大雨でゆっくりする暇も無く駆け足で親戚廻りとお墓参りをすませて翌日再び羽田へ逆戻り。

 羽田で山梨への連絡バスまで時間があるので早めの昼食を済ませお茶を飲んでいると何やら隣の飲食店のレジで中年男女4,5人の団体が店の人と揉めている。どうやら会計の事らしい。

 仲間の一人のオジサンがカンカンに店の人に怒っていて店の人も大声で「すみませんでした!」と謝っていて、くだんのオジサンは仲間のオバサンさん達に「そんなに怒るもんじゃないよ」と諭されているが「悪いのはあっちだ!」怒り収まる様子がない。

 結局オジサンは仲間達に引っ張られて別の席に連れていかれそれでも怒り収まらず、結局、店の別の女性が再度、その席までとりなしに来てオバサマ達が間に入って一件落着となりました。

 何が原因か知らないけど最近怒っている人が多くてちょっと気が滅入りますね。今回も些細な旅のハプニングはあったけど無事帰って来ました。あっ!飛行機の席に読みかけの小説置いてきちゃった!

2011/05/22

東京へ・・

 今週はなぜだか2回も東京で会議がありそれぞれいつものように高速バスで出掛けて行きました。丁度、中央高速道路が集中工事を今週やっており東京近くでは渋滞が続いて、いつもより30分以上時間が掛かりました。

 このところずっと八ヶ岳で過ごしていたので仕事で東京に行くのは久しぶりでしたが、そんな事情でどうも最初は馴染めなくて(笑)我ながらどっぷり山の中の生活に浸ってしまっており本当に都会がダメになってしまっていました。

 自分でも情けない位、都会が嫌になってしまっていてこりゃ本当に2度と都会には住めないな~と思い知らされました。どこがダメなのかと聞かれると困るのですがこれは私自身が気持ちいいか悪いかという感覚なので仕方がないのです。

 何せ私が今住んでいる森の中の我が家では昨日も朝、玄関の扉を開けた途端にガサガサと大型の動物が逃げていく気配がすると思ったら直ぐ目の前に鹿の群が10頭程立ち止まってこっちをジット見ているなんて所に住んでいるので、そりゃそんな人間がその日のうちに下北沢駅前で会議なんて言われても朝、目の前にいたのが10頭の鹿だったのが都会では何百人という知らない人ではそりゃ余りに環境が違いすぎますよね(笑)しかし、何十年も都会で住んでいたのに本当に苦手になってしまったものです。

 八ヶ岳に住んでいると大抵、目線はいつも真っ直ぐに前を見ているか空を見上げているかですが都会では何故か俯き加減になってしまいます。これは昔、都会に住んでいた時からの癖ですがどうも電車に乗っても街を歩いていてもまっすぐ前を見ていると知らない人と目線が合ってしまうのでついつい俯き加減になってしまうのです。

 それからついつい色んな人の様子を電車の中からやバスの中から観察するようになってしまいます。これも昔からの癖ですが都会には本当に多くの人が歩いているので中には変わった人もいて観察していると飽きませんね。

 新宿に着いて渋滞で遅くなってしまったので遅い昼食をとろうと新宿駅西口のビルの地下にあるレストランに行って昼食をとりました。そして、そこから又、地上に出て駅に向かおうとしていると目の前で60歳位のおばさんが自転車で走っていて歩道の縁石に前輪を乗り上げて派手に転倒してしまいました。

 結構ひどく転倒した為に眼鏡が吹っ飛んで暫く立てない様子でした。「きっと誰も助けないだろうな・・・」と思っていたら案の定、誰も近づきもしないので倒れた自転車を起こしてあげて近くの安全な場所に移動してスタンドを立てて自転車を置きそのおばさんに「大丈夫ですか?痛くないですか?」と聞きましたが倒れた時に顔面を打って痛くない訳がないのに「大丈夫です」と壊れた眼鏡を一生懸命治そうとしていました。

 「縁石に引っ掛かってしまいましたね」と言うと「そうなんです。ハンドル取られてしまって・・・」と笑顔を見せたので「本当に大丈夫ですか?」と聞いたら「本当に大丈夫です」と言われたのでそこでお別れしました。

 そしてフト前を見たら交番があって中にお巡りさんがチャンと居ました。「何だよ、見てたら助けてくれれば良いのにと思いましたが、きっとこんな些細な事で交番から出てくる事はないんだろうな・・・」とふと心の中に寂しさが湧き起こりましたがこれも都会なら日常茶飯事な事だと納得しました。

 昔、品川駅のプラットホームで体調を崩してベンチから立ち上がれなくなってその時「誰か助けて・・」と思いましたが当然、ベンチでうずくまっている私に気づく人はいなくて、仕方なく力を振り絞って這う様にしてタクシー乗り場に行ってそのまま近くに知り合いの病人に駆け込んでそのまま入院した事が有りました。

 その時、都会にはどんなに多くの人がいても自分は一人なんだと思い知らされました。そんな想いが都会での暮らしに嫌気をもたらしたのかも知れません。

 山の中で今度具合が悪くなったらきっと廻りに多くの鹿やキツネや猪やクマや猿がやって来て「こいつ食べれる?」って思うだろうな~それはそれで自然な事で仕方ないけどそれもちょっと辛いな(笑)

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八ヶ岳でのログハウス生活 ---木の家設計施工 森のすまい工房(有限会社アシスト

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