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2006年4月

2006/04/24

森つくりの達人講座

Moritukuri 地元で一緒に活動している「NPO法人八ヶ岳南麓景観を考える会」のイベントとして私が担当している「森つくりの達人講座」が開かれました。この講座は2年間を通して森つくりに関わって頂いて、森つくりとはどういうことなのかを身をもって体験して貰おうというカリキュラムになっています。もともとの言いだしっぺなのでかれこれ4年程関わっているのですが色んな方が参加してくれて多くのものを得ています。

私自身は偉そうな事言ってますが木の事は何にも知らないのに耳で聞きかじった耳知識で知ったかぶりしているだけなのですがそこはそれ、私は何も出来なくても毎回、その道の達人の方に講師として参加して頂いて私はそのコーデネイト(こう言うと何だか格好いいけど要はお手伝い・・・)をさせて頂いてます。

 今回の講座は限定20名の予定で参加者を募ったのですが会員を含めて31名の方が参加してくれて盛況のうちに無事修了しました。1日目は「里山の自然と農業」について講師の方に講演して頂いた後、近くの森に入って自然の様子を観察して貰ったり、築130年の地元の古民家で古民家の歴史を聞きながら食事をして貰いました。2日目は実際に森つくりを今後進めていく森に入って作業用の小道を作って貰いました。予定では2時間程かかる作業だったのですが30人もいると作業も早く終わってしまい余った時間で自己紹介をして頂きました。

 自己紹介では何故この講座に参加したのかその動機や八ヶ岳への思いのたけを話して頂いて、それぞれの方の森への思い入れが伝わってきて本当にこの講座をやって良かったと感じました。4年間やってきて様々な意見も出ましたが私はまず兎に角1人でも多くの方が森に実際に入って貰って何らかの作業に参加する事に意義があると思っています。そこから第一歩が始まると思っているのです。色んな方が参加されるのでそれぞれの思いは皆さん様々ですが一緒に森の中で汗を流してみて感じる事が必ずあると信じています。

 毎回、終わるとぐったりでもう辞めようと思うのですが時間がたつと又、やりたくなるのが不思議なんですねエこれが・・・そうはいっても2年間やると宣言したのでとりあえず2年間は休まずスタッフとして役割を果たして行く予定ですので、皆さんこれからも宜しくお願いします。

2006/04/17

日本国憲法

日本国憲法なんていうと、何を言い出すんだろうと思われるかも知れませんが、知り合いが憲法9条を守ろうという運動をしていてちょっとお手伝いをしているもので、お手伝いする以上、もう一度日本国憲法を全文、読み返してみようと思い、先日本屋に行って解説書を購入して出張で移動中のバスの中で読んでみた。

バスの中で読めるくらいだから、全文読んでも大した事はない。確かに古い文体なのでちょっと読み辛いが読めない事はない。意味を理解するかどうかは別ですが・・・日本国憲法は今年で60年を迎える事になりますが一文として変更なく現在まで成立している憲法としては世界でも珍しい憲法らしい。確かに、通常の法令とかではその実情の変化に合わせて年中変更がされているので世界的には珍しいのかもしれない。もっとも、大事な基本的人権を決めた憲法なので余りしょっちゅう変えるものでもないのかも知れませんね。

で、その中の憲法9条には戦争放棄とかについて書かれている訳ですがここでその内容の解釈について述べようという訳ではないし、ボンクラ頭ではとても理解出来ないのでそれは置いておいて何故、憲法が必要なのかという事である。世界中の国でこの憲法に類似したものが同じように制定されているがイギリスのようにそもそも憲法そのものが無い国だってある。無い代わりにそれに代わる判例とか条文が整備されているらしい。つまり憲法が必ず必要なわけではないがそれに代わる取り決めが必要だという事なんでしょうね。その国で暮らす人達がどのような権利や義務の元に暮らしているかという基本的な取り決めをしておかないと問題が起きた時に解決が難しくなると言う事ですね。何を基本に正しいとか正しくないとか判断するのに必要という事でしょうかね?

日本にはもともと「大日本帝国憲法」というものが有った訳ですが第二次世界大戦で敗戦国となった日本を民主化するために新たな憲法を必要としたというのが歴史上のいきさつなのですが、当然、時代によっても変わりゆくものだし逆に変わってはいけない部分も当然あって良いと思います。

日本では最近、悲惨な事件事故が多くて何となく日本国民としてまた、地球に共に住んでいる人としてもう一度、自然を守るとは、平和を願うとはどういう事なのかを考え直す拠り所として憲法を見直す事は良い事ではないかと思います。ただし、その見直しが改悪にならにようにくれぐれも広く世界的にも恥じる事の無いような憲法をつくりたいものですね。

2006/04/08

本の話

 突然ですが私は本を読むのが大好きです。子供の頃はガキ大将だったので本とは無縁の生活を送っており、もっぱら外でイタズラ三昧に忙しい子供でした。ですから何時頃から本を読み始めたかというと社会人になってからなんです。きっかけは東京でサラリーマンをしている時に郊外の安アパートから丸の内のオフィス(何と丸の内に通勤していたのですねえ~自分でも信じられないけど・・)まで2時間程かかり電車の中で時間を持て余してしょうがないので本を読むようになったのがきっかけです。

 文庫本なら1日で読んでしまうようになり、これではとても安サラリーでは本を買ってる余裕がないと思い、次に図書館に通うようになりました。そこで5冊ほどの本を借りて読むようにしてその習慣が今でも続いています。自分のパソコンに読書記録をつけるようになってからでも多分500冊程の記録になっているように思います。

 近年は本離れが進んでいるそうでなかなか本が売れないようですが、私は図書館や古本屋さんも好きですが、やはり新刊本のあの独特の紙の匂いをかぐとどうしてもワクワクしてしまいます。だから、本屋さんの入り口に横積みに置いてある新刊本なんかみるとたまらなくなります。もっとも売る方もそれが狙いなんでしょうが・・時間とお金さえ有り余る程あるなら片っ端から新刊本を買ってしまうのだろうな。

 今はなかなか読書の時間が取れなくなってしまったけど毎日寝る前と仕事の移動中に本が読める環境なら本は私にとって手放せないアイテムです。というか、身近に本が置いてないと何か落ち着かないのです。だから、うっかり読む本を切らしてしまうと不安で不安ですぐに本屋にいって2,3冊取り合えず仕入れて身近にストックとして置いておくようにしています。だから時々何冊かの本を併読するので何だかストーリーと登場人物がごっちゃになって訳分らなくなる時もあります。最近、読んだ本では古い本だけど吉村昭の灼熱隋道が一番面白かったですね。私はジャンルに関係なくなんでも読むので図書館にいくと色んなコーナーを一通り見なくてはならないので時間がかかってしまうのと、この本を読むと決める決め手がなかなか思いつかなくてタイトルに左右されたり字の大きさや表紙のデザインだったり最初の書き出しの文章だったり段組の形式だったり全く決まったものがないので困ってしまうのです。勿論、好きな作家のコーナーを重点的にはみるのですが・・

 映画とちがって本は頭の中で自分なりに映像をつくるという作業が煩わしいけど楽しいのでしょうね。想像力もつきますしね。自分の子供にも本だけは小さい時から近くに置いて本が読める環境をつくってきました。時代が変わってもこういう文化は大事にして欲しいし自分が好きな趣味のひとつなのでいつまでも楽しんでいきたいです。

2006/04/01

携帯電話の罪?

最近、子供達をみていると不思議な光景に頭が???となる事が多い。それは友人同士隣り合って座っても互いに携帯をカチャカチャ・・車で迎えにいって後ろに3人くらい乗っけていてもお互いに携帯でカチャカチャ・・・これは一体何なんだろう?と考えた。

最初は「これも時代の流れなんだろうな~」と理解した。そしてこれが新しいコミュニケーションの方法なんだろうなと理解もした。私自身は携帯電話でさえも持ち歩きに抵抗を感じる人間である。何故嫌かというと自分が置かれている状況に関係なく呼び出されるからである。だから、良く電源を切ってしまう。そうすると会社のスタッフや家族から携帯電話をもっている意味がない!と叱られる。そりゃそうだ。だから打ち合わせをしている時や建物の中や施設に入っているときにはマナーモードという事にしている。

今朝、テレビを見ていたら電車の中で時間が出来たときにとる行動は?との問いに一番多かったのが携帯でメールをする。というものだった。ふ~んやはりそうなんだと納得してしまった。

つまり、現代人の人とのコミュニケーション方法は携帯電話が出来たお陰で場所という距離感を飛び越えてしまったと言う事なんでしょうね。だから傍にいる人間との会話にこだわらずに違う場所にいる人とコミュニケーションをとるという事に違和感を持たなくなったと言う事でしょう。だから、隣に座っているのに会話が成立しない。話術というものが必要なくなってしまったんでしょうね。メールで会話するには話術は必要なく顔文字とか感嘆詞とかそういうものの盛り込み方によってそれに代わる方法を見出している。という事かな?

私は誰か知り合いが隣にいたら「何か話題を探して話をしなくちゃ!」という脅迫観念に近い感情をいつも持ってしまいます。それが正常かどうかは分りませんが少なくてもそういう感情はいつも持っています。でも現代は必ずしも傍にだれも居なくても誰かと繋がっているという事なんですね。だから時間と場所に関係なく誰かと繋がっているために「命に次に大事なものは?」と聞かれると「携帯電話」となってしまうのだろうな・・・

一度、携帯を捨てたらどうなるんだろう?もともと無かったんだから別に死にはしないし・・困ることは困るだろうけど・・それもどうしてもという事ではないような気もするけど・・携帯電話は便利だけど一度電磁場とかが乱れるときっとパニックになってしまうのだろうな。

文明って何だろう・・生活が便利になればナルホド昔に返りたがる感情が芽生えるのは何故なんでしょう・・薪割りもそうだし、森の中で火をおこしてコーヒーなんか飲んだら最高に幸せなんだけどな・・・不思議ですね。

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八ヶ岳でのログハウス生活 ---木の家設計施工 森のすまい工房(有限会社アシスト

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