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2010年10月

2010/10/23

クマと人間の会話

人間:駄目じゃないか、最近やたら人の住む所に出てきて迷惑かけておまけに人を襲うなんてとんでもない奴だ。

クマ:何言ってんだよ、俺たちだって好きで人間の住むところへ出ていく訳じゃないんだよ。それに俺たちにとって人を狙って「襲う」という感覚はないよ。人でも他の動物でも一緒。

人間:それが物騒だって言うんだよ。マッタク・・・それになんで今年はやたらと出てくるんだよ。やっぱり、あれか?山に餌がないのかよ?

クマ:それだけが原因じゃないよ。全く、人間っていうのは山の事、何も知らないくせにやたらと俺たちの事、理屈をつけては知ったかぶりしたがるよな。

人間:それもこれもお前達が山から出てくるからいけないんだよ。

クマ:あのね、こういっちゃ何だけど山に家建てて移り住んできたのはあんた達だろ。元々は俺たちの行動範囲だった所に人間が入り込んできたんだよ。全く、お前達の方こそ出て行ってくれよ。

人間:クマのくせに偉そうな口きくんじゃないよ!人間の方が偉いんだからお前達の方が遠慮して山の奥の方にひっこんで静かに暮らしてりゃいいんだよ。

クマ:誰がクマより人間の方が偉いなんて決めたんだよ。お前達こそ同じ種族同士でこっからここまでは俺たちの海でお前達は入ってくるななんで決めて揉めてるじゃないか。俺たちとどこが違うんだよ。

人間:お前らクマには分からない複雑な社会制度っちゅうもんがあるんだよ人間にはな。

クマ:クマにだって厳格な生きるための掟があるぜ。それを破っちゃ生きていけねんだよ。

人間:お前、どの地方のクマだよ。なまってるじゃないか。あれか、やっぱりクマにも下町育ちなんてあるのかよ。

クマ:当たり前よ。クマにだって生息する山域によって言葉も違うし暮らしぶりだって違うし、人間と何も変わりゃしねえよ。

人間:全く、口の悪いクマだ。兎に角だ、ここに出てこられりゃ困るの。早く、山に帰れよ。

クマ:山にいて良いことがありゃこんなとこには出てこないよ。大体、人間が採りもしない柿の木やクリの木を一杯植えといて「どうぞお食べ下さい」って言ってるようなもんじゃないか。山の奥まで住んで残飯を家の外に置いときゃそりゃ俺たちだって御馳走を皿に盛って置いてあるようなもんだからつい、釣られて出てくるわさ。

人間:仕方ないだろ。昔の人達は食べるものがなかったから実のなる木を沢山植えたんだけど植えた人ももう居なくなって食べるものにも困らなくなってから誰も実を採らなくなったんだよ。何もお前達にやる為に置いてある訳じゃないよ。

クマ:そんな人間の訳のわからない理由なんて俺たちクマには関係な~いね。俺たちは餌があれば食う。邪魔する奴は追い払う。それだけ。

人間:何て馬鹿なクマなんだろな。だから撃たれちゃうんだよ。出てこなきゃ撃たれる事もないのに。人間に迷惑をかけるような事するから撃たれるんだよ。

クマ:人間は飛び道具を使い、俺たちゃ爪が武器と昔から決まってる。だけどな、昔は人間も俺たちクマも食うか食われるかの真剣勝負をしたもんだぜ。それこそ命をかけた勝負だったぜ。どっちが勝っても恨みっこなしだ。お互いにそれだけ腹を据えて戦ったもんだ。

人間:お~やだやだ。なんて野蛮な・・・もうそんな時代じゃないんだよ。第一、もうそんな昔のマタギみたいな生活を送っている人なんていないよ。文明は進歩するんだよ。もうそんな野蛮な真剣勝負なんて時代遅れなの。

クマ:人間ってのは勝手な生き物だよな。昔は俺たちの仲間を殺して「熊の胆」なんて言ってえらい高い値で俺たちの内臓を喜んで食ってた癖に、今はもう用が無いってか・・ヘン!そのうち罰があたるぜ!

人間:罰があたるのはそっちだ。人間様に危害なんて加えるから罰が当たって撃たれたりするんだよ。撃たれたくなけりゃ早く山の奥に帰った帰った。

クマ:全く、帰れ帰れと煩いやっちゃ。そんなに俺たちが邪魔なら自分たちが都会に帰ったらどうだよ。山奥まで進出せずに大人しく都会に纏まってマンションとかいう建物で人間達でまとまって住んでりゃいいじゃん。そうすりゃ俺たちと出会う事もないだろさ。

人間:何で俺たちがお前達に気使って遠慮しなくちゃならないんだよ。お前らこそ山の天辺で固まって大人しくしてろ。

クマ:残念でした。俺たちには人間みたいなややこしい決まりごとはないの。自分たちが住みたいところで住むし、食べたいものを食べるし、行きたいところへ行くの。

人間:あ~もう、メンドクサイ奴。早く帰れったら帰れ。

クマ:お前らこそ帰れ。

2010/10/18

時計

 先日、遅い夏休みをとって久しぶりに女房と二人で海の傍で海風に吹かれてきました。女房と特に用事がなくて旅行するのは新婚旅行以来で本当にウン十年ぶりの旅行になりました。

 夏休みが何時取れるか分からなかったのでギリギリの日程になった為に朝早い飛行機の便しか取れずに夜明け前に羽田に向かうバスに乗らなくてはならず慌てて出発したのですが運悪く私の腕時計が狂ってしまいました。

 私の腕時計は電波式ソーラー時計になっていて普段、長い時間使わないと、時間表示が消えてしまいます。オマケにタイミングが悪いと標準時間の設定が狂ってしまい、そうすると1月1日の0時になってしまいます。その時も丁度、そういう事になってしまい、そうなると嵌めていても意味がないので「マア、いいか。久しぶりの夏休みだから時間は忘れてしまおう」と思い腕時計を外してしまいました。

 それでも飛行機や乗り継ぎの時間があるので最低限は時間を知る必要があるのですが、それは携帯電話の時間表示をみれば事が足りるので、何とかなるだろうと思って出発しました。

 さて、身近に時計というものが無くなって時間を忘れる事に決めると人間、どうなるでしょう?試してみました。先ず、どっかに時計がないかと探し始めました。バスの中にいるときは運転席の上に時計が表示されるので問題ありませんでした。というか、やっぱり時計を気にしていました。

 空港に着くとこんどは出発ロビーのどこかに時計がないかやっぱり目で追っています。これが以外と無いものですね。それでも飛行機に間に合わないといけないので携帯電話の時間表示を見たりしてやはり時間表示は必要でした。

 飛行機に乗って現地につくと今度はレンタカーとかの約束があってやはり時間が気になります。その後、現地に着いてしまえば今度はその日のスケジュールが気になって行きたいところの見学時間が気になったり、やっぱり時間表示が必要でした。

 その後、その日の宿に着いてからは特に必要はなかったのですが食事に行くのにそこの営業時間が気になったりして結局、その日一日、腕時計を外してみたものの結局時間表示から逃れる事は出来ませんでした。

 次の日からは特に決められた日程はないので自分たちのペースで自由に動けばよいのですが、それでも朝食の時間に遅れないように行かなくてはならず結局、部屋の時計を気にして宿の食堂に食べに行き。それからその日の予定の場所に移動する事になりました。

 それからは余り、時計を見る必要は無かったのですがその日、行った先で開催される様々なイベントの時間を気にして会場の時計を探してみたりとやはり時間から開放される事はありませんでした。

 こうしてみると仕事から解放されて折角、時間を忘れるチャンスなのに結局、時間の束縛から離れる事は出来ないものですね。というか、その気になれば離れる事は可能だと思いますがその為には一切のスケジュールというものから開放されないとダメですね。

 「今日中にあれをしなくちゃならない」とか「これに乗らないといけない」なんて事を考えているとダメですね。先日のチリの炭鉱事故で地下に閉じ込められた人達はどんな思いで時間が経過するのを待った事でしょう。時間というのは気にすれば気にするほど経過が遅く感じたり、余り時間を気にしないで過ごしていると一日が短かったりしますよね。

 私なんかとにかくボ~としているのが一番幸せなので(今はやむ終えずボ~としてられませんが(笑))時計がなくても本当は全然大丈夫と思っていたのですが日常、色々なものと関わって過ごしていると意外と時間の制約を受けてしまうから時計は必需品になってしまいますね。

 そういえば私の車にも時計が付いていますが何故かいつも少しずつ遅れていきます。なのでいつも大体、5,6分遅れています。でも遅れているのを知っているので別に困りません。

 日本人は几帳面な性格なので列車の運行とかも1分も狂わないで運行するのが当たり前ですが例えば5分おきに列車がくるなら別に遅れても問題無い様にも思います。

 そう言えばここ八ケ岳の南麓に引っ越してきて仕事を始めてみると地元の業者さん達が打ち合わせの時間とかに平気で遅れてきたり、約束の日を忘れたりする事が多く、初めはイライラしましたが段々、慣れてくると「そのうち来るだろ・・・」何て思えるようになってきてこれってよい事でしょうか?悪い事でしょうか?

2010/10/09

ありがとう

P1010009

知り合いが小さな写真集を作ってくれました。タイトルは「ありがとう」。内容は仕事の関係で最近、完成して引渡しが終わったばかりの住宅のオーナーさんと家の内・外部や周辺の様子を撮影した34ページ程の小さな写真集。その写真が掲載されたページの片隅に一言だけ「ありがとう」と小さく書かれている。他に、写真の説明も何もない只、「ありがとう」という言葉だけが刻まれています。それがとても良くてすごく気に入っています。

 知らない人が見たら何で「ありがとう」なの?と思ってしまうほど小さな「ありがとう」その意味は??それはその写真集を見た人がそれぞれ感じて貰えればよいと思う。

 その家の建築にあたってはお施主さんと親しく色々、話をさせて貰ってとても楽しい仕事をさせて頂いた。そういう意味でも「ありがとう」。とても自然を大切に考えてくれて敷地に立っていた木を出来るだけ使わせて貰った。そういう意味でも「ありがとう」。施主の方に色々な夢を語って頂いて色んな事に挑戦させて頂いた。そういう意味でも「ありがとう」。自分たちが知らない事を沢山、教えて頂いた。そういう意味でも「ありがとう」。

 この写真集を作ってくれた知り合いはこの家の台所の流しを造ってくれた会社の社長さん。わざわざ大阪から東京に仕事で来た帰りに寄ってくれて写真集の素材となる写真を一杯撮っていってくれて素晴らしい写真集を造ってくれた。だから「ありがとう」。

 誰しも生きていれば楽しいことも辛い事もあるけど一人じゃないって思えることはとても幸せなこと。僕はそういう意味ではとても多くの人に支えて貰っている。というか一人では何も出来ない。だけど廻りで支えてくれる人達がいるから何とかやっていけている。だから支えてくれる皆に「ありがとう」。

 以前、仕事が上手くいかなくて自宅でふてくされていると女房から「何があっても、(ありがとう)って言ってると上手くいくんだよ」と言われ「バカ、言ってんじゃないよ。何でも(ありがとう)って言っていれば上手くいくんなら幾らでも言ってやるよ」なんて夫婦喧嘩していたのですが、まあそりゃそうですよね。喧嘩している相手に「喧嘩してくれてありがとう」何て言えば余計怒りますよね(笑)まあ、別に喧嘩している相手に「ありがとう」なんて言う必要はないのですが、確かに「ありがとう」という言葉の響きは人を幸せにする優しい響きを持っています。

 色んな事に「ありがとう」と思える穏やかな心の状態を保てることはストレスの多い現代では大変難しい事かも知れませんね。どうしても相手を負かしてやろうとか怒ってやろうとか思っていると「ありがとう」という言葉は素直に出てきません。心から「ありがとう」と言える事はとても穏やかな心理状態を保っていないと言えるもんじゃありません。

 だけど例え少し不満を持ちながらでも「ありがとう」と言っていると何だか本当に「ありがとう」になってくるような気がするのでしょうね。言葉が先に出て心が後から付いてくるといったところでしょうか?私にはその辺りの微妙な心理分析については良く分かりません。だから夫婦喧嘩になるのですが(笑)・・・・

 しかし言葉の力というものは凄いものです。最近はどうも携帯の普及に伴って言葉での意思疎通というものが足りなくなっている様な気がします。だけど文字にして伝えるというのは時として表現がきつくなる事があります。文字として残ってしまうというのも必ずしも良いことばかりでは無いような気がします。

 お互いの顔を見て話して、話した後は聞いた人の記憶の中でだけで存在する事の方が幸せって事もありますよね。その言葉を忘れないように心の中で噛み締めるっていう技術も大切な様な気がします。

 ストレートに文字を投げつけるのではなく同じ事を伝えるにも笑いながら伝えるか、怒りながら伝えるか、無表情で伝えるか、関西弁でつたえるか、標準語で伝えるか・・・それで受け止める側の受け止め方が変わるから不思議です。

 「ありがとう」を真っ直ぐ相手を見て伝えるか、うつむきながらボソッと伝えるか、抱きついて伝えるか、それによって「ありがとう」の伝わり方も変わる。

 この写真集の「ありがとう」はどちらかというと聞こえるか聞こえないか位のか細い声でそっと呟いている。この森の囁きを読んでくれてる貴方にも小さな声で「あ・り・が・と・う」

2010/10/05

森の中で眠れる?

 以前、東京でサラリーマンをしていた頃は非常に寝つきが悪い方でした。うっかりすると明け方まで寝付かれずにウトウトしてた、何てことがしょっちゅうありました。

 当時の私の上司はひどい睡眠障害を持っていて、いつも会社でうたた寝をしており、病気の事を知らなかったので「この人はどうしていつも会社で寝てるのだろう」と思っていました。

 或る日、その上司と海外出張に行くことになりその時に病気の事を知らされほぼ毎日、明け方まで眠れず本を読んでいると言っておられました。

 東京でのサラリーマン生活に区切りをつけて森の生活に移ってからは滅多に眠れないなんて事は無くなりましたが、一番嬉しかったのはこちらの仕事が当初、もろに肉体労働だったので兎に角、一日の仕事が終わるとヘトヘトに疲れていて毎晩、飯食ってビール飲んで風呂入って、疲れて寝る、というこの当たり前の日常が嬉しくて朝まで泥の様に眠っていました。

 その時に人間にとって幸せって何だろう?何て事を考えましたね。都会で働いていた頃は昼の仕事が終わっても接待とかで深夜まで飲み歩き、次の日になってからタクシーで帰宅なんて生活をしていたので「さあ、仕事終わり。急いで寝ましょう」何て言われても(誰も言わないけど)そう簡単に眠れませんでした。所謂、頭が冴えて眠れないという状態でしたね。

 それがこちらに来てからはマア、眠れる、眠れる(笑)風呂入ったあたりから頭が朦朧とし始めてうっかりすると浴槽のなかで寝てしまい。湯船に頭を突っ込んでビックリして起きるなんて事もしょっちゅうあります。この浴槽の中で寝てしまうという癖は本当に良くなくて、目覚めた時は最悪です。気持ちが悪いの何のって思わず吐いてしまいそうになります。そんな時はやっとの思いで浴槽を這い出て寝室に直行です。

 私は床の上に直にマットレスを引いてその上に敷き布団をしいて掛け布団は羽毛布団を一年中掛けています。冬はその上に毛布を一枚かければ大丈夫です。その代わり夏も掛け布団を掛けとかないと風邪ひきますけどね。

 以前は枕が大嫌いで何処に行っても枕を蹴落として寝ていましたがここ数年は低反発枕というやつにぞっこんでして、これが来てからは必ず枕をして寝ています。ところが何故か朝起きるとひっくり返ってうつ伏せになっていますが・・・・

 以前、書いたように寝る前には必ず本を読む習慣があるのですが意識が朦朧とした状態ではせいぜい文庫本の数行しか読めない夜なんかもしょっちゅうです。そんな時は布団にねっころがった途端に「あっこりゃだめだ寝てしまう」と瞬間的に感じてしまい、そういう時はマットレスに体が沈んで行く感覚に襲われてしまい「ああ・・シアワセ(笑)」てな感じで朝までバタンキューです。昔の睡眠障害は何処行ったという感じです。

 以前は仕事で出張行ってもよく言う枕が変わると眠れない状態でしたが最近は歳をとったせいかどのビジネスホテルに泊まっても平気で眠れる様になりました。しかし、考えてみるとこの疲れて眠れるという環境は本当に人間にとって幸せな事かもしれません。

 特に、昼間、肉体労働で汗だくになって疲れて寝てしまうというのは一番幸せな事ではないでしょうか?サラリーマン時代なんかは特に激務でストレスが溜まるような仕事をしていた訳ではないのに、自分では気がつかない心のストレスが掛かっていたようで変に寝付かれない事が多かったですもんね。

 当時暮らしていたアパートも国道246号線にほぼ面していたようなもので一晩中、車の往来の音や救急車の行きかう音、暴走族のバイクがけたたましい騒音を撒き散らせながら走り回ったり、夫婦喧嘩の音が聞こえてきたり、こうやって書き出しているだけで嫌になってきます。

 そんな、些細な事がストレスになっていたのかも知れません。森の中の我が家で今、一番夜中に煩いのはキツネの鳴き声です。このキツネの鳴き声という奴は「ギャーギャー」とけたたましく煩いのですが何故か暴走族の撒き散らす騒音とは全く違う煩さなのです。生き物が理由があって出している声なのでそう感じるのかもしれません。あとは鹿の鳴き声、これは「キーン、キーン」という警戒音です。これはキツネの鳴き声よりはよっぽど上品で全然、大丈夫です。

 その他には我が家には人工的な音というものが全く入ってきません。ある意味、都会での生活に慣れた人にはとても怖くて(笑)暮らせない環境かもしれませんが、これが慣れてしまうと天国なんですね~。あなたは森の中でぐっすり眠れそうですか?

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八ヶ岳でのログハウス生活 ---木の家設計施工 森のすまい工房(有限会社アシスト

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