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2007年2月

2007/02/25

田舎暮らしの必須アイテム~車~

 森の中で暮らしていると良く聞かれるのが「買い物はどうしてるんですか?」「車がないと大変でしょう?」「年取って車運転できなくなったらどうするの?」と車にまつわる事が多い。確かに現代の森の生活では車がないと大変かも知れない。私の憧れの暮らし、森を出たところに地下鉄の駅があって隣が六本木という構想は暫く無理のようなので・・そこで車は森の暮らしの必須アイテムとなる訳です。

 こちらで暮らし始める人によく「車は何を買ったら良いでしょうね?」と聞かれるのですが私はいつも「田舎のベンツ「軽トラ」しかも四駆!」と答える事にしている。本物のベンツは全く必要ないし邪魔なだけですからね。役立たないし・・その点「軽トラ」は便利ですよ~何でも載るし、どんな道でも入っていけるし雪道にはダントツで強いし、汚くしても洗う必要ないし、まさに「田舎のベンツ」だと思っています。地元の農家の方は必ず一台は持ってますね。持ってないと仕事になりませんしね。たまに、共同清掃作業なんかの日があるのですがそんな時は見事ですよ。道の脇にド~と軽トラが何十台と並び、何だか軽トラの見本市みたいになります。その光景をみているといつも「自分の軽トラがどれか分るのかな?」と思ってしまうのです。なんせ皆、鍵もかけないし勝手に乗っていけるし見た目は皆同じだしね・・

 以前、軽トラが欲しくて知り合いの農家のオジサンに「どっか余ってる軽トラないかね?」と聞いたら「そんなら、うちの持ってけ」と言われ「えっホント!」とすっかり舞い上がってオジサンの庭先に置いてある軽トラを一緒に見に行った。確かにまだまだ使えそうな軽トラである。「ホントにいらないの?」「あ~もう使ってねえからな、持ってきな」と軽くおっしゃる。「へ~まだまだ使えそうなのに・・・」とぐる~と見回してフト気付いた・・車検が切れてる。しかもかなり前・・「これ、車検ないよね?」「ほんなもんいるかい!畑走ってるだけだもの誰も気になんかしゃ~せんよ」「・・・・・」う~ん、欲しかったけど丁重にお断りさせて頂いた。

 又、工事現場で知り合った現場近くの御婆ちゃん、どうやら評判の元気な御婆ちゃんらしい。こちらに別荘をお持ちで時々遊びに来ているそうな・・その御婆ちゃん、どうも東京では大変なお金持ちらしい。ある日、たまたま一緒に昼ごはんを近くのレストランでご一緒した。「あんた、私の車いらんかね」「えっ!」「もう飽きたからアンタにあげる」「えっ!車って御婆ちゃんの乗ってるベンツ?」「ウン、あのベンツさ~あたしが小さいからあたしの体に会わせてアクセルとかブレーキとか特注でいじっているけど、良かったらアンタにあげるわ」「・・・・」これも丁重にお断りした。何せ維持していくだけでも大変そ~だったので。

 そんな訳で今、私の愛車は軽トラでもなくベンツでもなく普通のホンダのCR-Vという四輪駆動の乗用車です。森で生活するには充分な機能を持っています。八ヶ岳に来てからの車遍歴はデリカ、ランクル、パジェロ、オデッセイ、エスクード、CR-Vと気が付けば色々乗って来たけどどれも大体どこでも何にでも使えるといった車が多かったように思う。生活が森の中だったり街に出掛けたりと色々と環境の変化が大きいのでどうしても選ぶとそういうのに対応した機能をもつ車になってしまう。

 昔、大雪が降った次の日に街に出かける用事があって車の屋根に大量の雪を乗っけたまま街の駐車場に止めたら廻りの人達がどうも私の車を指差して笑っている。何故かな?と思ったら、雪が降ったのは山の上だけで下の街には全く降らずに駐車場に止まっている車は皆、綺麗なまま・・どうりで私の車だけが目立つ訳です。

 いずれ念願の畑が持てたら軽トラを買おうと思っています。

2007/02/18

コミュニケーション

 私は子供の頃、友達とうまく遊ぶのが苦手でした。幼稚園の頃からどうしようもないガキ大将だったのですが実は内心では人と会話したり、自分の意見を伝えるのがとても苦手でした。大人になって処世術を何となく学び旨く立ち回る術も少しは覚えて次第に他人からはそう見られなくなって来ましたがそれでもやはり苦手意識は今もあります。

 一時期、凄く他人との会話に悩み、本屋に行ってその手の会話術法みたいなものも少し読んだりしました。その時に学んだのは「人と話そうとするのではなく人の話を聞く」という事でした。話すには苦手でも聞くのは誰でも出来る。その時に少しだけコツが有って、出来るだけその人が話しやすいように話題を展開していくという事です。昔、コント55号の欽ちゃんの本にも人との話方の作法みたいな事が書いてあってとても参考になった覚えがあります。それは、その時の状況、相手が年上か?年下か?立場は?というような事を考えて喋りなさいといった事だったと記憶しています。

 最近、色んな所で人の話しているのを聞いていると特に他人との会話がとても拙くなっているように感じます。主語、述語を省略したり自分が理解しているから相手も理解していると錯覚した喋り方をする機会が多いように思います。

 話は変わりますが私は「北の国から」の倉本さんの作品が好きなのですが何故好きかというと彼の作品のセリフには例えば「僕には分らなかった訳で・・・」のようにそのセリフを聞いた人が色んな感性でそのセリフで最後まで言わなかった残りを想像するという余地を残して広がりを持たせているからです。曖昧かもしれませんが私の感性には凄く合っています。

 近頃、私は相手の顔をジッと見て話すように心がけています。別に睨みつけているわけじゃないですよ。何故かというと私は人の顔を覚えるのが凄く下手な人なんです。どうしても旨く会話出来ないという事が相手の顔を見ていないという事にこの歳になって遅ればせながら気付き(遅すぎっ!)それからは出来るだけ相手の顔を覚えるように話しながら相手の顔の変化や特徴を何となく覚えるように心がける事にしました。

 私もけっして他人と話すのが得意ではないので分るのですが下手な人は会話に参加しようとしない、自分の興味のあることしか参加しない、話しかけても返事しない、そうすると次第に相手も話し辛くなって段々、話しかけなくなるようになります。話の第一歩は挨拶です。オハヨウとかバイバイとか些細な事なんです。明るく大きな声で挨拶するところから会話は始まると思います。

 それと大事なのは自分に殻を作らないという事でしょうか、「ここから先には絶対踏み込ませないぞ」みたいなものを感じる人や「お前みたいな奴と話す必要なんかないんだ」みたいな態度を感じる人もいます。そうすればこっちだって話す気にはならないですよね。友達との会話が楽しいのは同じ価値観でものが言えるからですよね。

 それからもうひとつ相手を敬うという事でしょうか。最近は「タメ口」と言って相手と友達のように話す事が話し方のコツのように思っている風潮がありますがそれは相手に対してさっき言った「お前に気を使う必要なんかないんだ」と言ってるようなものです。相手が年上だったり自分にないものを持っていると思えれば自然と敬語が出て来るはずなんですが最近はそうでもないようです。

 最近、人の会話を聞いててず~とそんな事を感じていました。私自身が会話べたなので凄く言葉のコミュニケーションというものが大事かという事を思い知らされます。しかし私は幾つになっても話すのは苦手です。

2007/02/11

アマチュア規定にもの申す

 私はスポーツ大好き人間である。自分でやるのも好きだけど見るのも大好きである。高校野球も好きだし、春高バレーも、箱根駅伝なんかも大好きである。しか~し!最近気に入らない!何がって、以前も言った事があるけど日本のアマチュア規定はオカシイ!高校総体のバスケット選手で身長2m超えの黒人選手が出て来る。当然、日本人の高校生が手におえるワケがない。まるでプロとアマチュアの試合である。その他のスポーツでも外人選手がよく登録されて出て来る。何故か?勝ちたいからである。でも、アマチュアスポーツの目的とはなんだろう?勝負の厳しさか?それもあるとは思うが私は負けたことから学ぶ事も多いと思う。プロではないのだから・・・

 誤解のないように言っとくが私は外人選手が悪いと言っているのではない。本来の高校生のアマチュア精神からすれば日本に勉学の為に留学してきて、ある一定の期間が過ぎれば日本の高校生として公式戦に参加できるというのなら全く私は賛成である。しかし、今の留学生制度ははっきり言って日本で活躍して企業なりプロのスカウトの目に止まり将来はスポーツを通した人生設計を目指して留学して来ているとしか思えないし、留学生をスカウトしてくる方も試合に勝って学校の知名度を上げようとしているとしか思えない。

 一方、一年生から公式戦に一度も出場出来ずに去っていく選手も沢山いる。彼等も同じ選手として公式戦に参加している仲間を支えてきている。そこへ、海外から体力的にあきらかに差のある選手をスカウトしてきていきなり公式戦に出して勝ったとしても出場機会を奪われた彼等は納得出来るのだろうか?それこそアマチュア精神に反するのではないだろうか。

 今の教育界の問題はメデアが色々取り上げているが私は勉強やイジメだけではなくこういう課外活動としてのスポーツのあり方も歪んでいると思う。大人達が作り上げた歪んだ構造が見えて面白くない!勝てばいいはプロの世界、アマチュアは勝つにはどうすれば良いかを通して人間形成をしていくのが目的ではないでしょうか?高校生のプロ化には反対です。もっと大事なものを是非見直して欲しい。その為にはアマチュア規定の見直しを是非、お願いしたい。

 アマチュアスポーツ大好きな私は、アマチュアスポーツの持つ純粋さが大好きなんです。勝って笑い、負けて泣く、そこには純粋に一生懸命、練習し、耐えて努力して来た仲間にしか共有出来ない感情があるからで、だからこそスポーツは筋書きのないドラマなんだと思うわけです。

2007/02/04

動物の一生

Sika 暗くて、小さいので分り難いかも知れませんが写真の中央に鹿が写っています。仕事場近くの森の中で偶然出会い10分近くお互いに見詰めあっていました。相手は当然警戒して、こちらは動くと驚かして逃げてしまうので動けなくて・・・実はこの写真の左側の森からもう一頭、小鹿が出て来ています。どうやら親子らしい・・2頭で餌を探しながら右側の森の中に消えていきました。八ヶ岳はまだ狩猟期間中で今年は又、1ヶ月延長されたので3月中旬までが狩猟期間になる。不思議な事に彼等は狩猟期間が過ぎると森から出てくる。彼等なりに危険を察知しているような気がするのは私だけかも知れないけど・・

 話はがらっと変わって昨日、うちの猫が死んだ。3匹いた同居猫の親猫で今年になって2匹目の死である。14歳の生涯であった。昨年はラブラドールの愛犬を亡くし今年の1月に娘猫が死に、それから数えると3匹目の死である。それぞれが寿命を迎える歳ではあったのでそれなりに覚悟はしていたが、いざ現実になってみると笑われるかもしれないけど結構辛い・・・今まで家の中で3匹が当然のようにウロウロしてて、時々ぶつかって蹴っ飛ばされたりしていたのがフト、気が付くと1匹しか居なくなってしまい、そいつも癲癇の病と闘っているような状態なのでいつ寿命になるか分らない。昨日、死んだ親猫は生きている時からいつも気位の高い猫で何故か女房にしか抱かれなかった。私には決して抱かれようとしなかった。機嫌の良い時だけ近寄ってくるような猫らしい猫でした。一昨日の晩から呼吸が浅くなり昨日あたりが山だろうなと思っていたら、私が会社にいる間に眠るように逝ったそうな・・・

 14,5年も一緒に暮らすと何となく「ペット」という言葉に抵抗を感じる様になる。だからいつも同居猫と呼んでいた。小さな小さな命だけど目の前でその命が消えていくのを見ていなくてならない辛さは人間も猫も同じだなと思う。あの親猫を長坂町のプールの入り口で拾ってきて「飼いたい」といった当時、小学生の長男はもう社会人で、大学生の長女も小学生、高校生の一番下の子はまだ保育園にも行ってなかった。いわば一緒に育ったようなものである。

 命あるものはいつかはその命が尽きるのは避けられない現実ではあるがその場面に直面するのには凄く精神的な負担がつきまとう。それが人間であり犬であり、猫であっても・・最近、その両方共に直面する機会が多く、その度に命ってなんだろうと何時も考えさせられる。

 野生の動物達は自分の死を間近に感じると群れから離れてひっそりと自分の生涯を閉じるという話を聞いたがある。犬も猫も野生の場合はそうだという話も聞いた。確かに家で飼っている猫も具合が悪くなるとどこかに隠れて家の中に確かに居るはずなのに姿が見えなくなる時がある。そんな時、家中を探しまわると、とんでもない隅っこに隠れていたりする。今では動物病院があるのでそんな時は手厚い看病を受けて、死んだ親猫も2、3年程前から乳がんを患い両方の乳房を切除して死ぬ直前まで投薬を続けていた。本当は亡くなった日も病院にいく予定だったけど女房と話し合い、これ以上辛い思いをさせるのは止めようと言う事になり静かに最後を迎えたと言うわけです。

 又、ひとつ身近な命が消えてしまいました。辛いけど乗り越えなくてはならないワケで・・しょうがないね。合掌

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八ヶ岳でのログハウス生活 ---木の家設計施工 森のすまい工房(有限会社アシスト

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