時事問題 Feed

2006/10/29

物質文化と精神文化

 やたらと固そうなタイトルになってしまいましたが最近、時々ニュースをみたり日常でフト気になる事があります。例えば仕事柄、建築関係の記事にどうしても目がいくのですが「秋の住宅フェア!特別キャンペーンモデル販売」などという広告が最近はやりですよね。つまり住宅は建てる物ではなく買う物なんですね。う~ん、何となく自分の感覚とはギャップがあるな~と思ってしまいます。これだけ住宅の工業化が進めば当然の事なんでしょうけどね。

 先日も、自宅に届いた壁材の板は綺麗にラッピングされて一束ずつ梱包されてそれは素晴らしい納品姿でした。それはそれで素晴らしいと思うのですが、別にそこまでしなくてもいいんじゃないのとちょっと変な感触が心の中に引っかかりました。多分、普段から山の中に入ってキコリさん達が木を倒すのを見ている感覚と木が違うとはいえその木がラッピングされて納品されるという感覚のギャップが旨く埋められないのでしょうかね。

 昨今、話題の高校の必須科目の履修逃れの話題も世界史だか日本史だかでしたっけ?昔、私も日本史と世界史が苦手でとにかく訳も分らず丸暗記したものでした。だから今でもその時代の繋がりがさっぱり分らずいい歳してあの頃もっと勉強しときゃ良かったと後悔しています。私も理系だったので文系の授業はさっぱりでしたが今となってはとても後悔しています。受験はテクニックも確かに重要だけど余り受験テクニック偏重の授業をしていると私みたいに後で後悔する羽目になるような気がするけどな・・・何が言いたいかというと人が人となるにはそれなりに時間と経験と手間がかかるのは当たり前じゃないのかなと思うわけです。余り早くから自分の人生を決めてしまわない方が良いんじゃないかな~。

 全然違う話ですが先日、雷が近くに落ちた影響で家のTVが死んでしまい。しょうがないので小さな液晶テレビを買おうと思い女房と近くの電気屋さんに見に行きました。今、テレビ業界は地上デジタルテレビが話題となり新しい家電需要の拡大を期待してどこもTVコーナーは充実しています。案の定、棚には同程度のTVが右側が地上デジタル対応型、左が非対応型として展示してあり「サア、あなたはどちらを選びますか?」状態であった。当然、迷うよね。電気屋さんに行って悩んでも遅いって思うんだけど、そこはそれ旨く並べてある訳ですよ。で、結局予算のない我々夫婦としては「出直してきま~す」にあいなる訳ですね。で、それが言いたい訳では全くなくそこで前から気になっていた「亀山モデル」というのがどうも心に残ったのですね。別にメーカーの宣伝をする訳ではないのですが同じそのメーカーの製品でありながらあえて亀山工場製品というのを前面に打ち出すのに共感を感じるのです。

 「ものづくり」をしていく中で確かにコストを抑え安く仕上げる事も大事だし、綺麗に包装して届けることも大事だと思うけど原点は人間が手で作っている事だと私は思います。どんなに効率を上げても人間が作る以上「かかるものはかかる」のである。費用も時間もですね。同じメーカーの製品でありながら亀山工場で作るものとそうでない物とが差別化されている販売方法は「違うんですよ!」というメーカーの姿勢を表したものですよね。そこに何だかオウ!いいじゃないのと思ってしまう訳です。今まで余り気にしていなかった何処で作られたか?という作り手の価値観を付加したという所がグッドですね。

 最近、特に効率優先で余裕が無さ過ぎるような気がします。豊かな物質文化は豊かな精神文化の上に立ってこそ出来上がるものではないでしょうか?普段、必要のないハイスペックなものが巷に溢れて過ぎていませんかね。どっかのコマーシャルにあったけど電話は話が出来れば良いんじゃないですかね。車は安全に快適に走ればそれで良いじゃないですかね。シンプルイズベスト・・何だか一昔まえにこんなキャッチフレーズが流行ったけど今一度「勿体無い」と「シンプルイズベスト」が流行らないかな~なんて思う秋の一日でした。

2006/06/04

森の現状

 「新月の木」の会合で明治大学名誉教授で工学博士の藤井石根先生の講演を聴く機会に恵まれた。先生は熱応力、太陽熱の動力化等の研究をされており「日本太陽熱エネルギー学会」の元会長をされている。今回の講演のテーマは「緑の悪化とバイオマスエネルギー」という事でしたが我々シロウトにも分り易い説明で非常に感銘深い講演でした。

 先生がこの講演の中でもっとも憂いておられたのは加速度的に進む地球温暖化に対する懸念です。私が以前から不思議に思っていた八ヶ岳における気候変動のひとつが温暖化による冬季の降雪量の多さです。何故そうなるのか何回聞いても良く分らなかったのですが先生の話を聞いてなるほどなと思いました、つまり大気中のCO2の増加によりメタンガスが地球を覆いその結果温室化した海水温度が上昇し大量の水蒸気が発生する。その水蒸気が大雨や雪をもたらす結果になっているという訳です。

 聞いてみると「ナルホドナ」と頭の中で理解は出来るのですがこの話はスケールが違うのです。現在、地球上では巨大な規模でエネルギー問題と食糧問題が発生しています。何の事かと言いますとエネルギー問題は言わずと知れた石油備蓄問題です。世界がこのままのスピードで経済成長を進めるといずれ石化エネルギーは底をつきしかも長年蓄積されていたCO2が大気中に放出される事により地球温暖化が加速され結果、大気中の酸素濃度が低下しその事が食糧不足による飢餓を発生し生態系の崩壊を迎える結果になりかねない状況です。現在、アマゾン・東南アジアの熱帯雨林のうち東南アジアの70%に日本の業者が伐採に関わっています。

 世界のCO2発生国のトップは中国です、その次がアメリカ、この経済大国の2カ国が地球温暖化防止活動を定めた京都議定書から外れています。この2カ国の積極的な参加なくしては温暖化の抑制はありえないのです。

 この様な状況における森林に期待される効果は言わずとしれた木の光合成によるCO2の固定です。木は大気中のCO2を取り入れて酸素を放出しています。長くこの固定化されたCO2を留める事、つまり木を有効に長く使う事が今後重要な課題になってくるのです。森林にはこの他に・土壌の保水性(緑のダム)・蒸散作用の促進・河川や大陸棚の養分の供給・大気汚染の防止と浄化作用・土壌飛散の防止と防風効果・防塵と消音効果、そして癒し効果と数え切れない程、地球を維持していく上で貴重な役割を果たしています。

 長々と先生の講義内容を右から左へと書き連ねてきましたが最後に先生の講義で一番印象に残った言葉は「現在の地球温暖化を抑制するのに我々が身近に出来る事は省エネルギー、1970年代つまり昭和45年頃の日本のエネルギー消費量は現在の50%です。あの頃の生活を維持できれば温暖化は抑制できるのです。あの時代、我々は不幸だったでしょうか?」路面電車が走り回っていたあの時代に戻る事は出来ないんでしょうか?

2006/04/17

日本国憲法

日本国憲法なんていうと、何を言い出すんだろうと思われるかも知れませんが、知り合いが憲法9条を守ろうという運動をしていてちょっとお手伝いをしているもので、お手伝いする以上、もう一度日本国憲法を全文、読み返してみようと思い、先日本屋に行って解説書を購入して出張で移動中のバスの中で読んでみた。

バスの中で読めるくらいだから、全文読んでも大した事はない。確かに古い文体なのでちょっと読み辛いが読めない事はない。意味を理解するかどうかは別ですが・・・日本国憲法は今年で60年を迎える事になりますが一文として変更なく現在まで成立している憲法としては世界でも珍しい憲法らしい。確かに、通常の法令とかではその実情の変化に合わせて年中変更がされているので世界的には珍しいのかもしれない。もっとも、大事な基本的人権を決めた憲法なので余りしょっちゅう変えるものでもないのかも知れませんね。

で、その中の憲法9条には戦争放棄とかについて書かれている訳ですがここでその内容の解釈について述べようという訳ではないし、ボンクラ頭ではとても理解出来ないのでそれは置いておいて何故、憲法が必要なのかという事である。世界中の国でこの憲法に類似したものが同じように制定されているがイギリスのようにそもそも憲法そのものが無い国だってある。無い代わりにそれに代わる判例とか条文が整備されているらしい。つまり憲法が必ず必要なわけではないがそれに代わる取り決めが必要だという事なんでしょうね。その国で暮らす人達がどのような権利や義務の元に暮らしているかという基本的な取り決めをしておかないと問題が起きた時に解決が難しくなると言う事ですね。何を基本に正しいとか正しくないとか判断するのに必要という事でしょうかね?

日本にはもともと「大日本帝国憲法」というものが有った訳ですが第二次世界大戦で敗戦国となった日本を民主化するために新たな憲法を必要としたというのが歴史上のいきさつなのですが、当然、時代によっても変わりゆくものだし逆に変わってはいけない部分も当然あって良いと思います。

日本では最近、悲惨な事件事故が多くて何となく日本国民としてまた、地球に共に住んでいる人としてもう一度、自然を守るとは、平和を願うとはどういう事なのかを考え直す拠り所として憲法を見直す事は良い事ではないかと思います。ただし、その見直しが改悪にならにようにくれぐれも広く世界的にも恥じる事の無いような憲法をつくりたいものですね。

2006/04/01

携帯電話の罪?

最近、子供達をみていると不思議な光景に頭が???となる事が多い。それは友人同士隣り合って座っても互いに携帯をカチャカチャ・・車で迎えにいって後ろに3人くらい乗っけていてもお互いに携帯でカチャカチャ・・・これは一体何なんだろう?と考えた。

最初は「これも時代の流れなんだろうな~」と理解した。そしてこれが新しいコミュニケーションの方法なんだろうなと理解もした。私自身は携帯電話でさえも持ち歩きに抵抗を感じる人間である。何故嫌かというと自分が置かれている状況に関係なく呼び出されるからである。だから、良く電源を切ってしまう。そうすると会社のスタッフや家族から携帯電話をもっている意味がない!と叱られる。そりゃそうだ。だから打ち合わせをしている時や建物の中や施設に入っているときにはマナーモードという事にしている。

今朝、テレビを見ていたら電車の中で時間が出来たときにとる行動は?との問いに一番多かったのが携帯でメールをする。というものだった。ふ~んやはりそうなんだと納得してしまった。

つまり、現代人の人とのコミュニケーション方法は携帯電話が出来たお陰で場所という距離感を飛び越えてしまったと言う事なんでしょうね。だから傍にいる人間との会話にこだわらずに違う場所にいる人とコミュニケーションをとるという事に違和感を持たなくなったと言う事でしょう。だから、隣に座っているのに会話が成立しない。話術というものが必要なくなってしまったんでしょうね。メールで会話するには話術は必要なく顔文字とか感嘆詞とかそういうものの盛り込み方によってそれに代わる方法を見出している。という事かな?

私は誰か知り合いが隣にいたら「何か話題を探して話をしなくちゃ!」という脅迫観念に近い感情をいつも持ってしまいます。それが正常かどうかは分りませんが少なくてもそういう感情はいつも持っています。でも現代は必ずしも傍にだれも居なくても誰かと繋がっているという事なんですね。だから時間と場所に関係なく誰かと繋がっているために「命に次に大事なものは?」と聞かれると「携帯電話」となってしまうのだろうな・・・

一度、携帯を捨てたらどうなるんだろう?もともと無かったんだから別に死にはしないし・・困ることは困るだろうけど・・それもどうしてもという事ではないような気もするけど・・携帯電話は便利だけど一度電磁場とかが乱れるときっとパニックになってしまうのだろうな。

文明って何だろう・・生活が便利になればナルホド昔に返りたがる感情が芽生えるのは何故なんでしょう・・薪割りもそうだし、森の中で火をおこしてコーヒーなんか飲んだら最高に幸せなんだけどな・・・不思議ですね。

2006/03/21

やさしさ回帰

最近、色々な環境保護や公害問題とかシックハウス症候群の話を聞く機会が多くて色々な人の話が耳に入ってくる。先日も面白い方の話を聞いた。その方はメデイア関係の方だったんだけど「世の中どんなに技術が進歩しても人間様が生まれるには10月10日かかるんですよ。それが自然の摂理なんです。これは誰も変えられないんですよ。」と言われたのを聞いてナルホド、そりゃそうだなと思いました。

自然の摂理・・・人として生きていく上で最低限必要な「思いやり」や「やさしさ」といった当たり前の事が今、当たり前じゃなくなったからおかしくなった?そんな気がする。食事を食べる時に「いただきます」食べ終わったら「ごちそうさま」こんな当たり前の会話・・皆さんしています?食べ終わった食器片付けますか?最近、「木」にまつわる会合が多くて色んなところで人生の先輩といった方達と同室でよくごろ寝の宿泊をする機会があるのですがこのオジサン達、必ず自分の布団は自分で畳む・・・オジサンである。食事の時は「いただきます」と「ごちそうさん」そして食べ終わったらいそいそとオジサン同士、食器の片付けを始め、中には当然のように食器洗いまでしてしまう。皆さん会合が終わって帰れば立派な会社の社長さん達ばかりである。でも会合ではオジサン同士なのである。時には議論白熱して緊迫した場面になる時もあるがそれはそれで布団は自分で畳む・・・

私の好きな倉本氏の富良野塾での生活を書いた本を読んでいると倉本氏が塾生に求めるのは演劇やシナリオライターとしてのテクニックではなくその前に人としてどう生きるかというテーマである。そしてそれをどう人前で表現できるかという事である。塾生は自分の食べ物は自分で調達するのが原則なので近くの農家に出稼ぎに行く。必然的に演劇を学ぶのは夜間になる。倉本氏の講義は無料。但し、昼間の疲れで居眠りなんかしたら一括されて追い出される。いつも真剣勝負である。人が人として生きていく上で何に感謝して何に感動させられるのか・・それをいつも塾生に問いかけているのです。だからいつも倉本作品には感動が溢れている。その本の中のエピソードを一つ・・ある日塾生の入塾パーテイーで盛り上がり塾生が即興劇をお客様の前で披露し始めた・・・とたんに倉本氏の表情が一変しお客様に向かって「今日は有難うございました。申し訳ありませんが今日はこれでお帰り下さい」と言い。客が帰った後、塾生は呼び集められて「君達はプロを目指した入塾した以上、恥ずかしい劇を見せてはいけない!」と一括したという話がある。言われてみれば当たり前の事ではあるがこんな事、いつも心に本当に思っていないと出てこない言葉である。何に感謝し何に価値を見出して暮らしているかが問われるエピソードである。

もう一度自分に振り返って自分はやさしさを持って暮らしているだろうかと思ってしまう。やさしさとは何でしょうね・・・凡人にはなかなか分りません。

2006/02/23

ゲーテ曰く

国土緑化推進機構が主催するグリーンボランテイア研修という通信講座を受講してみた。テキストが送られてきてそれに関するレポートを提出する仕組みになっているのだが、その教材の中に「森への憧憬」という本がありその中に興味深い文章を見つけた。

ドイツの著名な思想家ゲーテは林業家との交流が深く、その事がドイツの古典林業家に多くの影響を与えたそうである。そしてゲーテの残した言葉に「自然は常に正しく、過失や誤りをやるのは人間である」(関 泰祐訳編「人生についてーゲーテの言葉ー」より)というのが載っていた。いかにも!と思いましたね。そもそもこのグリーンボランテイア研修の目的の一つは二酸化炭素削減を目指したものなんですがズバリ、ゲーテの残した言葉どおりかも知れませんね。

見られた方も多いと思いますが、先日NHKで「地球未来環境」の特集番組を放映していましたが日本の研究者がコンピューターを駆使して100年後の地球をシュミレートした映像を紹介していました。数値ははっきりとは覚えていませんが、このままの経済成長を人間が続けると100年後の地球の平均気温は4度程度上昇することになるそうです。それも今後、CO2の削減が順調に進んだと仮定しての話だそうです。そうなると日本の四季は現在とは全く変わってしまい米の産地は西日本から東日本に移ってしまい北海道が主な産地になるそうです。海水面の上昇も大きく海抜の低い地域の水没は免れないようです。

これだけのデータが公表されておりしかもこの予想を裏付けるように世界では大きな災害が起こっています。しかし、尚世界はその経済成長を止めようとはしていません。世界地球温暖化防止会議でもアメリカは早々に京都議定書からの離脱を宣言し、これから経済成長を迎えようとしている中国を始めとした国々は大国のエゴだといってCO2削減には消極的な姿勢をとっています。結局、会議では結論が出ずに会議そのものを継続する事を確認するだけに留まりました。

このまま人類が何もせずに経済成長を続けるならば間違いなく地球は人類を排除する方向に動いて行くようになると思います。人間さえいなければCO2は削減出来るのですから・・・そう考えると恐ろしいですね~決して他人事ではありません。現実には既にその兆候が現れ始めているのですから。では、我々は何をすべきでしょうか?負の遺産を未来の子供達に残さない為に我々に出来る事があるはずです。身近な事から始めましょうそして環境に興味を持って行動する事を始めましょう。

何だか今回はすごくまじめな事を言ってしまったような気がするけど振り返ってみてじゃあ自分は何が出来るのか考えなくちゃね。

2006/02/07

マスメデイア

最近、テレビを見ているどうもメデイアの行き過ぎた報道姿勢を感じる。アメリカ社会ではメデイアをいかに操作するかが政治の重要なファクターになっているらしいが日本も何だかそんな気がしてくる。最近では「建築構造設計偽造問題」「ライブドアによる粉飾決算」「BSE問題」「東横インの違法改造事件」等、何だかメデイアにはもってこいの視聴率の稼げる問題が目白押しである。そんな中で気になるのは報道陣の当事者に対する質問の仕方である。いつも報道関係者側は「善」で報道される側は「悪」といった勧善懲悪の構図が鼻についてしょうがない。悪い事をした者はメデアの前では兎に角ひたすら涙を流し謝罪しなければ許されないといった姿勢を感じてしまう。果たして報道する側にそんな権利があるのだろうか?

社会的に許されない事をした事は確かに悪い。しかしそれを国民の見ているマスメデアを通じて断罪させる権利があるのだろうか?私はメデイアは事実を淡々と伝えるのが義務だと思う。かつてのオーム真理教による松本サリン事件における冤罪すれすれの報道姿勢の反省は無いのだろうか?確かにメデイアは大きな力を持っている。しかしそれを報道の権利として振りかざし、まるで警察の尋問と思えるような詰問を逃げ場の無い人間に浴びせかけ、それが報道の正義だと言うのならちょっと違うのではないだろうか。

見方を変えればメデイアの前でだけ本心を隠して社会通念的に正しい姿勢を貫き通せば社会的な制裁を免れるような事になりはしないだろうか。その一端をメデイアが担いでしまっている事になっていないだろうか。事件報道の前にあれだけ自信たっぷりだった被疑者が報道されたことによる影響に気が付いてまるで人が変わったように涙の記者会見をする姿を見ているとメデイアの求めていたのはこの謝罪する姿だったのだろうかと思う。もしそうならばメデイアの果たす役割とは何だろうと疑問に思わざる得ない。メデイアの果たす役割とは謝罪する姿を見せることではなく何が真実だったかという事ではないだろうか?昨今の報道番組をみているとどうも悪者探しと司法に代わってまるで遠山の金さんのお裁きをみているような気がするのは私だけだろうか・・・

マスメデアを敵にしては社会的に生きていけない。そんな風潮がないだろうか?そんな気配にすごく危険を感じる。メデイアを否定するきはさらさらない。時には弱者が社会的強者に立ち向かう強力なバックアップになれる。そういう意味では重要な力である。しかし、その力を間違って使ってはならない。それくらいメデイアの影響力は計り知れない程大きいと私は思う。間違った方向にいかないようにメデイアを見ている我々も自身の感性を磨いて何が真実なのかを判断しなければならないと思う。

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八ヶ岳でのログハウス生活 ---木の家設計施工 森のすまい工房(有限会社アシスト

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