2006/04/08

本の話

 突然ですが私は本を読むのが大好きです。子供の頃はガキ大将だったので本とは無縁の生活を送っており、もっぱら外でイタズラ三昧に忙しい子供でした。ですから何時頃から本を読み始めたかというと社会人になってからなんです。きっかけは東京でサラリーマンをしている時に郊外の安アパートから丸の内のオフィス(何と丸の内に通勤していたのですねえ~自分でも信じられないけど・・)まで2時間程かかり電車の中で時間を持て余してしょうがないので本を読むようになったのがきっかけです。

 文庫本なら1日で読んでしまうようになり、これではとても安サラリーでは本を買ってる余裕がないと思い、次に図書館に通うようになりました。そこで5冊ほどの本を借りて読むようにしてその習慣が今でも続いています。自分のパソコンに読書記録をつけるようになってからでも多分500冊程の記録になっているように思います。

 近年は本離れが進んでいるそうでなかなか本が売れないようですが、私は図書館や古本屋さんも好きですが、やはり新刊本のあの独特の紙の匂いをかぐとどうしてもワクワクしてしまいます。だから、本屋さんの入り口に横積みに置いてある新刊本なんかみるとたまらなくなります。もっとも売る方もそれが狙いなんでしょうが・・時間とお金さえ有り余る程あるなら片っ端から新刊本を買ってしまうのだろうな。

 今はなかなか読書の時間が取れなくなってしまったけど毎日寝る前と仕事の移動中に本が読める環境なら本は私にとって手放せないアイテムです。というか、身近に本が置いてないと何か落ち着かないのです。だから、うっかり読む本を切らしてしまうと不安で不安ですぐに本屋にいって2,3冊取り合えず仕入れて身近にストックとして置いておくようにしています。だから時々何冊かの本を併読するので何だかストーリーと登場人物がごっちゃになって訳分らなくなる時もあります。最近、読んだ本では古い本だけど吉村昭の灼熱隋道が一番面白かったですね。私はジャンルに関係なくなんでも読むので図書館にいくと色んなコーナーを一通り見なくてはならないので時間がかかってしまうのと、この本を読むと決める決め手がなかなか思いつかなくてタイトルに左右されたり字の大きさや表紙のデザインだったり最初の書き出しの文章だったり段組の形式だったり全く決まったものがないので困ってしまうのです。勿論、好きな作家のコーナーを重点的にはみるのですが・・

 映画とちがって本は頭の中で自分なりに映像をつくるという作業が煩わしいけど楽しいのでしょうね。想像力もつきますしね。自分の子供にも本だけは小さい時から近くに置いて本が読める環境をつくってきました。時代が変わってもこういう文化は大事にして欲しいし自分が好きな趣味のひとつなのでいつまでも楽しんでいきたいです。

2006/04/01

携帯電話の罪?

最近、子供達をみていると不思議な光景に頭が???となる事が多い。それは友人同士隣り合って座っても互いに携帯をカチャカチャ・・車で迎えにいって後ろに3人くらい乗っけていてもお互いに携帯でカチャカチャ・・・これは一体何なんだろう?と考えた。

最初は「これも時代の流れなんだろうな~」と理解した。そしてこれが新しいコミュニケーションの方法なんだろうなと理解もした。私自身は携帯電話でさえも持ち歩きに抵抗を感じる人間である。何故嫌かというと自分が置かれている状況に関係なく呼び出されるからである。だから、良く電源を切ってしまう。そうすると会社のスタッフや家族から携帯電話をもっている意味がない!と叱られる。そりゃそうだ。だから打ち合わせをしている時や建物の中や施設に入っているときにはマナーモードという事にしている。

今朝、テレビを見ていたら電車の中で時間が出来たときにとる行動は?との問いに一番多かったのが携帯でメールをする。というものだった。ふ~んやはりそうなんだと納得してしまった。

つまり、現代人の人とのコミュニケーション方法は携帯電話が出来たお陰で場所という距離感を飛び越えてしまったと言う事なんでしょうね。だから傍にいる人間との会話にこだわらずに違う場所にいる人とコミュニケーションをとるという事に違和感を持たなくなったと言う事でしょう。だから、隣に座っているのに会話が成立しない。話術というものが必要なくなってしまったんでしょうね。メールで会話するには話術は必要なく顔文字とか感嘆詞とかそういうものの盛り込み方によってそれに代わる方法を見出している。という事かな?

私は誰か知り合いが隣にいたら「何か話題を探して話をしなくちゃ!」という脅迫観念に近い感情をいつも持ってしまいます。それが正常かどうかは分りませんが少なくてもそういう感情はいつも持っています。でも現代は必ずしも傍にだれも居なくても誰かと繋がっているという事なんですね。だから時間と場所に関係なく誰かと繋がっているために「命に次に大事なものは?」と聞かれると「携帯電話」となってしまうのだろうな・・・

一度、携帯を捨てたらどうなるんだろう?もともと無かったんだから別に死にはしないし・・困ることは困るだろうけど・・それもどうしてもという事ではないような気もするけど・・携帯電話は便利だけど一度電磁場とかが乱れるときっとパニックになってしまうのだろうな。

文明って何だろう・・生活が便利になればナルホド昔に返りたがる感情が芽生えるのは何故なんでしょう・・薪割りもそうだし、森の中で火をおこしてコーヒーなんか飲んだら最高に幸せなんだけどな・・・不思議ですね。

2006/03/29

日本で最初に咲く桜

 先日、故郷の高知に用事があって帰ってきました。ちょうど桜の季節で市内のいたる所で桜が咲いており山梨の標高1000m付近に住んでいる身にはオオッ!春だ!と改めて驚きました。

 高知の桜で有名なのは高知城、三の丸に咲いている気象庁が定めた標準木、正式には「植物季節観測用標本木」となっているソメイヨシノです。今年も気象庁発表の公式記録として日本で一番最初に開花宣言が出された桜です。そしてちょうど私が帰郷した前日に同じく日本で最初に満開宣言が出されました。あくまで気象庁が定めた標本木としてですので実際にはもっと早く咲いている桜もあるのでしょうが公式にはこの高知城の桜が日本で一番最初に咲く桜となっています。

 ところで子供の頃にはガキ大将だった私はいつも高知城は遊びのフィールドで登ってはいけない石垣を登ったり鬼ごっこをしたりして走り廻っていました。その頃にもきっと標本木はあったのだと思いますが現在のこのソメイヨシノがそうだったのかは全く記憶がありません。もっとも桜を楽しんでいるような子ではありませんでしたから気が付かなかっただけだとは思いますが・・・現在の標本木となっている桜は高さ3m程の木でよくみると高知気象台の標本木であるというプレートが掛かっておりフト根元をみるとかわいい子供の枝が残っていてそこに一輪の桜が一生懸命咲いていました。

 高知を離れ訪れる事の少なくなった高知城ですが今年はNHKの大河ドラマ「功名が辻」で山内一豊が放送されているのでそれにあやかってお城は改修工事が進んでいました。来月4月からオープンだそうです。ところで日本で天守閣から追手門まで現存している城は3箇所しかないそうです。知らなかったけど地元にいると以外と知らないものですね。

 私にとってはお城はいつもそこにある高知のシンボルであり辛い時、楽しい時、悲しい時にいつもお城にいたような気がします。本当にいつもその節目に何故かお城に足がむくのです。年月が過ぎて城下の風景は一変してしまいましたがお城はいつもその周囲に住む人間のシンボルであり心のより所だったんだなと思います。子供の頃いつも覗いていた追手門の近くの露天の縁台将棋は今でも市民の憩いの場所として賑やかに行われており何だか昔にタイムスリップしたようでした。

 日本で最初に咲く桜・・・来年も鮮やかな姿を見せてくれることを願います。

2006/03/21

やさしさ回帰

最近、色々な環境保護や公害問題とかシックハウス症候群の話を聞く機会が多くて色々な人の話が耳に入ってくる。先日も面白い方の話を聞いた。その方はメデイア関係の方だったんだけど「世の中どんなに技術が進歩しても人間様が生まれるには10月10日かかるんですよ。それが自然の摂理なんです。これは誰も変えられないんですよ。」と言われたのを聞いてナルホド、そりゃそうだなと思いました。

自然の摂理・・・人として生きていく上で最低限必要な「思いやり」や「やさしさ」といった当たり前の事が今、当たり前じゃなくなったからおかしくなった?そんな気がする。食事を食べる時に「いただきます」食べ終わったら「ごちそうさま」こんな当たり前の会話・・皆さんしています?食べ終わった食器片付けますか?最近、「木」にまつわる会合が多くて色んなところで人生の先輩といった方達と同室でよくごろ寝の宿泊をする機会があるのですがこのオジサン達、必ず自分の布団は自分で畳む・・・オジサンである。食事の時は「いただきます」と「ごちそうさん」そして食べ終わったらいそいそとオジサン同士、食器の片付けを始め、中には当然のように食器洗いまでしてしまう。皆さん会合が終わって帰れば立派な会社の社長さん達ばかりである。でも会合ではオジサン同士なのである。時には議論白熱して緊迫した場面になる時もあるがそれはそれで布団は自分で畳む・・・

私の好きな倉本氏の富良野塾での生活を書いた本を読んでいると倉本氏が塾生に求めるのは演劇やシナリオライターとしてのテクニックではなくその前に人としてどう生きるかというテーマである。そしてそれをどう人前で表現できるかという事である。塾生は自分の食べ物は自分で調達するのが原則なので近くの農家に出稼ぎに行く。必然的に演劇を学ぶのは夜間になる。倉本氏の講義は無料。但し、昼間の疲れで居眠りなんかしたら一括されて追い出される。いつも真剣勝負である。人が人として生きていく上で何に感謝して何に感動させられるのか・・それをいつも塾生に問いかけているのです。だからいつも倉本作品には感動が溢れている。その本の中のエピソードを一つ・・ある日塾生の入塾パーテイーで盛り上がり塾生が即興劇をお客様の前で披露し始めた・・・とたんに倉本氏の表情が一変しお客様に向かって「今日は有難うございました。申し訳ありませんが今日はこれでお帰り下さい」と言い。客が帰った後、塾生は呼び集められて「君達はプロを目指した入塾した以上、恥ずかしい劇を見せてはいけない!」と一括したという話がある。言われてみれば当たり前の事ではあるがこんな事、いつも心に本当に思っていないと出てこない言葉である。何に感謝し何に価値を見出して暮らしているかが問われるエピソードである。

もう一度自分に振り返って自分はやさしさを持って暮らしているだろうかと思ってしまう。やさしさとは何でしょうね・・・凡人にはなかなか分りません。

2006/03/12

新月の木を考える

060311 2日間に渡り東京で新月の木に関わる会合が開かれて北は北海道から南は九州福岡まで全国からこの活動に何らかの形で参加されている方達が集まり熱い思いを話合いました。この写真は1日目を終え2日目の午前中の会議の模様です。前日、時が過ぎるのも忘れて結局、酒を飲みながら日付が変わるまで話をしましたがそれでも話は尽きず、この写真のように改めて別の会議室で話題を変えて議論をしてきました。

毎度毎度の事ですが木及び山に関わる人たちの思いはいつも熱く真剣で私は聞いていていつも関心してしまいます。それだけ日本の山の現状は厳しい状況があり今、何とかしなくてはという思いが皆さんの心にあるように思います。同じように設計事務所や工務店側の人たちもどうやったら本当に良い家が「造れる」のか、どちらかというと我々の会に参加されている人達はどうやったら「売れるか」ではなくどうやったら健康で長持ちする家が「造れる」のかにこだわっている人達が多くて「そこまでやってんだ!」って思わされる話が多くていつも勉強になります。

勿論、建築とは全く関わりのないメンバーも多くてそういう方達の話にもいろんなヒントが隠されていて凄く為になります。私にとって多くの方達との交わりが何ものにも代えがたい財産になっています。今回、私は司会という立場で参加させて頂きましたがまた、新しい多くの出会いがありました。今後、この出会いがどういう風に自分に変化をもたらしていくのかが楽しみです。

2006/03/04

与作ツアー0602

0602 今年2度目の与作ツアーが天竜で開催されて私もお客様と一緒に参加してきました。というか私は新月伐採の現認も兼ねて履歴を取ってきました。現認というのは伐採された木の立っていた森の状況や木自体の生育状況(樹齢、樹高、葉のつき方、曲がり、傷等)を1本1本記録してその木が最終的に利用されるまでその情報を開示するものです。最近、食品には当たり前になった産地表示をもう少し詳しくしたようなものですね。

今回の参加者は15名程でしたがみなさん熱心に伐採体験したり倒される木の迫力を噛締めておられました。樹齢80年を超える杉が主体でしたがその巨体が倒れる瞬間に上げる悲鳴のような音に皆さん驚かれていましたね。私達よりはるかに先輩の生物の命を頂いて家の部材に変えようとするのですからその命の重さを実感して大切にその命を受け継いでいかなければならないと知らされる瞬間です。当社のお客様もわざわざ会社の仕事を終えてから真夜中に現地に移動されて参加されましたが、それだけ関心を持って参加されるという事は山で仕事をしている人間にとってはとても有り難い事ですしもっと早くこういう努力をしてこなければならなかったと思います。

今後もこういうイベントがある限りバックアップしていきたいと思います。皆さんもよかったら是非参加してみて下さい。

2006/02/23

ゲーテ曰く

国土緑化推進機構が主催するグリーンボランテイア研修という通信講座を受講してみた。テキストが送られてきてそれに関するレポートを提出する仕組みになっているのだが、その教材の中に「森への憧憬」という本がありその中に興味深い文章を見つけた。

ドイツの著名な思想家ゲーテは林業家との交流が深く、その事がドイツの古典林業家に多くの影響を与えたそうである。そしてゲーテの残した言葉に「自然は常に正しく、過失や誤りをやるのは人間である」(関 泰祐訳編「人生についてーゲーテの言葉ー」より)というのが載っていた。いかにも!と思いましたね。そもそもこのグリーンボランテイア研修の目的の一つは二酸化炭素削減を目指したものなんですがズバリ、ゲーテの残した言葉どおりかも知れませんね。

見られた方も多いと思いますが、先日NHKで「地球未来環境」の特集番組を放映していましたが日本の研究者がコンピューターを駆使して100年後の地球をシュミレートした映像を紹介していました。数値ははっきりとは覚えていませんが、このままの経済成長を人間が続けると100年後の地球の平均気温は4度程度上昇することになるそうです。それも今後、CO2の削減が順調に進んだと仮定しての話だそうです。そうなると日本の四季は現在とは全く変わってしまい米の産地は西日本から東日本に移ってしまい北海道が主な産地になるそうです。海水面の上昇も大きく海抜の低い地域の水没は免れないようです。

これだけのデータが公表されておりしかもこの予想を裏付けるように世界では大きな災害が起こっています。しかし、尚世界はその経済成長を止めようとはしていません。世界地球温暖化防止会議でもアメリカは早々に京都議定書からの離脱を宣言し、これから経済成長を迎えようとしている中国を始めとした国々は大国のエゴだといってCO2削減には消極的な姿勢をとっています。結局、会議では結論が出ずに会議そのものを継続する事を確認するだけに留まりました。

このまま人類が何もせずに経済成長を続けるならば間違いなく地球は人類を排除する方向に動いて行くようになると思います。人間さえいなければCO2は削減出来るのですから・・・そう考えると恐ろしいですね~決して他人事ではありません。現実には既にその兆候が現れ始めているのですから。では、我々は何をすべきでしょうか?負の遺産を未来の子供達に残さない為に我々に出来る事があるはずです。身近な事から始めましょうそして環境に興味を持って行動する事を始めましょう。

何だか今回はすごくまじめな事を言ってしまったような気がするけど振り返ってみてじゃあ自分は何が出来るのか考えなくちゃね。

2006/02/18

頑張れ、日本!

冬のオリンピックが始まりましたね。連日、いろんなドラマが繰り広げられてスポーツ観戦好きの私にはたまりません。しかし、この時差は何とかならないかな~、さすがに連日深夜まで起きてると次の日の仕事に支障があるしな・・・ちょっと辛い。

残念ながら今のところ日本はメダルには手が届いていませんがいいじゃないですか。オリンピックは参加する事に意義があるのです。元来は世界平和を願った祭典なのです。地球上の人類が集まって政治、経済、宗教を越えてスポーツという共通語で平和を誓い合うのがオリンピックなのですから・・・あまりマスコミも金だ銀だと煽りすぎですよね。

よく競技が終わってから10位に「終わりました」って言うけどあれはどういう意味なんでしょうかね。メダルが取れなかったら「終わった」っていう表現をする事に決まっているんでしょうかね。「終わりました」っていう表現は「駄目でした」っていうニュアンスが伝わってきて気になるのは私だけでしょうかね。10位とか20位に終わったって言うけど国の代表選手になるだけでも大変なのに世界20位って素晴らしいことだと思うけどね。自分は絶対なれないし・・良く競技中に転倒して失格したり予選落ちしたりするじゃないですか、あれって本人はすごく辛いんですよ。それまで積み重ねてきた努力がそこで終わってしまうんですから。私も学生時代に陸上をやってて確か四国大会の400mリレーのバトンタッチに失敗して予選敗退してしまって、今でもそのときの事言われることあるけど本人、平気な顔してるけど結構言われると辛いんですよね。特に団体競技で自分が失敗してチームに迷惑かけるとトラウマみたいになるんですよね。

 だから、失敗しても余り言わないであげて欲しいよね。マスコミにコメントなんかを求められて必死に答えてる姿みるとインタビューしている人に「この人、何を言わせたいのかな?」と思うことあるんですよね。一番、辛いのは本人だからね。「頑張ったね」でよいじゃないですか、そしたら素直になれると思うけどね。余りいうと余計プレッシャーになってよい結果を残せなくなるよね。

しかし、今回の冬のオリンピックの日本選手達はみんな凄い!復活を賭けたベテランの頑張りや無名の若手の台頭などを見てると現役選手としての意地と意地のぶつかりあいのようで素晴らしいと思います。4年に一度のオリンピックに3度も4度も出場するなんて12年から16年近く体をいじめて最高の筋肉の状態を保つという事は凄い努力が必要だと思います。それは毎日、日夜、努力しないと保てないですよね。私も現役で陸上選手をしている時1日練習を休むと取り返すのに2週間かかると言われました。それ位大変なんですよね。

スポーツは嘘をつかない!ドラマがある!だから私は大好きです!ぐあんばれ!にっぽん!

2006/02/13

ギフトショー

00003 普段、よく一緒に遊んでいる絵本村のマジョさんのお手伝いで東京ビックサイトに行って来ました。毎年、冬と秋の年2回、ビックサイトで開催されている東京ギフトショーへの出展の為に絵本村のスタッフと一緒に作品の搬入をしてきました。毎回、日本中から多くの企業が出展するので大変な賑わいとなるイベントです。明日から17日の金曜日まで開催されます。絵本村が出展しているブースは東4になります。マジョさんとホーキさんが期間中、ブースで頑張っていますので東京近郊の皆さん並びに東京に遊びに行かれる方は時間がありましたら是非、お立ち寄りください。その際には差し入れをお忘れなく!

2006/02/07

マスメデイア

最近、テレビを見ているどうもメデイアの行き過ぎた報道姿勢を感じる。アメリカ社会ではメデイアをいかに操作するかが政治の重要なファクターになっているらしいが日本も何だかそんな気がしてくる。最近では「建築構造設計偽造問題」「ライブドアによる粉飾決算」「BSE問題」「東横インの違法改造事件」等、何だかメデイアにはもってこいの視聴率の稼げる問題が目白押しである。そんな中で気になるのは報道陣の当事者に対する質問の仕方である。いつも報道関係者側は「善」で報道される側は「悪」といった勧善懲悪の構図が鼻についてしょうがない。悪い事をした者はメデアの前では兎に角ひたすら涙を流し謝罪しなければ許されないといった姿勢を感じてしまう。果たして報道する側にそんな権利があるのだろうか?

社会的に許されない事をした事は確かに悪い。しかしそれを国民の見ているマスメデアを通じて断罪させる権利があるのだろうか?私はメデイアは事実を淡々と伝えるのが義務だと思う。かつてのオーム真理教による松本サリン事件における冤罪すれすれの報道姿勢の反省は無いのだろうか?確かにメデイアは大きな力を持っている。しかしそれを報道の権利として振りかざし、まるで警察の尋問と思えるような詰問を逃げ場の無い人間に浴びせかけ、それが報道の正義だと言うのならちょっと違うのではないだろうか。

見方を変えればメデイアの前でだけ本心を隠して社会通念的に正しい姿勢を貫き通せば社会的な制裁を免れるような事になりはしないだろうか。その一端をメデイアが担いでしまっている事になっていないだろうか。事件報道の前にあれだけ自信たっぷりだった被疑者が報道されたことによる影響に気が付いてまるで人が変わったように涙の記者会見をする姿を見ているとメデイアの求めていたのはこの謝罪する姿だったのだろうかと思う。もしそうならばメデイアの果たす役割とは何だろうと疑問に思わざる得ない。メデイアの果たす役割とは謝罪する姿を見せることではなく何が真実だったかという事ではないだろうか?昨今の報道番組をみているとどうも悪者探しと司法に代わってまるで遠山の金さんのお裁きをみているような気がするのは私だけだろうか・・・

マスメデアを敵にしては社会的に生きていけない。そんな風潮がないだろうか?そんな気配にすごく危険を感じる。メデイアを否定するきはさらさらない。時には弱者が社会的強者に立ち向かう強力なバックアップになれる。そういう意味では重要な力である。しかし、その力を間違って使ってはならない。それくらいメデイアの影響力は計り知れない程大きいと私は思う。間違った方向にいかないようにメデイアを見ている我々も自身の感性を磨いて何が真実なのかを判断しなければならないと思う。

アシストのHPへ
八ヶ岳でのログハウス生活 ---木の家設計施工 森のすまい工房(有限会社アシスト

プロフィール

フォトアルバム

kikori

フォトアルバム