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2012年7月

2012/07/28

「甲府でもやるじゃん」原発反対デモ参加顛末記

IMAG0115毎週金曜日の夜、官邸を取り巻く市民による原発反対運動ですが昨日、山梨でも「甲府でもやるじゃん」という原発反対運動が始まり参加してきました。

 私は正直、このような反対デモに参加した事がありませんでした。特に参加そのものに否定的だった訳ではなく都合がつかなかったり体調が悪かったりしただけの事ですが今回は思い切って都合をつけて参加する事にしました。

 地元の駅前駐車場に車を置いて電車で甲府駅に行き外に出ると既に多くの人達が駅前に集まっていました。見廻すと知り合いの方達も何人か参加しておられて挨拶をしている内に何となくスタッフに引きずり込まれてしまい(笑)いつの間にかデモ行進の最後尾の誘導員になってしまい、幟を2本と誘導棒を持って最後尾から「原発はんた~い!」と声を上げながらついて行きました。

 地元の大学生から「卒業論文で原発反対運動を取り上げているんですが、ちょっとお話を聞かせて貰えますか?」とアンケートの様なものに協力したり、新聞社の方に「あなたの事知ってます」と言われて何で知ってんの?と思ったりしながら歩いて行きました。

 我々の世代は学生運動がちょうど収束を迎えた頃で大学に行くとちょっとだけその名残があったりした程度で実際に学生運動に参加して活動した事は私は無いので実際の当時の雰囲気は報道でしか知りませんが今回の原発反対運動のデモに関してはとても平和的で市民的な行動だと感じました。

 途中、私に「あの~自転車を押しながらでも参加しても良いですか?」とOLさんと思われる2人連れが話かけて来ました。「どうぞどうぞお入り下さい」と私の前に入ったのですが、どうやら新聞社の方達の目に止まったらしく数社の新聞社の方にインタビューされてちょっと気の毒でした。

 子供連れで参加しているお母さん達は「ちゅかれた~」という子供達にお菓子を与えたり脱水にならない様に水分を補給させたりしていて、それを見ていると本当に参加されている母親達は子供達の未来を案じていると強く感じました。

 途中、東京電力の甲府支店の前でシュプレヒコールを上げて数人の方が個人的にメッセージを読み上げましたがその中の一人のお母さんのメッセージが心に響きました。「私の主人は東北電力の社員です。震災後も現地に留まり必死で仕事に取り組んでいます。私は主人と別れて暮らしています。電力会社の人には本当に今迄、有難うと言いたいです。でも原発はもう厭です。」というような事を仰っておられました。どうやら子供さんの為に離れて暮らしておられるようでした。

 この毎週金曜日に各地で行われている原発反対運動については賛否両論、色々な意見があると思います。私自身も今迄色々な事情があったにせよ参加してこなかったのには何か心の中に迷いがあったのではないかと思います。

 今回は私は自分の為に参加しました。何か自分の中で行動や形で意見を表明しないと後悔する気がしたからです。元々、原発には反対でした。原子力そのものにも人間が越えてはいけない領域を感じていたからです。

 しかし、何も行動せずに今迄、暮らしてきたと言う事は賛成していたと言われても仕方ない事です。確かに、もしかしたら人間の知恵は自分が思っている以上に素晴らしくて原子力の平和利用も本当は可能なのかも知れないと心の隅には思っていたかも知れません。

 でも昨年の3月11日以降、やはり自分の考えは間違っていたと思い知らされました。間違っていたと知ってしまった以上、やはり自分で出来る事をする責任があると痛感しました。もともとノンビリした性格なので余りこういう活動は得意ではないのですがやはり行動しなければならないと思いました。

 この活動に批判的な方やメデアの論調は「扇動されている」とか「売名行為」だとか「どうせ変わらない」「電力がなくては暮らしていけないのが分っていない」といったものが多い様な気がします。私はそれを否定するつもりはありません。でももし、現状を変えたいのなら今、何も声を上げなければ間違いなく原発再稼働は止まらないし、ましてや原発の廃炉や自然エネルギーへの転換は進まないでしょう。

 今迄は「政府が何とかしてくれる」「どうせ何も変わらない」「誰かが何とかしてくれる」と思っていた人は多いと思います。でも昨年の3月11日以降、日本は変わり始めました。「このままじゃいけない」「政府は我々の代弁者じゃなかった」「最先端技術が想定出来ない事故が起こる事が実際にあって誰もそれを止められない」そんな思いの人達がこのデモに参加しているのだと思います。もしくは、たとえ参加する人達の思いはそれぞれ違っても目標は一つ、原子力発電所の廃止です。私は今後も自分で出来る行動をしていくつもりです。

2012/07/21

デジタル化と猿

私は自分が読んだ本の履歴をパソコンの中に残しています。そのシリアルナンバーが先日700番を越えました。じつはもっと多いのだけど一度、パソコンのHDを駄目にしてしまい記録がすっ飛んでいってしまいその前のデータがすっかり分らなくなってしまいました。

 サラリーマンの頃は通勤時間が片道2時間半近く掛かっていたのでもっと多くの本が読めていたのできっと今の倍以上の本を読んでいたと思います。八ヶ岳に移住してきてからは逆に本を読む時間が取れなくなってしまい大体、寝る時に数十分位読むだけになってしまいました。だから、1冊を読むのに凄く時間が掛かってしまっています。

 それでも出張に行く時や高知への帰省の時の移動時には欠かせないアイテムになっています。

 その本が最近デジタル化されてネットで配信されるようになり読書のシーンも大きく変わろうとしています。そうなってしまうと新刊本の印刷の匂いだとか装丁の手触りだとか挿絵の楽しみとかはどうなってしまうのでしょうかね?

 一度、デジタル本にもトライしてみたのですが途中で何となく面白くなくなってしまい挫折してしまいました。きっと慣れればどうって事無いのかも知れませんがどうもページをめくる楽しみとか残りのページの厚みが減っていく寂しさ(笑)とかはデジタル本ではなかなか味わえないのだろうなと思います。

 確かに端末が1台あれば何でも読めるので便利だし重くて嵩張る本を持ち歩かなくて良いのでそれは便利だろうと思いますけどね。

 それから本と同じくミュージックシーンでもデジタル化が進み、昔みたいにレコード店(今、そんな言い方しないか(笑))に行かなくてもネットで楽曲が買えるしアルバムの中の好きな曲だけをダウンロード出来たりするのでとても気安くアーテストの曲を手に入れる事が出来る様になりそれは私にとってはとても便利な事になっています。

 私の森の中の棲家にもとうとう先日、光ケーブルが引かれてとても通信速度が上がってそれはそれでとても便利になりました。こんな自然一杯の中の不便なところに住んでいると居ながらにしてショッピングが出来たり情報が読めたりメールが瞬時にやり取り出来たりするのは本当に有難いことです。

 誰のお陰でこんなに便利になったのか知りませんがデジタル化の波は我々、中年連中にも確実に押し寄せてきています。木の関係の知人にも昨年までキーボードを打つことさえ出来なかった方がパッドを持ち歩きfacebookを閲覧し、写真を撮って掲載するなんて事が出来ちゃう世の中になってきたのですからその進化たるや凄いですね。

 私も決してこの手のものは得意ではないのでいつも最後にヨタヨタと世の中の流れに取り残されないようについて行くのが精一杯でとてもそのスピードについていけない状態です。

 仕事上でもCAD化の波にはすっかり取り残されて未だに手書きのスケッチしか描けないという情けない状態です。

 もう直ぐロンドンオリンピックが始まりますがスポーツの世界でもデジタル化の波はどんどん進んでおり競技選手のフォームのチェックや訓練プログラムの作成、メデイカルチェック、それに審判の判定にもデジタル映像によるチェックが正式に認められる競技が段々増えてきました。

 これも時代の流れなんでしょうね。デジタル機器によるこれらスポーツ全般に渡るサポートはその技術レベルを上げ判定を正確にするのに多大な貢献をしています。なんて書くと何だかレポートを書いているみたいになりますがつまりは今迄アナログでやってきた事をデジタル化することでより正確に効果を上げられると言う事ですが裏をかえすと、だから人間は間違える動物であると言う事です。

 もっと言うと間違えるから人間なのです。ある著名な哲学者が言いました「自然は決して間違えない、間違えるのはいつも人間である。」そう人間は過ちを犯すのです。でも人間は反省も出来ます。私なんか自慢じゃないけど失敗→反省→失敗→反省の繰り返しの反省人生です(笑)

 「自然は決して間違えない」だけど時として自然は残酷で容赦のない厳しさを人間に与える事もあります。その時、何故そうなったのか人間は過ちを反省して繰り返さないようにしなければなりませんね。反省だけなら猿でも出来る・・お後が宜しいようで・・・・

2012/07/16

我が故郷高知に想う

 母の介護の為に高知に帰っていましたが漸く八ヶ岳に戻って来ています。母には申し訳ないけど「又、何かあったら駆けつけるからね」と言い聞かせて戻ってきました。

 高知はもう直ぐ夏祭りを迎えます。知る人ぞ知る「よさこい祭り」。最近は派手なパフォーマンスダンスで有名な「よさこい鳴子踊り」が祭りのメーンイベントですが私が高知に居る間も高知のメイン通りとなる「はりまや橋商店街」では踊りの練習が夜遅くまで行われていました。

 私も学生時分に2度程踊った事がありますが当時は今ほど派手なパフォーマンスはなく正調の「男踊り」と「女踊り」があってその踊りの正確さとパフォーマンスの良さで審査員から踊っている最中に首にメダルを掛けて貰っていました。この「よさこい踊り」は高知の町中を練り歩くのですがその中に審査員のいる審査会場が含まれていて、その会場の中を通る時に審査員が踊り子達を評価して個人の賞と団体の賞を決めるのです。

 「よさこい祭り」はこの「よさこい鳴子踊り」と花火大会がメインですが市内を流れる河原に打ち上げられる花火を見ながら屋台を見て廻るのが高知の暑い夏の風物詩でした。

 最後に「よさこい祭り」を見たのはいつ頃になるだろう?多分、学生の頃だから30年以上も前の事になると思います。あれから長い月日がたって高知の中心部となるはりまや橋付近のアーケード街もすっかり雰囲気が変わってしまってしまいました。

 私達が「とでんデパート」と呼んでいた「はりまや橋」の直ぐ近くにあった高知の商店街の核となるデパートは既になくなって取り壊されてしまい。今は大手資本によるパチンコ屋さんに変わってしまいました。「とでん」といっても「都営電鉄」の略ではなく「土佐電鉄」の略ですので誤解のなきよう(笑)

 アーケード街の店の様子もすっかり変わってしまい私が学生時代に毎年アルバイトをしていたカバン屋さんも店を閉めてしまい今は新しいファッション関係の店に変貌していました。当時、お世話になった店長さんからも「定年退職致しました」という年賀状を頂いてはいたのですが実際に自分の目で懐かしい店の変貌をみると感慨深いものがありました。確か女優の広末涼子の実家の店もアーケード街の中にあったと記憶しています。

 それでも当時と変わらないものもあります。それは路面電車です。それこそ「とでん」なのですがそのチンチン電車の「行先表示」に「御免(ごめん)」と「伊野(いの)」というのがあり「ゴメンね」「イ~ノ」と引掛けて一時期、県外で珍しがられた時もありました。

 このチンチン電車は世界各地の路面電車のボデイを借りてきて造ったものと昔ながらのボデイのものがあり、更に最近はアンパンマン号も走っていて子供達の人気者になっています。今はJR高知駅にも直結して昔からの便利な市民の足として今も昔も変わりなく走り続けています。

 それから最近、気になったのは高知は川があちこちに流れているのですが高知駅前の小川には何故か大きな鯉が放流されていて、いたるところで群れをなして泳いでいます。誰が何の目的で放流しているのかは知りませんがかなりの数が泳いでいます。

 高知駅前には高知橋という橋が掛かっていて高知駅からはりまや橋に向かうと通る橋になっていますがこの下を流れるのが江ノ口川です。この川はお世辞にも綺麗な川ではなく私の子供の頃からドブ側でした。

 今でも相変わらず汚いのですが昔よりは幾分綺麗になったようです。そんな事もこの鯉の放流に影響しているのかも知れませんね。

 高知の陸の玄関、高知駅は昔とはすっかり変わって珍しい木造の高架駅になっています。まだ、完成してそれ程経ってなくてこれから駅前開発が進んでいくのだと思います。

それから変わっていないのが土佐の高知の心意気です。昔から比べると静かになったとはいえ相変わらず高知県民は酒が好きで酒が入ると天下国家を論じて大声で怒鳴り合いながら賑やかに飲み交わします。この光景だけは昔も今も変わらないようで県外の方が始めて高知県民と飲み会の席に同席したらきっとビックリすると思います。

 流石に昔の映画の1シーンの様に「なめたらいかんぜよ!」なんてタンカを切る事は少なくなりましたが、全く男も女も煩くてろくに横の人の声も聞こえない程になります。良いか悪いかは別としてこれだけは変わらないですね(笑)

 我が故郷高知、これからどんな風に変わっていくのかは分りませんが何時までも平和な町でいられる事を祈っています。

2012/07/05

現代外科病棟の人間模様

 田舎の母が先日、お世話になっている施設で転倒してしまい足と手を骨折して市内の病院に搬送されてしまいました。

 朝、食事に下りてこないので不審に思ったスタッフの方が部屋に見に行ってくれたらベッドに腰掛けてボー然としている母を見つけてくれたそうです。

 直ぐに救急病院に運んで頂いて手術する事になりました。何せ一人暮らしでお互い離れて暮らしているので急に何かあっても駆けつける事が出来ないので事情を説明してオペを担当してくれる先生と電話でやりとりが始まりました。「それでは現在の状態から説明します。レントゲン写真の結果は・・・・と延々と丁寧に状況を説明してくれて手術に関わるリスクと効果を分り易く説明してくれました。

 その後、緊急を要するとの判断で電話で手術への同意と輸血への同意を先生と第3者ということで看護師の方に同意する旨を伝えて取り敢えず緊急の対応をすませて直ぐに田舎に帰るべく色んなところへの仕事の手配と交通手段の段取りと様々な事をすまして翌日、夫婦で病院に駆けつけました。

 病院に着いて母の病室を訪ねるとナースセンターの直ぐ脇の6人部屋との事、大体、ナースセンターの直ぐ近くと言う事はナースさん達が直ぐに気がつく様に何らかの事情がある病人が収容されているケースが多いと聞いているのでハハ~ンと思い病室へ行くと一番奥に母が居ました。

 電話で事前に様子を聞いていたので想像はついていたのですが予想どうりの状態でした。満面の笑顔を振りまきながら「えらい事やったね~大丈夫かえ?」と声を掛けた母の様子は点滴の針を抜いたり怪我をした手首に巻いたギプスを器用に外してしまった前科に看護師さんがあきれ果てて手には手袋をはめて動けなくされた哀れな状態でした。

 笑ってはいけないけど予想どおりの状態なので余計、満面の笑顔を振りまく事になりました。

 しかし、ナースセンター脇の6人部屋はそんな生易しい患者さんの部屋では無かったのです。母の斜め前の患者さん。歳は母より少し若いかと思われるオバちゃん。これが凄いクレーマー患者さん。

 「お姉ちゃん!痛いちゃ~!はよ~来て!いや参った!いと~てかなわん!はよ~来て!」と叫んでいる。最初は事情が分らないので大丈夫かな?と心配したのだけど廻りの患者さんも看護師さんも完全無視の状態なので何か訳があるのだろうなと思ってはいたのですがこれが本当に凄い!

 食事をするのにも、点滴をかえるにも、お尻のオムツを替えるもの全て3人掛かり、何日かして私も慣れてきては居たのですがある日の午後、例によって「おねーちゃん!痛~い!はよ~来て!」「○○さん、どうした?いや?これはどうした事?何で裸になっちゅうが?いや!点滴も外してしもうてどうしたが?」

 「いた~い!はよ~外して!」「○○さん、これを外すとあなたは死ぬかも知れんよ。苦しくなっても良いの?ダメでしょ。ハイ、頑張って戻すよ!」「いや~!私に触るな~!」「いや!何で人の顔を足で蹴るの!いくら何でもそんな事したらダメでしょ!」「バシッ!」「アッ!何で叩くの?オムツを替えてるだけじゃないの!そんな思い切り叩いたら私ら痛いよ!」「ガンッ!バシッ!」「厭っ!○○さん私も病院勤務長いけど、オムツ替えるのに顔を足蹴にされたのは初めて!皆、一生懸命あなたの為に頑張ってるのにそんなことしちゃダメでしょ!」「・・・・」

 なんて会話が一日に何度も繰り返される。しかもこの方、大人しそうな看護師さんとみるとかさに掛かって叫ぶのである「痛~い!」その癖、処置が終わって皆がいなくなると暫くして

 「誰かおらん?いや困った、痛いのに誰もおらんろうか?おねえちゃん?いや困った・・・」と小声でノタマウのだ。

 これを一日、傍で聞いているといくら仕事とはいえ看護師さん達の仕事とは本当に激務だなと感心してしまいます。

 母も昨年も同じ病院に救急車で運ばれてお世話になっているので病院勤務のお医者さんや看護師さんの仕事ぶりには頭が下がります。世間ではとかくメデイアで問題のある病院や医者の事ばかりが報道されていますが実際の外科病棟の一日は本当に命との戦争です。

 母の元にも担当の医師や看護師さん、看護師長さん、栄養士さん、リハビリ担当、ソーシャルワーカーさん等、多くのスタッフが様子を見に来てくれます。認知症で少しスタッフの方には迷惑かけますが母が治るまで宜しくお願い致します。

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八ヶ岳でのログハウス生活 ---木の家設計施工 森のすまい工房(有限会社アシスト

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