病院というところ
今年はやたら病院に縁があるみたいで、母と義父がそれぞれ1週間違いで救急車で運ばれたり親しい人間がやはり緊急入院したりして病院にお見舞いにいく機会がやたら多いのです。幸いな事に自分についてはまだ、病院のお世話にならずに済んでいますがいつ自分がお世話になるかも知れません。
軽い病気や軽傷程度の怪我の入院ならまだ気が重くならずに済むのですが命に関わる様な状態での病院治療はやはりお見舞いに行くのも気が重くなります。でも病室でそんな顔を見せる訳にもいかないので精一杯病室に入る前に笑顔をつくるのですがやはりその後でどっと疲れがきてしまいます。
しかし、病状が重ければ重いほど、今の医療技術の進歩には驚かされます。一昔前なら間違いなく命を落としていたであろう状態を救い、しかも元の健康な状態にまで回復させる現代の医療技術は凄いと思います。
病院での看護師さん(どうも昔の看護婦さんの方が呼び易い)も病状が重ければ重いほど、天使のように思えてしまうのは私だけでしょうか?義父も随分優しい看護師さんの献身的な介護のお陰で立ち直る事が出来ました。私の少ない入院経験でも夜中、手術をした部位の出血が止まらないからと冷やしたタオルを持ってきてくれた時には思わず拝んで(笑)しまいそうになりました。
しかし、時たま気になるのは医療技術が進歩した分、病院でのお医者様の緊張も長時間続きストレスも大変なものではと思う事です。
最近は入院や手術の際はしつこい程リスクや病状の説明が行われ繰り返し最悪の事態の説明を聞かされいちいち同意文書にサインを求められます。
私の場合も親と離れているので救急車で運ばれた際には入院先の病院の担当医の方から電話で治療方針や入院の手続きについて了解を求める説明を受けました。私の場合は「全てお任せしますので宜しくお願いします」と伝えましたが、その後病院に行き改めて担当医の方から病状説明を受けた際には説明する先生の方の緊張が痛いほど伝わって来て返って気の毒に思いました。きっと様々なストレスを抱えているのだろうなと感じてしまったからです。
メデイアでも医療事故について色んな報道が行われ医療現場でも患者さんやその家族への医療方針へのコンセンサスを得るのがひとつの仕事になっているようです。
これからはきっと患者側と医療スタッフ側を結ぶ役割を果たす人がきっと必要になってくるのだと思います。今でもソーシャルワーカーさんや緩和治療を専門とするような人が増えてきて少し大きな病院にいくと必ずそういう専門知識を持った職種の人が居る様になりました。
先日、地球上の人口が飛躍的に増加しているという報道がありました。これにはきっと医療の進歩も関係しているのだと思います。
昔は世界的な疫病の発症で多くの人が亡くなり人口もそれにつれて減少したりしたのですがそれはそれで人間も動物の仲間である以上、避けて通れない事ですね。
私は日常的に花粉症アレルギーの薬を服用しています。そうしないと鼻炎がひどいからなんですが最近、すこしづつ減らしていこうかと思っています。
一度、いっぺんにやめてみようと思ってやめたらひどく悪化したので徐々に減らしていこうかと試行錯誤しています。それは自分の体の治癒能力を信じてみようかと思ったからなんです。
本来、人間は自分で自分の体を治す能力を持っています。その能力を越えたところで命の問題が起きてくるのですが医療の進歩はその自己の能力を越える力を与えてくれています。
その事については私の頭では難しくてうまく理解出来ていないのですが普段、日常的に森の中で野生の動物達と接する機会が多ければ多いほど命について考えさせられる事があります。
昔、八ヶ岳に引っ越してきたばかりの時に子供達が川でタヌキを拾ってきました。タヌキは弱っていたので段ボール箱に入れて地下室に保護し県の動物保護担当に処置について相談したら「そっとそのまま触らずに置いておいて下さい。きっともう助からないと思います。病原菌を持っている可能性が高いので絶対触らないで下さい」と言われました。
翌日、タヌキは本当に死んでいました。子供達は素手でタヌキを触ったのですが幸い、病気になる事はありませんでした。
そのタヌキは近くの森の中に埋めてやりました。森の中に動物専門の救急病院があればきっと助かったかも知れませんね。
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