2007/02/04

動物の一生

Sika 暗くて、小さいので分り難いかも知れませんが写真の中央に鹿が写っています。仕事場近くの森の中で偶然出会い10分近くお互いに見詰めあっていました。相手は当然警戒して、こちらは動くと驚かして逃げてしまうので動けなくて・・・実はこの写真の左側の森からもう一頭、小鹿が出て来ています。どうやら親子らしい・・2頭で餌を探しながら右側の森の中に消えていきました。八ヶ岳はまだ狩猟期間中で今年は又、1ヶ月延長されたので3月中旬までが狩猟期間になる。不思議な事に彼等は狩猟期間が過ぎると森から出てくる。彼等なりに危険を察知しているような気がするのは私だけかも知れないけど・・

 話はがらっと変わって昨日、うちの猫が死んだ。3匹いた同居猫の親猫で今年になって2匹目の死である。14歳の生涯であった。昨年はラブラドールの愛犬を亡くし今年の1月に娘猫が死に、それから数えると3匹目の死である。それぞれが寿命を迎える歳ではあったのでそれなりに覚悟はしていたが、いざ現実になってみると笑われるかもしれないけど結構辛い・・・今まで家の中で3匹が当然のようにウロウロしてて、時々ぶつかって蹴っ飛ばされたりしていたのがフト、気が付くと1匹しか居なくなってしまい、そいつも癲癇の病と闘っているような状態なのでいつ寿命になるか分らない。昨日、死んだ親猫は生きている時からいつも気位の高い猫で何故か女房にしか抱かれなかった。私には決して抱かれようとしなかった。機嫌の良い時だけ近寄ってくるような猫らしい猫でした。一昨日の晩から呼吸が浅くなり昨日あたりが山だろうなと思っていたら、私が会社にいる間に眠るように逝ったそうな・・・

 14,5年も一緒に暮らすと何となく「ペット」という言葉に抵抗を感じる様になる。だからいつも同居猫と呼んでいた。小さな小さな命だけど目の前でその命が消えていくのを見ていなくてならない辛さは人間も猫も同じだなと思う。あの親猫を長坂町のプールの入り口で拾ってきて「飼いたい」といった当時、小学生の長男はもう社会人で、大学生の長女も小学生、高校生の一番下の子はまだ保育園にも行ってなかった。いわば一緒に育ったようなものである。

 命あるものはいつかはその命が尽きるのは避けられない現実ではあるがその場面に直面するのには凄く精神的な負担がつきまとう。それが人間であり犬であり、猫であっても・・最近、その両方共に直面する機会が多く、その度に命ってなんだろうと何時も考えさせられる。

 野生の動物達は自分の死を間近に感じると群れから離れてひっそりと自分の生涯を閉じるという話を聞いたがある。犬も猫も野生の場合はそうだという話も聞いた。確かに家で飼っている猫も具合が悪くなるとどこかに隠れて家の中に確かに居るはずなのに姿が見えなくなる時がある。そんな時、家中を探しまわると、とんでもない隅っこに隠れていたりする。今では動物病院があるのでそんな時は手厚い看病を受けて、死んだ親猫も2、3年程前から乳がんを患い両方の乳房を切除して死ぬ直前まで投薬を続けていた。本当は亡くなった日も病院にいく予定だったけど女房と話し合い、これ以上辛い思いをさせるのは止めようと言う事になり静かに最後を迎えたと言うわけです。

 又、ひとつ身近な命が消えてしまいました。辛いけど乗り越えなくてはならないワケで・・しょうがないね。合掌

2007/01/28

薪割もこんなに奥が深い

20070128_171328546 昨日、私が担当する森つくりの企画の一つ「薪割もこんなに奥が深い」が開催されました。昨年、実施予定だったのが悪天候で延期となりようやく開催する事が出来ました。当日、「余り集まらないんじゃないの」と思っていたのですが意外にも16人もの方達が集合し小雪がパラツク中で開催と相成りました。普段、余り人に教わる事のない薪割ですが千差万別でそれぞれ実は人によって違うんじゃないのと話がでたのが発端でそれじゃ、我こそは「薪割名人」と自称する人達に集まってもらって思いのたけを語って貰おうじゃないのというのがそもそもの企画の発想だったのです。

 私自身も八ヶ岳に来て薪割を始めて19年ですが人に教わった事なんてないし、そもそも教わろうなんて思ったこと無かったのですが今回、色んな人に集まってもらって話しを聞くといやいや中々皆さん、それぞれウンチクがおありで面白いのなんの・・・当然初めての方もおられて「やってみませんか?」と斧を差し出すと「いえいえ、私は結構です」なんて最初は遠慮していた女性が最後の方では「やり始めると以外と面白いですね」と汗をかきつつ斧を離そうとしなかったりとこれが本当に面白い。

 で、ふと思ったのが「薪割」というものは時代が変わっても延々と続けられてきた数少ない行為であるのだなという事である。昔、人類が初めて火というものを手に入れて以来、続けてこられた行為なのである。つまり全ての人のDNAに刷り込まれてきた記憶ではないかと・・だから人は薪を割る道具を手にした時にそのDNAが蘇るのではないかと思うのです。

 何でそんな事考えたかというと、いざ薪割を始めると普段、物静かで穏やかに話をされる人が、まるで人が変わったように薪割に異常な熱意を示したり、先程の女性のように「イエイエ私なんか」と仰ってたご婦人が旦那さんそっちのけで力強く斧をふるって目の色が変わってしまったり、つまりこれは潜在していたDNAが呼び覚まされるんではないかと思ってしまった訳です。たかが薪割という単純な作業ですが時を越えて延々と受け継がれてきた人類に残された(オーバーか・・)数少ない貴重な活動ではないかと・・

 まあ、そんな事は別として全く私もたかが「薪割」にこんなに色んな技とウンチクがあるとは思いませんでした。よく言われるのは薪木の根元側から割るか枝先側から割るかと言う事ですが一般的には根元側という意見が多いのですが、これは私も一概には言えないと思っていましたがどうやらこれは参加者、全員同じ意見のようでした。むしろ割れなかったらひっくり返して割ると以外と割れると言う意見が数多く出ました。それと、比較的、乾燥していない新しい面の方が割りやすいという意見も多かった。

 割り方も縦にして割る方法、横にして割る方法、節に当たった時の割り方、枝分かれした木の割り方、針葉樹と広葉樹の違い等・・いやいやこれほどウンチクがあるとは思いもしませんでした。世の中、分らない時は聞いてみるもんですね。たかが薪割も本当に奥が深い神聖な生業でありました。

2007/01/19

「老い」との付き合い方

「老い」と言っても私の事ではない。まだまだ若いつもりだが昨今、ちょっと物忘れがひどくなってきてちょっと心配している。親しい人の名前がつっかえて出てこない・・・困ったもんだ。実は田舎で1人暮らしをしている母が体調を崩して入院してしまった。それはそれで覚悟はしていたので驚きはしなかったが、いざ事態に直面して母が老いていくのを見るのは少々辛い。これは幾つになっても変わらないものなのかも知れない。

 子供の頃は母が老いていくなんて考えもしなかった。何時までも元気な母のままでいるものだと思い込んでいたし普通、考えないよね・・その点、父親という存在はどんななんだろう?子供達はどう思っているんだろう?実は私自身は父親の存在が消えた時、父には申し訳ないが余り感傷的にはならなかった。これは男同士だからであろうか?母に対する感情とは明らかに違う気がする。やはり人間も動物だから生んでくれた母性に対する感情の方が強いのだろうか?それとも単に父母の子供に対する接し方の違いから生まれる感情の違いだろうか?ちょっと同じ父親として寂しい気もする。果たして自分の子供達は自分をどう見ているのだろうか?もうほとんど成人しているので今更どうのこうのと言っても遅いし、はっきりいって子供達にとって、とても立派な父親だったとは言えないと自分自身思っている。

 自分も含めて人は必ず「老い」ていく。それは避けられない事だし、出来れば「老い」を楽しみたいとさえ思っている。老いて行く事は決して不幸な事ではないと思う。母も老いていくに従って段々子供に戻っていくように感じている。「老いては子に従え」とは良くいったもので現段階では母はまだ従いきれずに若かった自分の姿に固執しているように思える。キット自分もそうなるであろうと思う。そう簡単に子に従えるか!と誰しも思うんだろうな・・自分もきっとそうだろうな。でも娘に優しくされると従っちゃおうかな・・なんて思う時も来るかも知れない。

 話は変わるが今の日本の老人福祉のあり方は最低だと思う。はっきり言って福祉切捨てとしか思えない。貯蓄がないとうっかり年を取る事もままならない。金持ちの老人なら良いがそうでない大多数の老人、まさにこれから高齢化社会を迎えようとしているそんな老人から更に医療費を巻き上げて、うっかり入院しようものならさっさと出て行きなさいと言わんばかりのお粗末な制度しかない。更に悪化しそうな情勢である。戦後の荒廃した日本を繁栄に導き働きずめに働いた人達に対して余りにも無情な国である。我々だってうっかり老いる事も出来ない。税金を上げるなら是非、福祉に役立てて欲しい。一部の裕福な人達だけが報われたり、どこぞの国会議員さんみたいに訳のわからない事務経費に数千万も使える人の為に税金が使われると思うとやるせないですよね。

 是非、豊かな「老い」を過ごし人生の終わりを満足して迎えることが出来るようになって欲しいと年頭にあたり思った訳です。

2007/01/08

新年おめでとうございます

 新年あけましておめでとうございます。すっかり温暖化が定着した感のある冬模様ですが、一昨日まで帰省していた高知では昼間の気温が10度を軽く越えてセーターを着ていると暑くて仕方ないといった気候でした。

 そして一昨日の晩、中央高速をえっちらおっちら高知から720kmの道のりを帰って来ようとしていたら恵那のあたりから猛吹雪!前が全く見えない!「こりゃもうすぐ通行止め間違いないな・・」と隣に座っていた息子に軽く脅しをいれて兎に角、通行止めになる前に何とか通り過ぎなくてはと必死にハンドルを握り、見えない前方の視界を見える事に何とかして(なる訳ないか・・)必死でセンターラインのみを注視して走り続け、到着予定時間を30分程オーバーして、高知から9時間30分で無事、山梨に到着しました。

 事情により今年のお正月ほどお正月の雰囲気のしない年はなかったかなという年末年始を高知で過ごしましたがそれでも時は止まる事無く過ぎ去り今年も気が付けば、はや1週間が過ぎていました。

 今年は皆様にとってどんな年になるのでしょう。私にとってはなんとなく心の切り替えが出来ないまま始まってしまった2007年ですがきっとこのまま時は過ぎていくのだろうなと思っています。その中でもその時、その時、自分のやるべき事をひとつずつクリアしていくしか自分には出来ませんし、今までそうして来たつもりです。

 しかしそんな中でも「笑い」だけは忘れないで行きたいと思います。人生をしかめっ面して過ごすほどつまらない事はありません。どんな時でも楽しみを求めて笑って過ごしていきたい・・最近特にそう思うようになりました。女房からはよく「何があってもアリガトウと言うと良いらしいよ」と言われます。最初は「バカ言ってら!」と思って「貧乏でアリガトウ、宝くじが外れてアリガトウ」とやけくそで言ってましたが良く考えたら「ものは考えよう・・貧乏だから人の痛みが分る。宝くじが外れたから又、明日から一生懸命働こうって気になる」と考えれば確かに「アリガトウ」かも知れません。別にスマップの曲の宣伝をしている訳ではありませんが・・

 という事で今年の私は「ア・リ・ガ・ト・ウ」をテーマに行こうかななんて思ってみたりしています。果たしてどこまで続く事やら・・・今年もどうぞ宜しくお願いします。

2006/12/29

さらば2006年

 2006年もあと2日余りで終わろうとしています。今更ながら今年を振り返ると今年も色んな事がありました。今年をあらわす漢字は「命」だそうですが私にとっても今年は「命」に関わる出来事が多くあり、改めて「命」について考えさせられた年でもありました。

 今年、年初に愛犬の「キキ」をガンで亡くしました。それ以来、めっきり朝の散歩の回数が減り続け今ではほとんど行かなくなってしまいました。そしてその後、病気療養中だった義母が亡くなりました。病状が回復に向かっているとの話を聞いて喜んでいた最中の訃報で夜中の高速道路を徹夜で移動して葬儀に駆けつけました。そしてその後、同居中の3匹の猫が相次いで倒れ一時は危篤状態でしたが何とか今は持ち直しています。

 そして世の中ではイジメに端を発した自殺が多発し命について考えさせられる年でありました。「命」 重い課題を背負った言葉です。

 来年はどんな年になるのでしょう。願わくば万民に勇気を与えられるような年になって欲しいものです。しかしそれを与えるのも人間、奪うのも人間ですよね。いかなる時も希望をもって前向きに生きたいと思います。もとより余り難しい事は得意ではないので「なんちゃって~」と笑って過ごしていければ私にとっては良い年になるものと思っています。

 今年も最後になりました。皆さん、今年も最後まで「森の囁き」を読んで頂いて有り難うございました。来年が皆さんにとって良い年になりますようお祈り致します。どうぞ良い年をお迎え下さい。

2006/12/25

森の営み

20061225_121654538 今年一年も世の中には様々な事件・事故がありました。そんな年末の慌しいこの時期、一通の手紙が届きました。中には国立大学の偉い先生が研究した樹の生態に関する研究成果が入っていました。そこには慌しく右往左往する人間達の世界とは別の自然界の掟にそって淡々と自分達の生を刻む森の木々達の生態が記されていました。人間達の知らない森の営みとはどんなものでしょう?

 森に生息している木々の生態にはまだ分らない事が山ほどあります。そんな神秘に包まれた森の樹の一年を簡単に振り返ってみたいと思います。

 春、木々達は土中から盛んに養分と水を吸い上げて光合成を進めます。木の細胞の中で細胞学的に生きているのは一番外側の辺材と呼ばれる部分で、年輪でいうと外側のほんの数年分だけです。この生きている細胞をフルに活用して自分の体を作るのです。葉で行う光合成だけでは養分を賄いきれずに冬の間に体内に貯めておいた養分もフルに使って必死に成長しようとします。

 そして春から夏にかけて必死に成長を進めた木々は秋になるとゆっくりと休憩に入り地中からの養分の吸い上げも徐々に弱まり10月から11月頃になると成長活動を休止します。

 そして迎える厳しい冬、彼等は春から夏にかけて体内に貯めておいた養分を分解して自らの体を凍結から守る為に凍結防止剤を作り出し細胞内に蓄えています。その他にも自分の体を虫食いや腐れから守る為に心材と呼ばれる年輪の中央付近の赤くなっている部分にそういう効果のある栄養素を送ります。そうして生きている辺材部の活動は終わり次の細胞にその働きは受け継がれていきます。

 そして夜、誰もいなくなった森の中で木はひっそりと細胞分裂を始め新たな命を生み出しているのです。

 再び訪れる春、森の木は眠りから目覚め冬の間に体内にためておいた栄養分を再びかき集めて成長に必要な栄養分に作り変えて新しい成長に向けて活動を開始します。

 森の木はこのサイクルを忠実に守り続け地球上での自分達のテリトリーを広げていくのです。

 話は変わりますが木は地球上で最も大きくて重い生命体だって知ってますか?普通の感覚の生物で最大なものは鯨ですが鯨は重いが為に決して地上に上がる事は出来ないのです。しかし木はその根をしっかりと地上に張り、その体内に作り出した強靭な細胞の力によって自らの巨大な体をしっかりと支えていく事が出来るのです。

 人間達が知らない所で森の木々達はしっかりとその年月を刻んでいます。来年も淡々と刻む事でしょう。人間達の喧騒とは関係なく・・・今も耳を澄ませばもしかしたら聞こえる人には森の木々達の営みが聞こえるかも知れません。

2006/12/17

新月伐採講習会in福島

20061217_104625578 NPO新月の木国際協会から依頼を受けて福島県郡山市で新月伐採の講習会を開催してきました。といっても私が開催した訳ではなくてNPOの会員からの要請で講習会が開かれてその講師として行ってきたと言う訳です。

私が担当するのは新月伐採の過程の中でNPOが定めている「現認制度」についての仕組みを説明する事です。NPOが今まで行ってきた活動の中でちょっと特徴的なのがこの「現認者制度」です。詳しい説明はここでは出来ませんが分り易く言うと木を伐採する時に第三者として伐採に立会いその木が何時、何処で、どういう環境や状態で伐採されたかを記録し最終的にその木を利用する人にそのデータを提供するのが現認者の果たす役割です。

 最終的に利用する人が木の研究者ならその研究データとして貴重な資料となるし家を建てる人ならその家で使われた木がどういう場所でどういう状態で立っていた木かを知らせる事により安心感を与える事が出来ます。つまり木の履歴保証人とでも言えば良いのかも知れません。

 最近、「新月伐採木で家を建てます」というキャッチフレーズが全国的に広がってきて月と木の関係が注目されてきました。その事自体はとても良い事だと思っています。つまり、このエコロジー流行の社会現象の中でやっと木についても感心を持ってくれる人が増えてきたという事です。地球上に生息する全ての生き物は少なからず月や太陽の影響を受けています。そんな当たり前の事も人は忘れてはいないでしょうか?若しくは「制御出来る」と思い上がっていないでしょうか?私たちが食べる食物も全て自然界の環境に影響されています。私はその世界には人が立ち入ってはいけない自然界のルールが存在するように思います。

 新月伐採木も全国でエコロジーの旗手としてもてはやされる様になりましたがまだまだ解明されなければならない事が山ほどあります。NPOではその為に様々な研究機関と共同研究を継続し全国の会員達も自分達のレベルで出来る色々な試みを行い、その結果を定期的に報告しています。

 最近は企業として「エコ」という言葉は大変な市場をもつ魅力的な言葉になっているようです。それはそれとして素晴らしい事だとは思いますが私はそれが商業活動として利用される事には少し危惧を感じています。以前も書きましたがグローバルな視点で考えないと本当のエコロジーは見えてこないんじゃないかと思います。

 私は地元でNPO八ヶ岳南麓景観を考える会というNPOにも参加しており「森つくり」という分野を担当していますがそのイベントでも山に入って間伐をすると参加者の中に「木を伐ってしまうんですか?」と異論を唱える方が時々出てきます。人が山の自然に関わってしまうという事は最後まで責任を負うという事です。それが嫌なら全く関わらないしか有りません。自然林として立ち入りを禁止し自然界の法則にのっとり自然淘汰されていく森を見守るのが最善の策となります。しかし、今の現状で多くの人達が自然と共に生きる事を希望し里山に住む以上、自然の山とうまく共存する方法を模索するしか手はないように思います。出来るだけ自然界に自分達が住む事による影響を与えないように配慮するしかないと私は思います。

 新月伐採木はその木がもつ自然の力を最大限に引き出そうとするものです。どうしても「新月伐採木」という言葉の響きがよいものでその言葉だけが一人歩きしてしまいがちですが実際は「木が月にどのように影響を受けて育っているか」「どのような条件で木を伐採し製品化すれば木が本体持つ性質を損なわないで環境にも悪影響を与えないですむか」を考えた活動を指した言葉なのです。

 もっと分り易く言えば樹齢100年の木を正しい時期に、正しい状態で伐採すれば良質な木が得られて、そしてその木が100年腐る事無く利用出来れば木の体内に蓄積されたCO2が空気中に拡散せずに済み、再びその次の木が100年間その体内にCO2を蓄積し酸素を大気中に造り出してくれる更新の時間を稼ぐ事が出来、地球温暖化を防ぐ事が出来ます。この地球上でCO2を蓄積出来る大きな希望は海と木なのです。そういう意味で「新月伐採木」は大きな希望を与える事ができる可能性(あくまで可能性です)を秘めていると言えます。但し、希望は希望であって正しくそのメカニズムを理解する事が必要です。そういう意味で単にエコの旗手として商業化に利用される事に注意しなくてはなりません。もっと時間をかけてじっくり解明していく必要があると思います。

 新月伐採木には私はとても魅力を感じていますし月と木の関係についても切っても切れない関係がお互いに有るだろうなと思っています。多くの方達に新月伐採木の事を正しく理解して貰うために自分が知っている事を今後も伝えていこうと思います。ふ~今日はとてもマジメな事を書いたな~ちょっと疲れました。終わり・・・

2006/12/10

大人と子供

 フト、思った・・大人と子供の違いとはなんぞや?何故そんな事を考えたかというと昨日、清里で駐日ノルウエー王国大使のグルットレ氏を招いたノルウエーのイベントに参加してきた。いや、実はそれは口実でそのイベントの最後に予定されているオカリナ奏者の大沢聡さんのオカリナが聞きたくて行ったのですよ本当は・・・ところが受付で「場所はどこですか?」と聞いたら「入られますか?」と聞かれうっかり「ハイッ」と明るく返事したものだからそのコンサートの前に実施されているこのノルウエー大使を招いての「持続可能な都市つくり」だったかな?兎に角そういうパネラーを囲んでの討論会の中に入れられてしまったと言う訳です。

 もうその会も質問を終えて終わるところだったのですがパネラーとして出席していた柿沢元外務大臣が「今日、大使がお1人で何とJR中央線の電車でここ清里に来られた言う事が何よりの持続可能な都市つくりを実践されているという事ではないでしょうか」と発言されてのにひどく感銘を受けてしまったのですね。

 つまりノルウエーという国は景観や環境というものにすごく配慮されている国で環境破壊に繋がる行為は犯罪者として取り締まられるという事が国民の心の中に染み込んでいるという事なんでしょうね。わが国のお偉方のようにタウンミーテングと称し、やらせ質問を用意し更に静岡駅からわずか歩いて8分の会場まで東京からハイヤーで行く事になんの罪悪感も感じないという心と比較するとこれが大人と子供の違いなんだなと思ってしまったのですよ。

 つまりバレなきゃ何をしても良い。バレりゃしょうがないから謝る。これは子供ですね。つまり自分の判断が無い。自分の価値観が無い。大使が話していたのは「グローバルな価値観、誰かに言われたからではなく地球に住む者として当然持続していかなければならない事を先ず、自分から実践し行動する。」これは大人の価値観ですね。いや~聞いてて恥ずかしかった。当たり前の事だけど日本のお役人とこの王国大使との価値観の違い・・・どうしてこんなに違ってしまったのだろう?やっぱり鎖国がいけなかったのかな・・環境に対する価値観の違いは雲泥の差のような気がする。

 偉そうな事は言えないけど自分で出来る事はやっているつもりだけど更に今日からもっと考えなくちゃと思い知らされました。

 その後のコンサートは甚目さんのMCとグリーグの演奏、更に甚目さんが「最初で最後だと思う」といわれた奥様とのピアノ連弾、お嬢さんの素晴らしいバイオリン、そしてお目当てのオカリナ奏者大沢聡さんとピアノの堀内なつみさんのコラボレーションがいつものようにアットホームな雰囲気の中でもキラッと光る才能溢れる演奏を楽しんでとても得をした時間でした。こういうイベントは今後もずっと続けていって欲しいと思いましたね。自分では椅子運びくらいしか手伝わなかったけど・・・今度はもっとお手伝いしますね。

2006/12/07

喋る機械達

最近の住宅に置かれる機械達はよく喋る。例えば自宅のボイラー、昨年壊れてはいなかったけど15年経ったのを機会に取り替えた。このボイラー君いやボイラー嬢、親切に色々教えてくれる。曰く、「お風呂が沸きました。給湯栓を閉めてください」あるいは「給湯温度を○○度に変更しました」と色っぽく?話しかけてくれる。う~んマアこの位ならまあイイカと思っていた。可愛い声だし・・それなりに便利だし・・・と思っていた。

 先日、とあるお宅の便所に入った。入ると直ぐ便器の蓋が自動的にパカッと開いた。マア、最近の便器は全自動のフル装備になっているのでこれ位は当たり前になっている。ウンそうかそうか、便利だねと思い納得して用事を済ませた。すると・・・今度は何だか音楽が鳴り出した。どうやらこれはトイレでリラックスする為の工夫のようだ、もしかしたら用を足すときの音を消す効果もあるのかも知れない。フムフム色々工夫されているな。と思ったがフト便器を覗くと何だか怪しい照明が点いて便器の中を照らしている。ウ~ムここまでしなくても・・と思うけど機能が付いているのだからしょうがないよね。

 このまま世の中が進んでいくときっと朝起きたら「オハヨウございます。電気を点けました。コーヒーを煎れておきました」何て事になり、「口を開けて下さい。歯を磨きます」なんて歯磨きロボットが出てきたりはしないだろうか。そんなバカナと思うかも知れないけど意外と現実になるかも知れない。

 そうなるときっと人間の手足なんかはすっかり退化してしまって短くなって寝たきりになんかなってしまって全てロボットがしてくれるようになるのだろうな・・・

人間はコンピューターのキーボードだけ操作していれば良くなってどんどん運動能力は退化していくのだろうな・・・

 オソロシイ、オソロシイ・・・この喋る機械達、以外と落雷に弱い。昔のシンプルな機械達にはICが組み込まれていなかったのでそうでもなかったけど今の機械には皆ICチップが組み込まれていて落雷による地絡電流がこのICチップを焦がしてしまうのだ。つまり意外と天変地異に弱いと言う事・・やはりシンプルイズベストと言う事だろうか・・・人間もシンプルが一番、私は農家のお百姓さんが世の中で一番エライと思っている。

2006/11/27

「エコ」って何?

今年も東京ビッグサイトでエコビルド展が開催され、私もNPO新月の木国際協会の会員として最終日の1日だけ参加して来ました。本当は11月22日から25日まで開催されていたのですが今年は色々と忙しくて結局、最終日のどうしても外せない講演会だけ参加させて頂きました。準備に忙しかったスタッフの皆さん、お手伝い出来なくてすみませんでした。

 しかし今年は昨年より少し出展者が少なかったのかな?という感じでしたがそれにしても盛況でした。世の中はそれでなくてもエコロジー流行だそうでいつだったか雑誌を見ていたら「エコロジー」というキーワードだけで経済効果は大変なものだそうな。つまり「エコロジー」は商売になるという事らしい。う~んどうもすっきりしない。流行らないよりは流行った方が良いとは思いますが・・・どうもすこ~し引っ掛かるのですね。色んな企業がエコロジーをキーワードに商品を展開していますが「ホントのところこれってエコロジーなの?」と首を傾げたくなる物も中にはあります。つまり「エコロジー」ってよ~く考えて見ないと分らないところがあると思いませんか?確かにある一面ではエコロジーかも知れないけどもっと大きな次元で捕らえてみるとトータルとしてはエコロジーとは言えないんじゃ無いかなって事、有る様に思います。

 例えば僕達ビルダーが丸太の端材で冬、暖をとっていたとします。しばらくすると間違いなく保健所から産業廃棄物の不法処分に当たるので止めなさいと言ってきます。「ダイオキシンが出るからイケナイ」そうな、ある日エライ大学の先生にこの件を聞いてみた「本当にダイオキシンが出るのかどうか・・?」先生は憤慨しながら「あんたら、丸太を燃やしてるんでしょう?ダイオキシンの化学式知ってるか?ダイオキシンは塩素が無ければ出るわけないでしょが!丸太燃やしてなんでダイオキシンが出るの、出る訳ないでしょが!言ってやりなさいその役人に!」と逆に怒られた。しかし法律は法律である。だから我々は灯油を買ってきて小屋の中でストーブを燃やしている・・・何だかオカシイ。家に帰ればウッドストーブを燃やしているのに・・・・

 地球温暖化防止策に有効だとして高気密高断熱住宅がもてはやされた。暫くしてシックハウス症が問題になり更に24時間換気が必要だと言って換気扇の設置が義務付けられた。24時間換気だから当然、消してはいけない。だからスイッチに24時間ONというシールを貼らなくてはならない事になっている。当然、いくばくかの電気がかかる。しかもここは標高1000m近い高原、冬は氷点下15度近くまで下がる日もある。でも換気扇は廻さなくてはならない。これってどうよ?

 エコロジーだからといって24時間のオール電化住宅がもてはやされる。しかし待てよ?皆がオール電化住宅にしたらどうなるの?電気が足りないというではないか。タダでさえ足りない電気だけど夜の電気は余ってるから使って欲しい。それは分る。でも、需要が増えてそれで供給できなくなったら又、原子力発電所を造るのかな?一体、一棟の原子力発電所を造るのにどれだけのエネルギーを必要としどれだけの核廃棄物が放出されるのかな?これってエコロジーなのかな?

 余り知恵の無い頭で無理な事考えて照明付けてると電気代が無駄になるからこの辺で止めて置く。これはエコロジーに繋がるかな・・・「下手な考え休むに似たり・・・エコ」

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八ヶ岳でのログハウス生活 ---木の家設計施工 森のすまい工房(有限会社アシスト

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