今まで書けなかったこと・・
八ヶ岳に住んでから20年、この世に生を受けてから50数年、手掛けさせて頂いた家が150数棟、そうこうしているうちに段々、八ヶ岳の仲間、身内、お客様の中で段々、人生を終えていかれる方が増えてきた。その度に悲しみ、元来が涙もろい(笑)ので最近はこらえるのが大変になってきて困っている。人は齢を重ねるごとに涙もろくなると言われるけど「全くだ」と自覚している。
最近は結婚式に呼ばれることはまず無くなり呼ばれるとなると葬式ばかりになってきた(笑)。しかし、こりゃしょうがない。うっかりするとそのうち自分の番がくるのだから・・・だから悲しんでばかりはいられない。
最近読んだ北杜市に住む作家、樋口明雄氏の著書「約束に地」はここ北杜市を舞台にした小説でテーマのひとつに「死とは乗り越えるものではなく共に生きるもの」とある。自分の父は十数年前に亡くなったがその時はあまり悲しくはなかった。父は父なりに自分の人生を全うしたと思っていたからである。全く高知の「イゴッソウ(頑固者)」らしく好きな事をしたと思っている。実の母は少し認知症だけど体は健康で元気である。義理の母は亡くなって3年、最後は病床で少し苦しんだので見るのが辛かった。
そして、それらの死をやはり時間と共に乗り越えていかなくてはと思っていた。しかし、そりゃ時間と共に悲しみは少しずつ癒されていくけど乗り越えると云う事は忘れると云う事に繋がるようで少し嫌だった。まあ、そのうちボケて忘れるのだろうけど(笑)しかし樋口さんの言われるように「共に生きるもの」と考えた方がとても楽である。
人間も生きものである以上、いつかは死を迎える。生きることは死ぬこと、生を受けるということはいつか死を迎えると云う事。死は新しい生の始まり。私は別に生き返ると云う事ではなくある人の死は、その死に関わる人達の新しい人生の始まりだと思います。支えを失い新たな生活を始めなくてはならなかったり教えを受けられなくなって自分で考えなくてはならなくなったり、新たな変化が始まるのだと思っています。だからこれからそう思うようにしようと思っています。そうしないと数が増えすぎて困るから(笑)
私自身は東京でのサラリーマン生活を捨てて自分の意志に従ってここ八ヶ岳に引っ越してきて自分の生きる証として多くの家を手掛けさせて頂き全く好きな人生を歩ませて頂いて、最近の流行ではないけど「生きてるだけで丸儲け」と思っている。多分、付き合わされた家族は良い迷惑であったろうと思うけど家族だからショウガナイノデアル。
大切なのはその日を精一杯生きること。そう思っている。しかし、最近一日がやたら早く過ぎていくのは何故なんだろう?やらなくてはならない事は山ほどあり、その日一日で出来る事は本当に限られている。毎朝、その日一日でやらなくてはならない事をメモに書いてこなすようにしているのだけど本当にそれだけで精一杯である。これは生きている者の宿命なのでしょうね。だから私の廻りの人生を終えた皆さん、私は皆さんと共に生きていきますからね。時々、忙しくて忘れる事があっても勘弁ね。
去年、私も「施主」であった家族を失い、きこりさんからとてもとても丁寧なお悔やみの言葉をいただいて感謝しています。
そうですね、死者は共に生きること、実感しています。八ヶ岳の夏を共に楽しんだことも。新しくはぐくまれた命、生と死が連環していることも。これからもよろしくお願いいたします!
投稿: 寺岡 | 2009/02/09 16:18
寺岡さん、ご無沙汰しております。
あれから気になっていつもお宅の前を通り掛かりに見ています。
時々、息子さん達がお出でになっているようですね。
残された者たちが幸せに生きる事が大切だと思います。
こちらこそこれからも宜しくお願いします。
投稿: kikori | 2009/02/09 19:01
きこりさん、、歳をとると加速度的に月日が過ぎていきます。恐ろしいですね、、誰でも通る道ならばこっちも対処しなくては、、死に向かって一直線ってことかな、、誰でも避けられないことなのだから前もって対策を考えるのだ、、うん、、
投稿: dan | 2009/02/13 20:52
danさんこんにちは。全くですね、どうして24時間が短く感じるようになってしまったのやら・・・早くもっと楽しまなければ・・ウン
投稿: kikori | 2009/02/14 21:05